第34話「七海先生のお料理教室」

 昨今、どれだけの男子高校生が料理をできるのかについて僕は詳しくないが、残念ながら僕は基本的に料理できない部類の男子高校生だ。


 できない、と言うよりは『しない』方が表現としては正確かな。学校の授業ではやったことはあるが、その程度の腕前だ。


 実家住まいだから……母さん、もしくは父さんが作ってくれた料理が食卓に上がり、それを食べる。そのため、自分から料理を作ろうとは決してしなかった。


 もちろん、両親が料理を作ってくれることに日々感謝はしているけれども……僕にとって料理というのは、基本的に誰かが作ってくれるというものだった。


 二人が居なくて一人の時でも、世の中には惣菜や外食、コンビニ、カップ麺……食事をとる方法は数多くあり、自分で作る必要性はない。面倒であれば一食くらいは抜いても問題無い。


 今までの……過去の僕はそう思っていた。


 思っていたと、過去形である。それが過去形となった理由は、僕の目に前に居る彼女だ。


「はい、陽信ようしん君。じゃあ、今日作るものは何か言ってみてください?」


「えっと、メインに麻婆豆腐……あとはトマトとキャベツとツナのサラダ……レンコンと人参の金平、玉ねぎのお味噌汁……だね」


「うん、そうですね。じゃあ作っていきましょうか」


 僕の目の前でエプロンを付けた状態の七海ななみさんが微笑んでいる。先ほどまでショートパンツで足を出していたのだが、料理をするからかいつの間にか足が全部隠れる長いパンツに着替えていた。


 うん。でも、エプロンを付けるならこっちの方が似合っている。それに万が一の時に安全だしね。


 彼女は薄いピンクのエプロンで、僕は青いエプロンを借りて付けている。色違いでデザインは一緒なので、ペアルックのようでほんの少しだけ意識してしまう……が、今は料理に集中するためにそのことは考えない。考えないようにしていたのだが……。


「お揃いのエプロンは、やっぱり新婚さんっぽいわね~」


 僕等を優しい目で見ていた睦子ともこさんが、僕が意識して口に出そうとしなかったことをあっさりと言ってのける。なんだろう、僕の周りの大人は心が読めるのだろうか?


「はいはい、お母さん。今は茶化さないでね。刃物を扱うんだから。真面目にやるの」


「あらあら、わかってるわよ~。うふふ、だから先に言ったんじゃない。流石に料理をし始めたら茶化さないわよ~」


 抗議する七海さんも少し頬を染めている。彼女もその辺は意識しないようにしていたのかもしれない。


「……でも、七海さん。こういうので良いのかなぁ?」


 僕は目の前にある四角いパッケージに視線を落とす。そこにはメインとして作る麻婆豆腐用の調味料と言っていいのか……。サッと豆腐とひき肉を混ぜるだけで本格中華ができる……いわゆる中華の素が置かれているのだ。


「ん? なんか変なところでもありましたか? 必要な材料は全部買ったと思ったけど……」


「いや、ほら……麻婆豆腐って言うと、豆板醤とか鶏がらスープとか紹興酒とか、イメージでしかないけど、そういうのを使うのかなぁって思ってたからさ……」


 僕の発言に、七海さんは何だろうか……すごく優しい目で僕のことを見てきた。


 これはあれだ……なんとなく覚えがある視線だ。小さいころに、ちょっと背伸びした発言をしたときに両親から向けられた視線に似ている。


 なんか僕、変なことを言っちゃったかな?


 七海さんは僕に優しい目を向けながら、なんだろうか、眼鏡をしていないのにクイッと眼鏡を上げる仕草をしながら、僕に諭すように口を開く。


「陽信君は料理の初心者ですよね? いきなり本格的なことをやって失敗して、料理は難しい、楽しくないって思うよりも、まずは簡単でもいいから料理を作るのが楽しいと思ってもらいたいわけです」


「はぁ……」


 何だろうか、いきなり変な小芝居みたいなのが始まった。


 いや、さっきからちょいちょい発言がなんか変と言うか……まるで芝居がかったみたいではあったけど……。


 どうしたんだろうか七海さん? 料理する時は性格が変わるとか?


「初心者ほど凝ったことをやりたがって失敗しちゃうんです。だから最初は手軽に作ることで、料理の楽しさを覚えてもらおうということです。さぁ、先生と一緒に作りましょうね?」


 ……あぁ、これはあれか。僕が教えてもらうということで、七海さんは先生になりきっているわけだ。だから最初からまるで先生みたいな丁寧な口調だったわけだ。


 ノリノリだな七海さん!


 まぁ、可愛いからいっか。これは僕もノッてあげた方が良いよね?


「はい、七海先生。よろしくお願いします」


「はい、お願いされました」


 ペコリと頭を下げた僕に、満足そうなドヤ顔で頷く七海さんだった。


 そのドヤ顔は非常に可愛いが、その辺は料理が終わってから言うとしよう。今は料理に集中だ。油断してたら怪我しちゃうしね。火も使うし刃物も使う。


 流石に料理初心者の僕でもその辺はわきまえている。


 そんな中、僕等に自分のスマホを向けていた睦子さんがちょっと笑いながら口を開く。


「陽信くーん? 今の凝ったことをして失敗……ってくだりだけど、昔の七海の話なのよ~? 小学校の時に難しい料理をやろうとして失敗しちゃって拗ねちゃって……。その写真あるから、あとで見せてあげるわね?」


 ……やけに具体的だと思ったら七海さんの実体験だったのか。


 七海さんはドヤ顔のままで赤面している。そして睦子さんは、その様子もスマホで写真に収めているようだった。


 それも含めて、写真は後で見せてもらおう。


「もう! お母さんは黙ってて! じゃあまずはレンコンの金平から作ろうか。はい、陽信。まずは皮をむいてね」


 どうやら先生プレイ(プレイってなんだ僕)は終わりのようで、いつもの調子に切り替えた七海さんが、僕にピーラーを渡してくる。


 七海さんは包丁で……僕はピーラーで……ちょっと情けない感じもするが、料理初心者である僕はそこまでの技術は無いのでしかたない。


 ゲームと同じだ。まずはできるところから……ピーラーで人参の皮をむいていくとするか。


 僕が人参一本をピーラーで必死に剥いている間に、七海さんは器用に包丁でレンコンの皮を剥いていく。あっという間に皮をむいて、レンコンを薄切りにしていく。


 凄いなあ……あんなに丸っこい形のものを包丁で器用に、なんの危なげもなく皮を剥くって……。薄切りも厚さが一定で、少なくとも僕の目には正確に見える。


 僕はついつい、七海さんの料理姿に見惚れてしまう。


 今まで、母さんの料理する姿や父さんの料理する姿をこんなにしげしげと見ることは無かったから、ある種の感動を覚える。普通の野菜が次々に作品に変わっていくようだ。


 僕はと言うと……ピーラーですら皮をむくのに少し手間取っているくらいで、ちょっと恥ずかしい。いや、意外と力加減が難しいんだよね。手に持ってる人参もなんか安定しないし……。


「あぁ、陽信……それじゃだめだよ」


 僕がピーラーに悪戦苦闘している姿を見かねた七海さんが、いったん包丁をしまって僕の後ろに移動する。


「ピーラーを使うときはね、にんじんはまな板の上に置いた方が良いよ? 使い慣れてないなら持っていると危ないし……持ち方もこう……ね?」


 そのまま七海さんは、背後から僕の両手を取りピーラーの使い方を教えてくれる。……七海さんの手が僕の手に重なり、持ち方から姿勢からを矯正してくれるため……必然的に彼女は体を僕にぴったりとくっつける。


 そういう場面ではないというのに……背中に非常に幸せな感触を感じてしまう。いかん、今はとにかく料理に集中だ。


「ほら、こうやれば下手な力もいらないし、危なくないでしょ?」 


 僕の手は七海さんの手の温かさを感じながら、先ほどよりも力を入れずにスッと人参の皮を剥くことができていた。なるほど、これなら確かに安定するし力もいらないな。


 ……ダメだ、どうしても背中が気になる。七海さん、くっつきすぎてない?それから、一本分の人参の皮を剥き終わるまでの間は……七海さんは付きっ切りで僕に教えてくれていた。


「うん、キレーに剥けたねー。 ピーラーなら割と簡単でしょ?」


「そうだね、刃物だから気を付けないといけないけど……コツを掴めば行けそうだね」


「それじゃあ次は、この人参を包丁で切ってみようか?」


 僕から離れた七海さんは先ほどまで自分が使っていた包丁を、僕に持つように促してきた。幸せな感触が消え……いや、雑念は捨てろ。今は料理中だ。


 包丁で切る……ちょっと緊張するな。でも……これも練習だ。やってみよう。


「うん、わかったよ。どう切ればいいのかな?」


「そうだね、うちはいっつも細切りにするんだけど……それはちょっと難しいかもしれないから、レンコンと同じように薄切りにしてみようか」


 僕は七海さんがしまった包丁を手に取る。なんだろうか、これだけで一気に『料理をする』感が凄い強くなる。


 先ほどまでのピーラーはどっちかというと……プラモとかを作る時のような工作感があったんだけど、包丁と言うだけで身が引き締まる思いだ。


「あ、陽信。先に言っとくけど、手はにゃんこの手だからね、こんな感じのにゃんこの手だよ? あと……足は片方を少しだけ下げて……こんな姿勢ね?」


 七海さんは自身の両手を猫の形にして、右足だけを半歩だけ下げて斜めになる。別に七海さんは両手とも猫の手にする必要は無いと思うが……とりあえず僕はその姿勢を真似てみる。


 うん、少しは様になってるんじゃないかな? 僕はこの姿勢で良いのかを七海さんに視線で確認すると、彼女は頷いて微笑んだ。そして、自身の猫の形にした手を顔の横までもってきて……手首だけを動かした。


「うん、その姿勢だね♪」


 まるで猫のような動きをしながら僕を褒めてくれた彼女に見惚れる。さすがに『にゃん』とまでは言っていない。いや、言われていたら動揺して料理どころじゃ無かっただろう。


 でも、そのおかげか、包丁を持っていたために変に入っていた肩の力がちょうどよく抜けていった。僕はそのまま七海さんが見守る中で人参を半分に切って、薄切りにしていく……。うん、割とうまくいっているんじゃないかな?


 そうやって順調に材料を切っていって……少しだけ油断したのか、それとも気を抜きすぎてしまったのか……ほんのちょっとだけ包丁の刃先が人参の丸みでブレてしまった。


「つっ……!!」


 そのブレた包丁の軌道で僕はほんの少しだけ、指を切ってしまった。


 あれほど七海さんから『にゃんこの手』と言われていたのに、その姿勢に慣れていないためか人差し指がほんの少し伸びてしまっていて、刃先がそこに当たってしまったのだ。


「あらあら、大変」


 スマホを僕等の料理風景に向けていた睦子さんは、慌ててスマホを置いて立ち上がる。ほんの少し切れた指からは血が滲んできていた。少しだけ痛いけど、そこまで深い怪我ではなさそうだ。


 だけど、このままだと不衛生だし……何かで止血しないとな。包丁をまな板の上に置いた僕は、何か止血できるものを探して周囲を見回していると……。


 七海さんがとんでもない行動に出た。


「陽信?! 大丈夫?!」


 そう言った瞬間に……七海さんは僕の手を取ると、怪我した人差し指をパクッと口に咥えだした。


 その瞬間に、睦子さんはスマホを構えなおし、僕は突然のことに困惑する。


 えええええええぇぇぇぇぇぇぇぇ? ななななななな何やってるの七海さんッ?!


 七海さんも自分自身のとっさの行動にビックリしたのか、僕の指を咥えたままで目を見開いて驚いていた。僕の指を見て、頬を赤く染めている。


 指先に、彼女の口中の温かさと……チュッと言う水音が僕の耳に届く。

 

「ふむ……むむむ……むむむむ!!」


 それから、上目遣いの彼女が何かを喋ろうするたびに、彼女の舌が微妙に動き……僕の人差し指を撫でる。なぜかそのたびに、僕の背筋はゾクゾクとしてしまう。


「あらあら、大変大変。はい、救急箱よ。七海がやってあげた方が喜ぶと思うのよね?」


 スマホを構えながら救急箱を持った睦子さんが、七海さんにそれを手渡すと、それがきっかけとなったのか、七海さんはそこでやっと僕の指先から口を離した。


「……ごめん、つい……慌てちゃって……とっさに……」


「あ、うん……いや……うん……ありがとう……?」


 顔を赤くしながらも、彼女は睦子さんから受け取った救急箱から消毒液や絆創膏を取り出して、僕の指の手当てをしてくれた。


 咥えられた人差し指には……先ほどの七海さんのその……唇とかの感触がまだ残っている。頬の火照りは収まりそうもなかった。


「と……とりあえず、慣れないうちは仕方ないけど、刃物を使っているときは怪我に注意ね!!」


「そ、そうだね!! うん、気をつけるよ!!」


 ごまかすように僕等は大声を出してから、料理を再開する。……睦子さんはそんな僕等に相変わらずスマホを向け続けていた。最初は写真でも撮ってるのかと思ったのだが……シャッター音が聞こえてこない。


「あの……睦子さん、さっきからスマホを向けて……何やってるんです?」


「あぁ、これ? 二人の共同作業を動画で撮ってるのよ~? 志信しのぶさんとあきらさんへの報告用と……あとは二人の結婚式の時の動画用の素材かしらね?」


「ちょっと?! お母さん?!」


 シャッター音が聞こえないから……もしかしてと思ったけど……やっぱり動画を撮ってたんですね……。七海さんも抗議しているが、睦子さんはその様子すらどこか楽しそうにしている。


「まぁ……これもいい思い出になるってことで……」


 僕は七海さんに手当てされた自分の指先を見ながら、そんな独り言を呟いていた。

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