第35話「初めての美容院」

「あらあらァ、君が七海ちゃんの彼氏君なのねェ? うふふ、はじめましてトオルでっす。今日は腕を振るっちゃうわよォ!!」


「えっと……よろしくお願いします……トオルさん。簾舞陽信(みすまいようしん)と言います」


「よろしくね、陽信クン♪」


 僕は今、生まれて初めて美容院と言うものに来ている。


 僕の後ろには、今日カットを担当してくれるトオルさんと言う、男性の美容師さんが満面の笑みを浮かべて立っていた。


 体型や声から男性と言うのはわかるが……いわゆるオネエ系の人のようだ。身近にそういう人はいないから最初は面食らったけど、濃すぎない化粧が似合っていて、とても綺麗な人である。


 ちなみに既婚者で、奥さんも居るらしい。


 この美容院は七海(ななみ)さんの行きつけの美容院で、音更(おとふけ)さんのバイト先でもある。僕は今日、ここで髪を切ってもらうことになった。


 普段は1000円前後の髭剃りも洗髪もない格安のカット専門店にしか行ったことのない僕にとっては、未知の世界だ。なんか、入った瞬間の匂いからして違った。


 今までの人生であまり馴染みのない非常に不思議な匂い……整髪剤とかそういうものの匂いなのだろうか? でも、不快ではない。


 なんでこうなったのかというと、きっかけは昨晩にまで遡る。


 僕が茨戸(ばらと)家で夕食を取った後、七海さんの部屋で少しお喋りしているときのことだ。


 ちなみに、なんで七海さんの部屋でお喋りしてたかというと……睦子(ともこ)さんが僕等の料理風景の動画鑑賞会を始めてしまい、逃げるように僕等は移動したのだ。


 それを止めることは無理だと判断して、せめてもの戦略的撤退である。


 そうやって七海さんの部屋でお喋りしている最中に……七海さんのスマホに音更さんからメッセージが届いたのだ。


「ごめん、なんか初美(はつみ)からだ……って……へ? 何コレ? ……えっと……明日……明日かぁ……」


 相変わらず僕の膝に頭を乗せた七海さんが、少しだけ困惑したように僕を見上げてきた。


「陽信……明日ってさ、時間あるかな?」


「明日? 別に予定は特にないけど……どうかしたの?」


 少し躊躇いがちに、七海さんは僕にスマホの画面を見せてきた。そこには、音更さんから来たメッセージが書かれている。


『明日って時間ある? うちのバイト先がカットモデル探しててさ、簾舞(みすまい)に頼めないかな? トオルさんが担当してくれるってさ』


 カットモデル? なんだろうその聞きなれない単語は。僕が行っている格安店では少なくとも聞いたことが無い。


「初美のバイト先ってヘアサロンでさ、私も行きつけなんだよね。このトオルさんってのも、私がお願いしている人で……すごく良い人なんだよ」


 ヘアサロン……また聞きなれない単語だ。美容院のことで良いんだろうか?


 まぁ、七海さんが良い人だと言っていてお世話になっている人ならば、断る理由はないのだが……。


「……むしろ、僕みたいな人間がヘアサロン? 美容院? そんな場所に行っても問題ないのかが心配だよ……浮かないかな?」


「大丈夫だよ!! トオルさん良い人だし!! すごくセンスも良いんだよ!! それに陽信も髪伸びてるでしょ?」


 確かに言われて、僕は自分の髪をつまむ。確かに、髪が伸びてうっとおしくなってきたところでもある……うーん……美容院かぁ……意外に精神的にハードルが高いんだよなぁ……。


 僕が悩んでいると……七海さんは一度僕から離れて、机から2枚の券を取り出した。その券で顔を隠しながら、ちょっとだけ僕から視線を逸らして呟いた。


「……髪を切ってカッコよくなった陽信とさ……日曜日に水族館デートがしたいなぁ……って……」


「うん、引き受けるよカットモデル」


 精神的なハードル? そんなものは今、完全に叩き潰したよ。


 ハードルを飛び越えも潜り抜けもしない。純粋にそんなハードルは壊して捨てました。こんな風におねだりされて、引き受けないという選択肢は男には無いんじゃないだろうか?


 少なくとも、僕にはない。


 そして、今に至る……と言うわけだ。


 普段の格安店なら緊張なんてしないのだが、今日は何故か緊張してしまっている。


 ちなみに音更(おとふけ)さんは現在は働いている最中で、僕がカットされる間は七海さんは神恵内(かもえない)さんとお喋りして待ってくれている。


「それにしても……あの七海ちゃんを射止めたのが、君みたいな普通の男の子だなんて……嬉しいし、安心しちゃうわァ……」


 トオルさんは僕の髪を指先でいじりながら感慨深げに呟いている。そういえば、ここは七海さんの行きつけで、この人は昔の七海さんを知っているんだったっけか。


 トオルさんも、七海さんを心配していた一人なのかもしれない。そう考えると、とてもありがたい気持ちになる。


「トオルさんは、昔の七海さんをご存じなんですか?」


「えぇ、中学の時からあの三人はうちに来てたわよォ。初美ちゃんと歩(あゆみ)ちゃんは割とすぐ私になじんでくれたけど、七海ちゃんは最初、私相手にも緊張しちゃっててねェ……」


 七海さんは男性が苦手な人だった。


 もしかしたら、オネエ系のこの人に頼んだのは、あの二人の優しさなのかな? そう思うのは考え過ぎかな……。


「それで、今日はお任せで良かったかしら? カットモデルだからあとで写真を撮らせてもらうけど、顔は写さないから安心してねェ?」


「えぇ、僕は髪型とか全然詳しくないので……あ、でも……一つだけ良いですか?」


 僕は生意気かもしれないけど……一つだけトオルさんに注文を言った。


 トオルさんは嫌な顔一つせずににこやかな笑みを浮かべると、僕の言葉を黙って待ってくれている。


「明日……七海さんと水族館でデートなんです……だからその……こんな僕でも彼女の隣にいて恥ずかしくないように……カッコよくしてもらえますか?」


「まァ……まァまァまァまァまァ!! デートなのね、デート前なのねェ!! 素晴らしいわァ!! 慣れてない美容院に彼女のために来る男の子ォ……最っ高に燃えるシチュエーションだわァ!!」


 トオルさんは僕の一言に目を爛々と輝かせて、まるで全身から光り輝かんばかりの勢いで両手を広げてオーバーリアクションを取っていた。


 僕は驚いているが、周囲のお客さんや他のスタッフは全く驚いていない。むしろ「あ、店長が燃えてる」とか「トオルさんに火をつけるなんて……やるわねあの子」とかそんな言葉が聞こえてくる。


 ……トオルさん、店長だったんだ。いや、そういう問題じゃなく、キャラが濃いなぁこの人も。


 ソファに座って待っている七海さんと神恵内さんも、僕の方を見てちょっとだけ呆けた表情を浮かべていた。


 そして僕は鏡越しにトオルさんの目を見る。気のせいか、その目の中に炎が見える……気がした。


「この私の全身全霊、全力全開で君をコーディーネートしてあげるわァ!! 覚悟してねェ陽信クン!!」


 そんな燃えるトオルさんの手腕に、僕は圧倒されてしまう。普段の散髪とは違う、そこには一人の美容師として宣言通りの全身全霊を僕に向ける一人の大人の姿があった。


 シャンプーで洗髪された後、僕の髪に対してトオルさんはハサミを入れていく。ハサミも一つだけではなく、大小様々な物を使い、時にはバリカンまで入っていき……どんどん僕の髪は短くなっていった。


 それは、まるで早回しの動画を見ているかのようだ。


 先ほどまでうっとおしく伸びていた髪の毛が、あっという間に短くなっていくのだが、その短くなっていく過程がなんだかおもしろく、僕はトオルさんの技術に魅入ってしまっていた。


 最後にまた洗髪がされて……それで終わりかと思ったら違っていた。 


「それじゃあ、髪を整えるわねェ。ヘアワックス付けるけど……したことあるかしら?」


「いえ……全く無いです……」


「そう……それじゃあ明日のデートのために教えておいてあげるわァ……」


 ワックス……確か父さんも付けてなかったから、自分とはすごく縁遠いもののように感じられるなぁ。父さんが使うワックスなんて車用のものくらいだったか。


「陽信クン……意外と身体がガッチリしてるから、似合うと思って今回はベリーショートにしてみたわ。あとは、ワックスを付けて少し髪を立たせれば爽やかな印象になるわよ?」


 僕の髪にワックスを付けてトオルさんはやり方を丁寧に教えてくれる。髪はしっかりと乾かした後に、ワックスで束を作っていくのだそうだ。


 今回、使ってくれたのはドライ系のワックスと言うやつだそうで……こっちの方が僕には合っているだろうとトオルさんは教えてくれた。ワックスにも種類があるのだとここで僕は初めて知った。


 そうして鏡の前には……髪が短くなり、ワックスによって整えられた僕の姿があった。


 なんだろう……この……違和感。


 鏡の中の僕が僕じゃないみたいな違和感がある。顔のパーツが全部僕なのに、髪の毛だけがキッチリと整えられているからだろうか?


「どうかしら? こんな感じになったけど、私としてはとても似合っていると思うわよォ?」


「えっと……なんかワックスとか付けたこと無いから違和感がありますけど……なんか僕じゃないみたいで……落ち着かないというか……いや、そういうことが言いたいんじゃなくて……」


 否定したいわけではなく、髪を整えて七海さんの傍にいても違和感のないようにしてもらったお礼が言いたいのに、うまく言葉が出てこなかった。


 美容院もはじめてなら、ワックスもはじめて、そんな僕が気の利いたことを言えるわけがないのだ。だから僕はそのままの言葉をトオルさんに伝えることにした。


「……ありがとうございます。満足ですし、嬉しいです」


「うん、満足してもらったなら良かったわァ。はい! これで全部完了よォ!」


 僕は椅子から立ち上がり……トオルさんと一緒に七海さん達の元へと移動する。随分と待たせちゃったなぁと思いながら、僕は自分の変わった姿を見て七海さんがどう思うのか……そのことに対して緊張する。


「どう……かな……?」


 美容院の待合室には七海さんと、休憩中なのか音更さんと神恵内さんの二人も一緒に居た。僕のカットが終わるのを三人で待ってくれていたようだ。


「おー、いーじゃんいーじゃん。良い感じでしょー。似合ってるよ。流石トオルさんだね。私の目標だー」


「ん~……でもあれだね~、少女漫画でよくある『髪を切ったら超絶イケメン』って言うのを期待してたんだけど、髪を切ってもいつもの簾舞だねー。似合ってるけどさ~」


 そりゃそうだ、あんな髪を切ったらイケメン化……とか、少女漫画とかそういう創作の中でしかあるわけがないのだ。


 仮にあったとしても、それはもともとがイケメンだったというだけだ。


 髪の伸びた普通の男子が髪を切っても、髪を切った普通の男子が出来上がるだけだ、そうなのだが……。


「陽信……カッコ良い……」


 両手を前に合わせて頬を染めた七海さんが、僕のことをキラキラとした目で見てきていた。いや、七海さん? 髪は切ったけどいつもの僕ですよ?


 音更さんと神恵内さんも、そんな彼女を呆然とした目で見ていた。唯一、トオルさんだけはその反応に満足そうに頷いている。


「あの、七海さん?」


「どうしよう、こんなに陽信が格好良くなっちゃったら……休み明けに絶対にモテるよね……私、こないだ余計なこと言っちゃったし……どうしよう」


 ブツブツと言い出した七海さんに、僕も二人も苦笑する。いや、七海さん。そんないらない心配しなくても、音更さんも神恵内さんもいつもの僕って言ってたじゃない。


「トオルさん!! ありがとうございます、こんなに陽信をカッコよくしてもらって嬉しいです!! あ、陽信、その姿……私の前だけで見せてね? 髪を整えるのもデートの時だけにしてくれると……嬉しいかな?」


 ガバリと顔を上げた七海さんはトオルさんにお礼を言い、僕に対して可愛いお願いをしてきた。


 その姿を見たトオルさんが、七海さんに対して優しい微笑みを浮かべている。


「そうよねェ、やっぱり……恋する乙女には整えた彼氏は格好よく見えるわよねェ。うん、いい仕事したわァ私!」


 ……あぁ、そうか。確かにトオルさんは僕のざっくりとした注文に応えてくれたのだ。


 七海さんの反応がそれを示している。他の誰の反応も関係ない、七海さんのこの反応が僕の全てだ。


「安心してよ、七海さん。僕がこうやって髪を整えるのは君の前だけにするからさ。ただ、明日のデートは僕が自分でやるから……ここまでちゃんとできるか不安だけどね」


「うん。ありがと。……とりあえず、今の状態で二人の写真撮っていい?」


「うふふ、七海ちゃん。私が撮ってあげるわよォ。ほら、二人で並んで並んでー」


 僕と七海さんはそれぞれのスマホをトオルさんに預けて、二人で手を繋いだ写真を撮ってもらった。その様子を見た音更さんと、神恵内さんは少しだけ納得したようにつぶやく。


「なるほどねぇ……少女漫画の髪を切ったらイケメンって……そりゃ、好きな人ならイケメンに見えるよなぁ……」


「私もあんな時代があったのかにゃ~……なんかどんどん七海に置いてかれてる感が……負けてられない……」


 それから、僕はトオルさんから名刺と共に、今日使ったワックスを渡された。料金を払おうとしたら、七海さんとのデート成功を祈ってのプレゼントだと言われてしまった。


「陽信クン、もしも髪型とかでわからないことがあったら気軽に電話してね、いつでも相談に乗るから」


「ありがとうございます。トオルさん」


 なんだかとても心強い味方がまた増えたようで……僕の心は温かくなる。こうやって、頼れる人が増えるなんて、今までの僕の人生からは考えられなかったことだな……。


「二人の結婚式の時のスタイリングは、私にぜーんぶ任せてねェ。これからもご贔屓にィ♪」


 トオルさんのその一言に、音更さんと神恵内さんは揃って「ひゅ~」と口笛を吹き、僕等の顔は揃って赤く染まる。


 なんで僕等の周りの大人たちは、そんなに結婚話を持ち出すんですか!?

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