第45話「彼女の家に泊まった夜」

 僕等が知らない間に、僕が茨戸ばらと家に泊まるという方向で話が進んでいる。うん、なんでそうなったの?


 その驚愕の事実に、七海ななみさんは両頬に手を添えて顔を赤くしており、睦子ともこさんは相変わらず優しい微笑みを浮かべている。


 僕は緊張からか全身に変な汗をかいてしまっている。……まずは状況の整理だ。


 いつもの流れであれば、僕はこれから七海さんと勉強して……それから厳一郎さんに送ってもらって帰宅するという流れになっている。


 でも今日は、厳一郎さんがお酒を飲んで帰ってくるから車では送っていただけないという話だ。


 ただそれだけの話なのだが……なぜそれが泊まるという話に発展するのだろうか?


「……僕は普通に徒歩と電車で帰ればいいのではないでしょうか?」


「あらあら、陽信君……我が家にお泊りは嫌なのかしら?」


「いえ、嫌じゃないです」


 ここで嫌ですと、答えられる男がいるのだろうか? 正直、その聞き方はズルいと思わざるを得ない……。


 嫌であるわけがない。そう、嫌ではないのだが……色々と問題が無いでしょうかという点を僕は心配しているのだ。


「ちなみに、志信しのぶさんとあきらさんの許可は得ているから心配しなくても良いわよ? ほら、これ」


 睦子さんはスマホの画面を僕に見せてくる。そこには「簾茨みすばら同盟どうめい」と言う名の、僕の両親と七海さんの両親によって作られたグループ名が表示されていた。


 色んな写真がそのグループでは共有されているようだが、問題は今日のやり取りである。


『明日お二人は戻りますよね? 今日、陽信くんをうちに泊めようと思うんですけど良いですか? もちろん、高校生らしい範囲です』


『それなら問題ありません。陽信が七海さんに不埒なことをしようとしたら、遠慮なく怒ってやってください』


『まぁ……僕の息子ならそんな度胸は無いと思うけど……。ご迷惑で無ければ、よろしくお願いします』


『迷惑なんて無いですよー? 厳ちゃんがいないので、防犯面でも陽信くんがいてくれた方が有難いですし♪』


『睦子さん、なんですか旦那さんへのその呼び方、良いですね。私もアキちゃんとか呼ぼうかしら。私はシノちゃんとかかしら? ちなみに……睦子さん的には、どこまでなら今日はOKと考えてます?』


『そうですね〜……添い寝くらいなら?』


『なるほど、妥当な所ですね。添い寝くらいなら健全です』


『志信さん、呼び方についてはちょっと待とうか。あと……健全な男子高校生に対して、添い寝は逆に生き地獄ですから、止めましょう』


『あら、あなたも昔はよく添い寝が嬉しいって言ってたじゃない?』


『アレは嬉しいけど、理性との戦いだったんだよ……』


 そんなやり取りだ……僕も七海さんもその文面を見て頭を抱えた。まさか親同士でこんなやり取りがなされていたとは……。


 て言うか、両親の見たくない話まで見せつけられてしまった。


「あらあら最近は色々と物騒だから。男性がいると安心っていうのは本当よ? それにほら、お付き合いして三週間目だから、そろそろそんな思い出くらい作っても良いんじゃないかしら?」


「まぁ……僕としては断る理由は全くないんですけど……七海さんは……大丈夫?」


 僕は後ろを振り向いて七海さんに確認をするのだが……。


「添い寝……添い寝って何……? 添って……添って寝るの? 同じベッドで? 陽信……と? ……可愛い下着……あったよね……確か……いや、そこまではしないし……でも……」


 ぶつぶつと……だけど僕と睦子さんに届く程度の声量で七海さんは顔を真っ赤にしながら自問自答を繰り返していた。


「あらあら、七海にはまだ刺激が強かったかしらね? 添い寝は無理そうね〜。それじゃ、別な部屋にお布団敷くわね?」


「僕も照れ臭いですし……色々と我慢が必要ですから。流石に別の部屋でお願いします……」


「お姉ちゃん……意外にむっつりだったんだね……」


 いつのまにか沙八さやちゃんが現れて、七海さんを呆れた目で見ていた。


 むっつりって表現はやめてあげて。彼女は単に自爆気質なだけだから。むっつりはどっちかというと、僕の方だから……。


 そこで僕は、ふと感じた疑問を沙八ちゃんにぶつけてみる。


「沙八ちゃんはいいの? 僕みたいな男が一つ屋根の下に泊まるとか……」


「私は別に良いよ? だってお義兄ちゃん、お姉ちゃんにしか興味ないでしょ?」


「まぁ、そうだけどさ。ほら、年頃の女子として思うところはないのかなって」


 完全に見透かされたような発言をされてしまった。


 なんか改めて言われると照れくさいね……確かに七海さん以外には興味はないのはその通りだ。


 でも、沙八ちゃんが嫌だと言えば無理に泊まるわけにはいかないと思うんだよね。そう考えたうえで確認をしたんだけど……。


「……サラッとそういう返答をしている時点で、なんも思うところはないかなー? じゃ、お姉ちゃんと仲良くねー」


 沙八ちゃんは僕にまで呆れるような視線を送りつつ、そのまま自分の部屋に入っていった。


 どうやら沙八ちゃんは、僕がいても気にしないでくれるようだ。


「あらあら、沙八も大丈夫みたいねー。じゃあ何の問題もなくお泊りできるわねー」


 この時点で僕に拒否権は無くなった。まぁ、皆さんに嫌がられていないなら正直ありがたい話ではある……。


 睦子さんが変にグイグイ来ていることを妙に感じながらも、七海さんと一緒の部屋で眠らないのであれば大丈夫だろうと、僕はこの提案に甘えることにした。


「それじゃあ、お言葉に甘えます。よろしくお願いします。あ、力仕事とかゴミ出しとか、厳一郎さんがやっていたことがあれば手伝いますので、言ってください」


「はい、よろしくね。それで、陽信くん。お風呂は先に入る? それとも後から入るかしら?」


 再度その質問に戻ってしまった。というか……常識的に考えて家主を差し置いて先にお風呂に入るってありえないよね……そう思って、僕が答えようとした瞬間……。


「陽信!! お願い! お風呂の順番は私に決めさせて!!」


 色んな意味で戻ってきた七海さんが、大声で僕の言葉を遮ってきた。


 いや、そんな順番くらい……と思った後で、僕は七海さんの顔を見て、その言葉の意味を理解する。


 ……そうだ、お風呂に入るってことは……七海さんの後に入るのか、七海さんが後に入るのか……そう言うことじゃないか……なんで気づかなかったんだろうか。


 いや、普段は家に帰ってから一人で入っているから思い至らなかった……。


 これは……僕が決めるには難問すぎる。七海さんの懇願に、僕は冷や汗をかきながら黙って頷いた。


 七海さんはそれから……たっぷりと時間をかけて考え込む。きっと頭の中では様々な考えがぐるぐると渦巻いているのだろう。僕もなんだか緊張してきた……。


 睦子さんは七海さんを黙って見守っている。口出しする気は無いようだ。


「決めた……陽信……一番最初にお風呂に入って。その後で……私が入るから」


 意を決した七海さんのその言葉は、有無を言わせぬ迫力があった。僕は思わず唾を飲み込み、言葉を発することなく首肯することしかできなかった。


「あらあら、それでいいのね? それじゃあお風呂が沸いたら呼ぶから……それまで勉強頑張ってね~」


 それだけ言うと睦子さんは立ち去っていき……僕等は無言で七海さんの部屋へと入っていく。僕等がやっと口を開けたのは、勉強の用意をして少し経った後だった。


「七海さん……いや、聞くのも何なんだけどさ……最初に僕が入ってよかったの?」


「だって……私が入った後のお湯に陽信が浸かるとか……無理……恥ずかしくて死んじゃう……!!」


 あー……やっぱりそうだよね……。僕も七海さんが浸かった後のお湯に浸かるとか……いや、まぁ……。うん……落ち着かないね。


「それってさ……僕がシャワーだけで済ませればいい問題だと思うんだけどさ……」


「ダメだよ、ちゃんとお湯に浸からないと疲れは取れないんだよ? 今日は週末だし……花の香りのバスボムを入れるからさ、リラックスできると思うよ?」


「でもさ……僕が入った後のお湯に……七海さんも入るんでしょ……? 流石に……照れくさいというかなんというか……だから……シャワーで済ませようかなって」


 その可能性に……ここで気づいたのか七海さんも顔を赤くして下を向いてしまった。


 しまった、余計なことを言った。黙ってシャワーで済ませてればよかった……。


「……七海さん?」


「いいの!! 私は大丈夫だから! 陽信は気にせずちゃんとお湯に浸かってよね!! わかった!?」


 七海さんは開きなおったように叫ぶのだけど……それはそれで恥ずかしいのでお互い顔を赤くしてしまう。


 それから僕らが落ち着くまでしばらくかかった。途中で睦子さんが、それをわかっていたかのように温かいお茶を持ってきてくれたので、それを飲んで一息ついて……。


「……勉強しようか」


「……うん、そうだね。じゃあ陽信、今日の復習からやろうか。どこか分からないところあった?」


 落ち着いた僕等はいつものように勉強をし始めた。それからしばらくは僕ら二人はお風呂の事も忘れて……いや、逆に雑念を振り払うように、勉強に没頭する。


 それはもう凄い集中力で今日の復習を行い……勉強会は無事に終了する。


 そのあと僕は、睦子さんに頼まれた力仕事などをこなしたり、朝に出すゴミを纏めるのを手伝ったりして、七海さんとは極力お風呂の話をしないようにしていた。


 だけど時間が経つにつれてそれは無視できなくなっていき……そして……ついにその時は訪れた。


「あ、お風呂沸いたみたいだから……陽信くん、先に入ってね」


「あ……はい……なんかすいません、家主を差し置いて先にとか……」


「あらあら、気にしないで。あ、コレを入れてね。ゆっくり浸かって……疲れを癒してね?」


 僕は睦子さんに良い香りの丸いバスボムを手渡されるとお風呂場まで案内される……。


 なんか、一歩一歩が緊張してくる。お風呂場がすごく遠く感じてしまう。


 そして洗面室につくと、睦子さんは「ごゆっくりー」と言って、その場の扉をゆっくりと閉めた。


 洗面室には当然……僕一人となる。


 後に取り残された僕は……覚悟を決めて茨戸家のお風呂へと入る。


 ……えっと……確か脱いだものは、このカゴに入れてって言われてたよな……。


 よくよく考えたら、後からお風呂に入ってたら七海さんが脱いだものがこの場所に置かれていた可能性もあるのか……やっぱり先で正解だったかも……。


 僕はそのままお風呂に入りバスボムを入れ……自分の家ではないお風呂というのは、何とも言えずに落ち着かない気分ではあったけれども……ほんの少しだけ念入りに身体を洗う。


 あくまでも身だしなみ……これは身だしなみだ。


 使わせてもらったシャンプーの香りは……いつもの七海さんの香りと同じで……なんだか彼女と同じ匂いになるという事実に少しだけむず痒い気持ちになる。


 それから湯船にゆっくりと浸かると、花の良い香りがして……今日一日の緊張やら疲れが、全て取れていくような気持ちになっていった。


 漫画とかならここで、七海さんが背中を流しに来る展開とか何だろうけど、流石にそんなことは起こらず……僕はそのまま湯船に浸かって温まる。


 ……そう、七海さんが来ることは無いと思っていたのだが……不意にお風呂の外から……七海さんの声が聞こえてきた。


「あのさ……陽信……お風呂……どうかな? 気持ちいい?」


 驚いた僕は湯船をバシャリと鳴らしながら、お風呂の扉へと視線を送る……まさか? そんな展開?


「あ……うん……気持ちいい……です……」


「えっと……今日はありがとうね、お母さんの無茶振りに応えてくれて……ここにさ、パジャマとバスタオル置いておくから……使ってね」


 それだけ言うと、七海さんの足音がパタパタと遠ざかっていくのが分かった。


 別に一緒に入るわけでもないのに、声が聞こえるというだけで僕は相当に驚いてしまった。……いや、期待なんてしてないよ?


「はぁ……」


 声を聞いたおかげで、今更ながらいつも七海さんがここで入浴している事実に改めて緊張してしまうが……お湯の温かさと良い香りのおかげか……その緊張もすぐに解れていった。


 そして十分に温まりリラックスした僕は……七海さんたちの元へと戻っていく。


「ありがとうございました。気持ち良かったです」


「いえいえ……それじゃ次は七海が入ってね。お母さんは最後に入るわ」


「うん……。あ、陽信……ちゃんと髪乾かした? ドライヤーやってあげようか?」


 お風呂から上がった僕は、ちょうど七海さんと睦子さんが一緒に居たのでお礼を言う。


 僕はベリーショートにしてからドライヤーをあまり使わなくなったのだが……七海さんはそれが気になるのか僕にドライヤーをかけようとする。


 せっかくなので、僕は七海さんの申し出を受け入れた。


 七海さんは満足げ気な笑顔を浮かべて僕にドライヤーをかけてから、お風呂場へと移動していった。……人にしてもらうって凄い気持ちがいいな……。


 ……その様子も睦子さんにはバッチリ動画に撮られていたけど……今更だよね。


「それじゃあ、陽信くんの寝る部屋に案内するわね。ついてきて」


 動画を撮り終えて満足した睦子さんについていくと、そこは多くの本が置かれた和室……いわゆる書斎というやつだろうか? そこに布団が一組敷かれていた。


「普段はあまり使ってない部屋なんだけど、ここで良いかな? それとも七海の部屋の方が良い?」


「……いえ、ここで充分です。ありがとうございます」


 七海さんそっくりな揶揄うようなその笑顔を、僕はかろうじてスルーすると、睦子さんは少しだけつまらなそうに口を尖らせて部屋から出て行った。


 厳一郎さんが帰ってきたら挨拶したいので、教えてくださいとだけ伝えると、睦子さんは笑顔で「わかったわ~」とだけ答えてくれた。


 一人になった僕は、とりあえずその布団の上に寝そべって、スマホを取り出して操作し始める……起動するのはいつものチャットアプリだ。


 行うのは……バロンさん達への今日の報告だ。


 いきなり彼女の家に泊まるという話をしたら、なんだか混乱した内容が返ってきて少しだけ面白かった。


 僕だって混乱しているのだ、向こうはもっと混乱しているだろう。


 しばらくチャットをしていると……不意に部屋の外から七海さんの声が聞こえてくる。


 最初は気のせいかとも思ったのだが、それは気のせいではなかった。確かに七海さんの声だ。


「陽信……あのさ……ちょっと……お話しできるかな? ……まだその……眠くないから。あ、お母さんの許可は取ったから……心配しないで……」


 部屋の外から七海さんの声が聞こえて来て……僕は緊張から一瞬だけ言葉に詰まるが……七海さんを部屋に招き入れる。


 部屋に入ってきた七海さんは……可愛らしい薄いピンク色のパジャマ姿で……毛布を一枚だけ持ってきていた。あくまでもそれは防寒用だろう。


 風呂上がりのためか彼女の頬は上気しており、かすかに見える鎖骨部分が何とも言えず色っぽい雰囲気を醸し出している。


 僕は今からこの彼女と、この部屋で二人っきりで話すのかと思うと……途端に緊張してしまう。


 思わず飲み込んだ唾の音が、彼女に伝わっていないか……僕はそんなことを気にしていた。

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