第54話「はじめての喧嘩」
「陽信くん……七海さんは非常にお怒りなのですよ?」
「待って七海さん、いきなりキャラがおかしいんだけど。何その口調。ギャルでも先生キャラでも無くなってるんだけど。可愛いけどさ」
日曜日のデートが終わって二日後……
昼食を食べ終わり、流石に学校内で二人きりは難しいと諦めて、せめて人が少ない場所にと……ほとんどの生徒が遊びに出払っている自分達の教室でまったりとしている最中である。
自分の彼氏である陽信へと怒っていると主張するが、口調は荒くなく、むしろどちらかというと真剣な口調ではある。しかし、怒っているという主張である以上は、陽信としては話を聞かざるを得なかった。
ただ、可愛いと言われた瞬間に顔はデレッと崩れて……それでも怒りを表現するかのようにすぐにその顔を真剣な物へと変化させる。
まるで百面相のようだが、いったい彼女が何に怒っているのか……実は陽信には見当が既についていた。見当がついているからこそ困り顔の陽信に対して、七海はビシッと、その細く綺麗な人差し指を突き付ける。
「それっ! それだよー陽信!!」
「え……? どれのこと……七海さん……」
「ほらー、また『さん』付けするー」
人差し指をグルグルと回しながら七海は、あえて惚けたような言葉を発する陽信を非難するように口を尖らせる。対して陽信は、やっぱりそのことかとため息をついてしまう。
「せっかくさー、二人きりの時は呼び捨てしてくれるようになったんだから……学校でも『さん』付け止めようよー。ねー?」
「いやぁ、そうはいってもさ……。正直、みんなの前で呼び捨てってハードルが高いんだよ」
「私は平気だけど? そんなに恥ずかしいかなぁ……呼び捨て……? あ……私って、呼び捨てするのに恥ずかしい彼女?」
「そんなわけないでしょ……。単に僕の……慣れの問題だよ。流石に人前で呼び捨てはまだちょっとさ……」
ちなみに……その二人の会話が周囲の人間から聞き耳をたてられていることに、二人は全く気付いていなかった。
何せ学校でもトップクラスの女子と、今まで目立たなかった男子のカップルなのだ。気にならない方が嘘だろう。周囲の人間は自分達の会話をしながらも、この二人の会話を気にせずにはいられなかった。
ただ、その気にする内容が……最近では徐々に変化してきているのだ。
現時点で教室にいる周囲の生徒たちは、やっと二人は互いを呼び捨てする間柄になったのかと、密かに二人の会話内容に安堵している。そんな風に二人の交際を見守っているのが、今教室に残っている生徒の大半だった。
もちろん、わざわざそのために教室に残っているのではなくあくまでも偶然だが……それでも見守っているのは事実だった。
二人が交際し始めた当初は陽信には妬み、嫉み、怨嗟……、七海には懐疑、侮蔑などの……いわゆる負の感情が込められた視線のみが二人には注がれていた。そしてその負の感情は「いつ二人が別れるか」という、少し不謹慎な賭けが生徒間で密かに行われる形で現れた。
しかし、二人は別れる様子はなく……むしろ日々仲睦まじい姿を見せつけてくる。
七海に至っては、恋をしたことによる効果なのか、日々その美しさに磨きがかかっており、元々あった人気がさらに高まる結果となっていた。
陽信は相変わらず地味な男子と言う評価であったのだが……七海との会話の端々に見せる男らしさや、七海に特化したその行動力から、少しずつではあるが学内での評価も高まっていた。
そしてそんな二人の姿を見続けるうちに、賭けに参加していた生徒達はいつしか己の心を恥じて、二人を見守る様になっていった。
ただ、賭け自体は継続中である。賭けの内容は「いつ別れる」のではなく「いつまで交際が継続するか」という内容になり、だいたいの生徒が「別れず結婚までいく」に賭けるという状況になっていて、あまり意味のない賭けなのだが……それでも賭けは継続中だった。
もちろん、好意的に見守る人間ばかりではなく、未だに二人を陰で誹謗中傷する人間もいるが……それでも二人に対して何かしようという生徒は現時点では皆無だった。
そして、そのような賭けが行われていること、密かに見守られていることを知らない二人は、周囲に人が居てもいつも通りの会話を継続する。
「一回やっちゃえば平気じゃない? はじめの一歩、最初の一歩、なんにでも初めてはあるものでしょ。私等の初めてなんてこれからいっぱいあるんだし、いまなら教室に人数も少ないしさ。呼び捨てしてみてよー、ほらー」
「いや……少なくても、学校……外ってのが僕にとってはハードル高いんだよ……」
首を傾げながら可愛くおねだりする彼女の言葉でも、陽信には教室で呼び捨てにするというハードルは非常に高いものだった。
いつもだったら、そのハードルを破壊したりする陽信ではあるのだが……今回はどうしてもそのハードルを壊せる気がしていなかったのだ。
「えー? あ、それとも違う呼び方する?『○○たん』とかそんな感じの呼び方でも良いよ?」
「ちょっと待って、なんでそんな呼び方を知ってるの?!」
「ん? ピーチちゃんに教えてもらったんだー。陽信、ゲーム内で「○○たん可愛いよねー」とか言ったことあるんだって?」
「……僕そんなこと言ったかなぁ……なんでピーチさん、僕が忘れてるそんなこと覚えてるの?」
その辺は、ピーチという恋する乙女が好きな人の言葉を一言一句聞き逃すまい……正確には見逃すまいと記憶していた結果である。
そして、その乙女が蓄積した情報は、いまでは七海に託されているのだが……ピーチの好意に気づいていなかった陽信にはそこまで思い至ることはなかった。
「まぁ、いいじゃない。それで? 呼び捨てとたん付け、どっちがいーい?」
「七海さん……どっちも勘弁してほしいんだけど……言わなきゃダメ?」
一度、机に突っ伏してから顔を上げて困った表情を浮かべる陽信の姿に、七海は少しだけグッときてしまったが……彼女はそれを表に出さないように堪える。
「陽信くん、そう言うところですよ七海さんがお怒りなのは」
「いや、七海さんも『くん』付けして……」
「私のことは置いといて……どうしても……嫌かな?」
その言葉に、陽信は沈黙で答える。少しだけ唇を開いては閉じてを繰り返して……
「七海………………さんっ……」
やっぱり駄目だった。陽信は少しだけ申し訳なさそうに伏し目がちになるのだが、そんな陽信の目の前には頬を膨らませてご立腹の七海の姿があった。
「むー……もういいっ! 陽信の……ばかっ!」
頬を膨らませたまま、プイッとそっぽを向いた七海の言葉と同時に昼休みが終わる予鈴が鳴る。馬鹿という言い方は可愛らしいのだが、その姿は七海が初めて見せた明確な陽信に対しての怒りの表現だった。
その姿に陽信は焦ってしまい、その両手を所在なさげに宙に漂わせる。しかし、言葉が出てこないままに……教室には人が戻ってきて昼休みは終了してしまう。
その二人の初めての喧嘩とも言える光景を目撃した生徒達も……二人に言葉をかけられない自分達をもどかしく思いながら……陽信と同じように心中で焦ってしまうのだった。
……そしてそれはほどなくして、二人の間の違和感を感じ取った
結局、陽信は午後の授業の休みの間、七海とまともに喋ることができなかった。話しかけてもプイッとそっぽを向かれてしまう。それがショックですごすごと引き下がり……何気に陽信のダメージは深刻だった。
ちなみに引き下がる陽信の姿を見た七海は、その背に寂しそうな視線を送って手を伸ばすのだが……引っ込みがつかないのか、その手を彼に触れさせることは無かった。
周囲からしてみれば七海の仕草は「構って欲しくて拗ねてる子供」の仕草にしか見えず、そこで諦める陽信に少し疑問を持ちながら『もっと押せ!! いつもみたくグイグイ行けよ!!』とやきもきしながらも、二人を見守るしかない……そんな歯がゆい状態になっていた。
そして放課後……分かりやすく凹んでいる陽信の元へと、二人の女生徒が近づいた。
「なぁ、簾舞? ちょっといいかい? 七海には話つけてるからさ。待っててくれるって」
「あ……音更さん……神恵内さん……うん……いいよ……僕今……いつも以上に暗いけど気にしないでね……」
そのまま陽信は二人促されるままに、ちょうど屋上に向かう階段の踊り場へと連れて行かれる。その背中は寂しそうであり、どこか哀愁を漂わせていた。
そして、陽信は気づかなかったのだが……七海は両手を合わせて謝る様に初美と歩に頭を下げ、二人はそんな七海に対して親指を立てて返答するのだった。
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