第33話「恋人同士の呼び方」
両親が揃って出張に行く……と言うのは、僕の短い人生の中でもそう多くないことだ。
少なくとも小学校の時には無かったし、中学の時には二年の時に二回程度あったが……その時は親の監視の目もなく好きに生活ができると、むしろ喜んだくらいだった。
そして高校になった今……久々に両親が共に出張となったのだが、それにより僕に起こる変化と言うものは、過去のどれとも違うものだった。
それは、僕に
今までの『彼女と一緒に帰宅する』と言うのは、途中でそれぞれの家に分かれることになっていた。
それが普通の彼女と一緒の帰宅と言うものだ。しかし、途中で別れることなく……文字通り一緒の家に帰るのは……世間一般ではあまりないだろう。
僕も夢にも思っていなかったことなのだ。これが一般的ではないことは百も承知である。
「ただいまー!! あー、もう!! 恥ずかしいこと叫んじゃったよ!!」
「えーっと……お邪魔します。七海さん……なんであんなこといきなり叫んだのさ……?」
「だーってー、
先ほど僕等は、ちょうど七海さんの家から出てくる
僕の目にはいつも通りの二人に見えたのだが、長い付き合いの七海さんにしかわからないところがあるのだろう。
そうやって……人のために行動できるところは本当に尊敬できる。だから、僕も恥ずかしかった点はとりあえず置いておこう。
「あらあら、だめよー陽信君? お家に帰ってきたんだから……ね?」
パタパタとコミカルな音をさせながら僕等を出迎えてくれた
「ただいま……です」
「はい、二人ともおかえりなさい。よくできました。うふふ、帰ってきたら『ただいま』よね、やっぱり」
睦子さんは言葉を訂正した僕の頭を撫でてくれる。うん、流石に恥ずかしいです……。でも、睦子さんの手を振り払う気にはなれず、僕はしばらくなすがままになってしまう。
基本的に僕の両親は共働きであり、帰宅する時に『ただいま』なんて言うことはまずなく。帰ってきた両親に対して『おかえり』を言うことはあっても、僕が『ただいま』と言うことはほとんどないのだが……。
七海さんも睦子さんも、僕を微笑ましい目で見てきている。こうやって、『ただいま』って言って、『おかえり』って返してくれるのは照れくさくて……そして、とても嬉しい。
(そっか……だから僕、帰ってもただいまって言う習慣が無かったのかな……?)
今更ながら自分がただいまを言わなくなった理由に思い至り、少し恥ずかしくなる。結局、僕は寂しかっただけなんだな……七海さんにあんな風に慰められるわけだ。
「あれ?
「あぁ、沙八は部活で遅くなると思うわよー。あの子、ダンス部に所属してるから」
「へぇ、ダンス部。凄いですね。ダンス踊れるんだ。なんか格好いいなぁ」
当然だが、この家に来ることで七海さんの妹である沙八ちゃんとも話す機会ができた。最初は良い印象持たれて無いかなと心配してたけど、それは僕の杞憂に終わった。
少し目つきは鋭いけど、彼女も七海さん同様にとても良い子である。
しかしダンス部かぁ……中学で部活でもダンスをやってるってすごいなぁ。僕は授業でのダンスが苦手だったから信じられないや……。高校でも授業であるのが憂鬱なくらいだし……。
そういえば、七海さんは結構ダンス上手いんだよね。その辺は沙八ちゃんに習ったのかな……ってあれ? なんか七海さん、ちょっと膨れてない?
僕は買ってきたものを両手に持って台所まで移動して荷物を置く。すぐに料理を作るわけではないので、とりあえず買ってきたものは冷蔵庫に入れていたのだが……七海さんが少し頬を膨らませているのだ。
「七海さん……どうしたの?」
「べっつにー……?」
あれ、口を尖らせてちょっと拗ねてる時の口調だ。僕、なんか変なこと言ったかな? 別に変なことを言った覚えはないんだけど……。
「陽信、私ー着替えてくるねー。10分……いや、20分後に部屋に来てねー」
「あ、うん。わかった」
七海さんは僕と一緒に買ってきたものを冷蔵庫に入れ終わると、そのまま部屋へと行ってしまった。流石に着替える七海さんと一緒に部屋に行くわけにはいかないので、僕はその場に残されてしまう。
「あらあら七海ったら……。はい、これ陽信君のお着替えね?」
僕は睦子さんから着換えを手渡される……。
なんで
今みたいにムキムキになる前に着ていた服が僕にピッタリなので、お借りしている……。物持ちが良いなほんと。
お二人は僕にくれるらしいのだが、ひとまずお借りしているという体にしてもらっている。
これから料理をすることもあって、制服からスラックスと長袖のシャツを借りて着てから……きっかり20分後……僕は七海さんの部屋に行く。
事前に三回ノックをして、七海さんの了承を得てから部屋へ入る。七海さんもこれから料理を作るからか、落ち着いた色の長袖を着ていた。
ただ、下は少し短いパンツ姿で、その綺麗な足を惜しげもなくさらしている。……ちょっと目のやり場に困る。
「んっ!」
七海さんはそれだけ言うと、僕を手招きしてぽんぽんと叩いているクッションに座らせると、僕の膝に頭を乗せてくる。
七海さんはこれを定番にしようとしているのだろうか? まぁ……僕もなんだか落ち着くから良いんだけどね。いつかは逆にやってもらいたいものだ。
彼女の表情は相変わらず膨れているが、僕の膝に乗るくらいにはご機嫌は回復したようだ。
こっからどうしよう……いきなり頭を撫でるってのも……ちょっと緊張するし、七海さんがビックリしちゃうだけだよね。うん、頭を撫でるのはまた今度にしておこう。
女の子の頭に軽々に触れられないチキンな僕は、とりあえず七海さんのしたいように身を任せつつ、口を開く。
「七海さん、何を拗ねてるの……? 僕なんか、変なこと言った?」
「うー……分かんない? まぁ、我ながら子供っぽいとは思うけどさー……分かってくれたら嬉しいかな?」
子供っぽい? 何だろうか……僕は帰宅してからの心当たりを探る。
睦子さんに頭を撫でられたこと? いや、あれに関してはどっちかというと七海さんは僕を揶揄う材料にするから、違うよね……。
あとは……沙八ちゃんが部活で帰ってきてないことを聞いたくらいだけど……ダンスのことを褒めたから? いや、七海さんは妹が褒められることを喜びこそすれ、拗ねたりなんてしないはず……。
でも確か、膨れだしたのは確か沙八ちゃんの話題の後だよね……沙八ちゃんの……沙八……ちゃん?
「もしかして……沙八ちゃんの事、『ちゃん』付けで呼んでるから拗ねてたの?」
七海さんは僕の言葉に頬を染めて、横を向いたまま小さく頷いた。
何その可愛い嫉妬。
仕方ないじゃないか、七海さんの妹に対してさん付けも変だし……。呼び捨てなんて、七海さんにすらできない僕にできるわけがない。
僕としては悩みに悩んだ末のちゃん付けだったのだが……それがちょっと彼女には不満だったようだ。
七海さんは黙ったままなのだが……。まぁ、ちょっと不安にさせたというか、不機嫌にさせちゃったのは確かだ。これはよくない。
だから僕は、効果があるかは不明だが……そっと七海さんの耳元に口を近づけて囁いた。
「七海『ちゃん』……機嫌直してよ……」
その言葉を言った瞬間に、まるでバネ仕掛けのおもちゃのように僕の膝から起き上がった七海さんの頭部が、ちょうど僕の口の辺りを直撃する。
口が当たったからキスとかそういう問題じゃなく、これは普通に痛い。かなり痛い。
「やっば……なにこれヤバい……これ……うっわ……なんかもう……死ぬほどドキドキするんだけど……」
「いたた……七海さん? 大丈夫?」
「あ、陽信こそごめん……痛かった? いや、普段と違う呼ばれ方って……不意に呼ばれると、凄いドキドキするね……心臓がヤバいよ……」
七海さんは自分の胸を押さえながら、頬を赤く染めている。そんなに驚かせちゃったか……。思い付きで言ったとはいえ……悪いことをしたかな?
「じゃあ、もうやめといた方がいいかな?」
「ううん! たまにやって! あと、もっかい言って!!」
「え?! もう一回……?」
「ダメ……かな?」
七海さんは僕と目線を合わせながら、小首を傾げながら目を潤ませてお願いしてくる。その仕草はずるい……僕が弱いって知っててやってるな……。
とりあえずリクエスト通りにもう一回言ってみると、七海さんは大喜びだった。いや、お願いされて言うのってこっちも恥ずかしくなるな……。そのあと何回か呼んでみたらもうご満悦と言った感じで……。
「普段と違う呼び方って良いねー。なんかテンション上がる!!」
僕が気恥しさから顔を真っ赤にしているころには、七海さんはすっかりと上機嫌になっていた。うん、彼女が楽しそうで何よりです。
「私も陽信の事、なんか違う呼び方したいなー……なんか良いの無いかなー?」
と思ったら、矛先が僕に向いてきた。いや、僕は難しいんじゃないかな? 普段から七海さんは僕のこと呼び捨てだし……いまさら新しい呼び方とかあんまりないんじゃないかな?
「ねー、陽信って小さいころなんて呼ばれてたの?」
「へ? 親とか親戚からは陽くんとか陽ちゃんとか、よっちゃんとか呼ばれてたけど」
「へー……」
……しまった?! 会話の流れで答えてしまった!! これはまさか……七海さんは僕を見てその綺麗な口元を弧を描くような形に歪めていた。
いや、でも……僕は昔呼ばれた呼び方を教えただけだし……それでどうにかなるわけでも……そう思っていたら、七海さんは僕の耳元に口を近づけて、先ほどのお返しとばかりに囁いてきた。
「よーちゃん?」
僕の顔は一気に熱を帯びる。それはもう一気にだ。なんだこれ? なんだこれ?!
両親や親戚から呼ばれるのとは違う、甘い響きがそこにはあった。何だったら最後の語尾は上がっていて疑問形だが、そこにはハートマークが描かれているような錯覚すら覚える。
別に見えてるわけじゃないけど。そんな気がするだけだ。
僕は得意げな顔をする七海さんを見つめ返すと……七海さんも少し恥ずかしくなったのか、その頬が少しだけ朱色に染まっていた。
「……ヤバイねコレ」
僕はそう言葉を絞り出すだけで、精いっぱいだった。これは……七海さんの言うとおりに破壊力が凄すぎる。多用するものではない……。
「ヤバいよね。あんまりやったら馬鹿になりそう」
七海さんも同意見だったらしく……僕等の呼び名変更合戦と言う名のお遊びは、ここでお開きとなった。
「よっし! 元気出た! 陽信、お料理作ろっか!!」
「うん。そうだね……」
すっかり機嫌を直して元気を取り戻した七海さんと、またもや色々としてやられてしまってぐったりした僕が揃って部屋を出ると……そこには睦子さんが立っていた。
「そろそろお料理……と思って呼びにきたんだけど、大丈夫みたいね、七海『ちゃん』? 『よーちゃん』?」
「聞いてたの?!」
「あらあら、聞こえちゃったのよ〜♪ うふふ……私も久しぶりにお父さんのことを厳ちゃんって呼びたくなったわ~。今日、呼んだら驚くかしら?」
「お母さん!!」
二人はそのまま追いかけっこをする様に、はしゃぎながら台所まで移動していった。
そうかぁ……睦子さんにも聞かれちゃってたかあ……。厳一郎さん、今日帰ってきたら大変かもなぁ……。
遠い目をしながら僕もゆっくりと台所まで移動をするのだが、せめて今日のこの出来事は僕の両親の元へと情報が行かないよう……無駄かもしれないが、僕は祈るばかりだった。
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