第38話「迷子の女の子」

 僕と七海さんはそれぞれが驚かせないように、優しく女の子に声をかけたのだが……それでも女の子は驚いた表情を浮かべてしまった。ちょっと突然すぎたかな?


 僕が少しだけ躊躇っている間に、七海ななみさんは即座にその場にしゃがみ込むと、女の子と目線を合わせるようにして柔らかく微笑んだ。


 最初は驚いた表情を浮かべた女の子だったが、七海さんの笑顔を見て少し安心したのか、涙は止まり僕等の方を不思議そうな表情を向けて首を傾げる。


「……おねぇちゃん……おにぃちゃん……だぁれ?」


「私はねー、七海って言うの。七海お姉ちゃんだよ? こっちは陽信ようしんお兄ちゃん。よろしくね? お嬢ちゃんは、お名前言えるかな?」


「ななみおねぇちゃん……ようしんおにぃちゃん……わたし……ユキ……」


「ユキちゃんかー、可愛いお名前だね。よろしくね、ユキちゃん」


 七海さんはユキちゃんに対してそっと手を伸ばす。ユキちゃんは自分と目線を合わせてくれている七海さんに安心したのか、七海さんから差し出された手を、おっかなびっくりしながら……ゆっくりと触れる。


 七海さんは触れられた後にさらに優しく微笑むと、ユキちゃんを安心させるように、そのちっちゃい手を包み込むように握ってあげていた。


「ユキちゃん、座ってちょっとお話しようか? 疲れちゃったよね? あっちの椅子までいける?」


「うん……だいじょうぶ……」


 ユキちゃんの手を握ったまま、ゆっくりと立ち上がった七海さんは、そのままユキちゃんの手を引いて、ふれあいスペースの椅子まで移動しようとする。その時に、ユキちゃんは僕の方を見てきた。


「おにぃちゃん……」


 まだ不安な表情を浮かべているユキちゃんは、僕にもおずおずとその手を伸ばしてきた。だから、僕もその手を取る。


 とても小さく……可愛らしい手だ。普段握っている七海さんの手とは全く違う、子供の手。その手を安心させるように、僕も優しく包み込む。


 他の人は誰も気づかなかったのかな? こんなちっちゃい子が泣いているのに……。きっとスタッフの人がそのうち見つけていたんだろうけど……それでも、早めに僕等が気付けて本当に良かったと思う。


 七海さん、ユキちゃん、僕……この三人で並んだ形で、僕等はゆっくりと、ユキちゃんの歩幅に合わせて、椅子のところまで移動する。


 七海さんはユキちゃんをだっこしてから椅子に座らせると、目の前にしゃがみ込む。あくまでも、女の子と視線を合わせることを心掛けているようだ。


 ユキちゃんはまだ少し落ち着かない様子だったので、僕は近くの自販機でジュースを買うことにした。安直かもしれないが、こういう時は好きなものを飲むとホッとするものだ。


「ユキちゃん、リンゴジュースとオレンジジュース……どっちが好きかな?」


「……オレンジ……ありがとう……おにぃちゃん」


 ちょうどパックの自販機があったので、僕はオレンジジュースを1つ購入してユキちゃんに手渡すと、彼女は器用にストローを刺してジュースを飲み始める。


 涙の後は残っているが、ほんの少し落ち着いたようだった。


「なんかね、ママと暗がりではぐれてそのまま歩いてたら、ここに来ちゃったみたい。周りに人が沢山いるうちは平気だったみたいなんだけど……みんな一斉に居なくなっていくから、急に心細くなっちゃったみたいで……」


「そっか……じゃあ、ママのことを探してあげないとね」


 どうやら七海さんは、僕がオレンジジュースを買いに自販機まで移動している短い間に、ユキちゃんの事情を聞いてくれていたようだった。なんて頼もしい……。


 とりあえず事情は分かったし……たぶん、ユキちゃんのママさんも探しているだろうから……まずは館内のスタッフの人に伝えないとダメかな。パンフ内には迷子センターとか無かったから、まずはスタッフの人を探さないと……。


 ほんの少しだけ落ち着いたユキちゃんを見て、この場から移動しようしたところで……ユキちゃんは悲しそうに呟いた。


「パパね……きょう……おしごとになっちゃって……ママとふたりできたの……パパにきらいって……いっちゃった……バチがあたったのかなぁ……ママァ……パパァ……」


 ユキちゃんはしょんぼりしながら、また目に涙を溜めはじめる。


 僕がそんなことないよと言おうとしたところで……七海さんがユキちゃんを真正面から優しく抱きしめてあげていた。それはふんわりとした、それこそ……本当のお母さんのような抱擁だった。


「だいじょーぶだよ、ユキちゃん……パパがお仕事なのはママとユキちゃんのためだし……嫌いって言っちゃったなら、後で謝ったら許してくれるよ? パパの事、本当は大好きなんでしょ?」


「うん……だいすき……ママも……パパも……だいすきなの……パパ……ゆるしてくれるかなぁ?」

 

「うん、許してくれるよ。私もね、パパと何回も喧嘩して、何回も仲直りしてるんだから。絶対に大丈夫だよ。パパも、ユキちゃんのことが大好きだよ」


 七海さんの言葉を聞いて、ユキちゃんは安心したように笑顔を浮かべる。


 なんて言うか……七海さんは凄いなぁ……。こんな風に子供を安心させてあげることなんて、僕にはきっとできない。冗談じゃなく、本当に良いお母さんになりそうだ。


 ユキちゃんが落ち着いたことを確認すると、七海さんはゆっくりとユキちゃんから離れて、二人はお互いに微笑み合っていた。


 ユキちゃんの目には涙が溜まっていたので、僕は持っていたハンカチで優しくその涙を拭いてあげると、彼女は椅子からぴょんと飛ぶように降りた。


「ありがとう、おにぃちゃん、おねぇちゃん……」


 ユキちゃんはぺこりとその場で頭を下げる。ちゃんとお礼の言える良い子である。


 ユキちゃんはまたおずおずと手を伸ばしてきたので、僕と七海さんは、先ほどと同じようにユキちゃんを両サイドからその手を握ってあげる。


 さて、それじゃあユキちゃんの両親を探すのに移動しようか……。僕等はそこからゆっくりと歩き出した。


「おねぇちゃん……ママよりおっぱいおっきいねぇ……。おにぃちゃんも、おねぇちゃんのおっぱいすきなの?」


 スタッフを探して歩いていると、いきなりとんでもない質問をユキちゃんがぶっこんできた。


 子供ゆえの無邪気な質問……いやまて、「も」ってなんだ? 「も」? ……あれかな、お父さんがふざけてそういうことを言うタイプのお父さんなのかな? 悪影響じゃないかな?


「ユキね……ままのおっぱいすきなの……だっこしてもらうとやわらかくっていいにおいで……すごくすきなの……」


 あぁ……そういう意味か……まだ見ぬユキちゃんのお父さんに心の中で謝罪しながら、僕はどう答えたものかと考える。


 隣の七海さんはユキちゃんの質問に赤面しているが、僕の方を何かを期待するような視線を送ってきている。うん、ここで答え方を間違えたら駄目だよね。慎重に慎重に……。


「……僕はね……お姉ちゃんのことはおっぱいだけじゃなく、全部大好きなんだよ……。ユキちゃんも、ママのおっぱいだけじゃなくて、ママが全部大好きでしょ? それと同じだよ」


「うん……ゆき……ママがぜんぶだいすき……おんなじだね、おにぃちゃん」


 おんなじ……と言うところでユキちゃんは僕にも安心してくれたのか、その顔に可愛らしい微笑みを浮かべて僕に向けてくれた。


 七海さんも僕の回答に満足したのか、僕にウィンクを送ってきてくれた。よかったけど……公共の場で『おっぱい』って単語使うの凄い恥ずかしいね……。


 まぁ、七海さんから初ウィンクをいただいたので、そんな恥ずかしさはどうでもよくなるけど。


 僕等はそれからスタッフの人を見つけて事情を話すと……ちょうど彼等もユキちゃんを探している所だったらしく、お母さんが待っている場所まで案内してくれることとなった。


 入れ違いにならないようにと、万が一の事故が起きないように親御さんはスタッフルームで待ってもらっているそうだ。きっとお母さんもやきもきしているだろう。


 そしてスタッフルームに入った瞬間に……ユキちゃんの姿を確認したご両親はその顔に涙を浮かべて、ユキちゃんの名前を叫ぶ。え? ご両親……?


「ユキちゃん!!」


「ユキ!!」


「ママ!! えっ……パパ!?」


 そう、スタッフルームにいたのはユキちゃんのご両親だった。あれ? お父さんは来てないって言ってたのに……。三人は駆け寄ってお互いを抱きしめ合って、再会を喜び合っていた。


 しばらく抱き合っていた三人だが……やがてユキちゃんはパパさんに対して謝罪の言葉を口にする。


「パパ……ごめんなさい、きらいっていってごめんなさい……パパ……だいすき……だいすきだよ」


「パパの方こそごめんね……ユキとの約束を守れなくて……パパもユキが大好きだよ……よかった……無事で……」


「おねぇちゃんと、おにぃちゃんが……いっしょにいてくれたの」


 再会を見届けたところで、僕等は立ち去ろうとしていたのだが……ユキちゃんのご両親は僕等を見つけるとすぐに僕等の近くまで移動してきた。


「ユキを見つけていただいてありがとうございます……なんてお礼を言ったらいいか……私が目を離したばっかりに……」


「本当にありがとうございます……急な仕事を必死で片付けて合流したら、ユキが迷子になったと妻から聞き……すべては私の責任です……」


 二人は深々と頭を下げて僕等にお礼を言ってくる。


 そっか、お父さんも……必死にユキちゃんとの約束を守ろうと頑張っていたんだな。仲直りもできたようだし……ユキちゃん、良かったね。


 僕等は大人二人から頭を下げられ、それを真似するユキちゃんからも頭を下げられて、ほんの少しだけ困ってしまう。


「なんてお礼を言ったらいいか……お昼がまだでしたら、私達にごちそうさせていただけませんか?」


「あ、いえ……大丈夫です。私達、お昼はお弁当を作ってきてるんで。せっかく合流できたんですから、ユキちゃんと家族水入らずで、過ごしてあげてください」


 僕等としては特別なことをしたつもりは無いので、どう断ろうかと考えていたところで、七海さんが僕にも告げていなかったことをユキちゃんの両親に告げていた。


 そっか、この大きなかばんの中には七海さんのお弁当が入っているのか……。休みの日のお昼も七海さんのお弁当が食べられるなんて……これは凄い楽しみだな。


 きっと、七海さんはサプライズとして考えてくれてたんだな……うーん……僕の方もなんかサプライズを考えておけばよかったか……これは不覚……。


 それから少しだけ押し問答が繰り広げられるのだが、僕等はそれを固辞した。


 せっかくの休みなんだから、彼等には家族水入らずで過ごしてもらいたいというのは僕も同じ気持ちだ。


 最後に……ユキちゃんが僕等にお願いをしてきた。


「おにぃちゃん、おねぇちゃん……ありがとう……。あのね……ユキといっしょに、おしゃしんとってくれる?」


 両親からのお礼の申し出を断ったタイミングで、ちょっとだけ俯いた状態で、ユキちゃんは僕等と一緒の写真を撮ることを希望してきた。俯いているのは、もしかしたら断られるかもしれないと思っているのかもしれない。


 それくらいならと僕等は一緒に写真を撮ることを承諾すると、ユキちゃんは嬉しそうに笑ってくれた。


 それからスタッフの人からもお礼を言われてスタッフルームから出ると、ユキちゃんが好きだというペンギンのところで写真を撮ることにした。


 ユキちゃんのお母さんのスマホ、僕のスマホ、七海さんのスマホ……それぞれ三人のスマホで、僕と七海さんに挟まれたユキちゃんの写真を撮る。


「ありがとう! おにぃちゃん、おねぇちゃん!! ばいばーい!!」


 元気良く手を振ったユキちゃんと、僕等にしきりに頭を下げるご両親が遠ざかっていく。まぁ、僕等もまだこの水族館にはいるし、もしかしたらまたバッタリ会うかもしれない。


 僕等はユキちゃんたちの姿が見えなくなるまで、手を振って三人を見送った。


 姿が見えなくなった後で、僕はスマホに残ったユキちゃんと僕と七海さんの並んだ写真を見る。なんだろう……この写真を見ていると……まるで……。


「なんかさ……私達の間に娘ができたみたいだよね、この写真……。これって……とっても素敵な思い出になったよね」


 僕が思っていても口にできなかったことを七海さんはあっさりと言う。


 その顔には、照れているわけでも揶揄っているわけでもない……まるで母親のように慈愛に満ちた笑顔が浮かんでいて、僕は思わず見惚れてしまうのだった。

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