第16話 妃アンドロマケーの心痛
城壁を降り、夕闇迫るトロイアの街を、アポロン神殿の方へマルペッサとともに歩んでいるとき。
「カサンドラ殿‥‥」
深々と澄んだアルトを聞いて、わたしはふり向いたのだった。
「アンドロマケー姉上‥‥」
ヘクトール王子の妃、アンドロマケー姉上が、左腕に幼子アスチュアナクスを抱いて、歩み寄ってくる。
「どうされたのです、このような場所にお供も連れずに‥‥」
「アンドロマケーさま、お聞きになりました?ヘクトール様がペンテシレイアさまと力を合わせて、あのパトロクロスを討ち果たしたこと」
「知っています、マルペッサ。でもそれが、かえって気がかり‥‥」
「アンドロマケー様、こんなところで話していないで、神殿でお休みになったら‥‥」
「ありがとう。でももうすぐあの人が、ヘクトールが引き上げてくるから、すぐ帰らなければ」
「アンドロマケー姉上、気がかりとは」
「カサンドラ殿、見たのです。昨夜の夢で。もしこのわたしにもアポロン神が臨んだとしたら‥‥。ああ恐ろしい、とても言えない‥‥」
「姉上‥‥」わたしは黙ってアンドロマケーの背に腕を回して、からだを寄せるほかなかった。
「カサンドラ殿、あの人に、ヘクトールに、あなたの方からも言って貰えませぬか。アキレウスとは絶対に戦うなと‥‥」
「もちろん言いましょう。アポロン神殿での出陣の儀式のときに。もはや兄上が耳を傾けるとは思いませんが‥‥」
と、その時。アンドロマケーがハッとして耳をそばだてた。竪琴の調べに乗って、歌声が流れてくる。
吟遊詩人さん 吟遊詩人さん
あなたの笑顔は 素敵なのに
歌はどうして 悲しいの
竪琴のしらべが 胸しめつけるの♫
君もいつか見る 涙の谷を
国をめぐり 時を渡っても
聞くのは 滅びの歌ばかり♫
「なんて悲しい調べ。いつかも聞いたような」
「またホメロスが来たのですわ、ホラ、あそこに」
マルペッサの指さす方を見ると、神殿の正面の柱廊で、白亜の円柱に背を預けて吟遊詩人が、竪琴を
だから僕は 死ねなくなった
海と空を渡り 時を越え
竪琴の
滅びしものの 物語を♫
正しいがため やさしさゆえに
滅んだ勇士や 姫君の
また名もない人の 物語を
忘れないでと ささやく声を♫
「ああ、滅んだ勇士とはまさか、まさか‥‥」
「ホメロス、いい加減にやめなさい!」マルペッサが吟遊詩人に歩み寄る。
ぼくは吟遊詩人 時空をわたる
竪琴の音に乗せ 届けよう
忘れないで 忘れないでと
ささやく声を 物語を♫
マルペッサの制止を無視して歌い終わると、吟遊詩人は頭巾をはねのけて私たちに向かい合った。
豊かな銀髪が、少年とも少女ともつかない可憐な顔の両脇にサァーと流れた。
「ホメロスというのですね。どこから来たのです?」
「遠い国から来た。空を超え時を超えて」
そういうと、焦点の定まらない視線を昏れゆく空に向けた。
「空を超え‥‥ですって?」釣られるようにアンドロマケーが空に目を向ける。「そなたはもしや、天上の神々に使わされたと‥‥」
「姉上、ホメロスは目が見えないのです」
「目が見えないの?」驚いて、ちょっとたじろぐ妃アンドロマケー。
「目が見えなくても、心の眼は見えている。未来が見えている‥‥」
「未来を‥‥」
「ホメロス、どうしてあなたには、そしてわたしには、ほかの人に見えない未来が見えるの?」
ひごろ気にかかっていたことを、口にする。
「未来が見えるのは、未来にいた時の記憶がよみがえるから」
「未来にいたの?」
「この世界のではない。別の世界の未来。でも、この世界ととても似ている‥‥」
「よく似ていても別の世界なら、運命もちがって来ないかしら」
これまた、最近思いついたことを口にしてみる。
「どこかに運命の分かれ目があるかもしれない。でも、今はまだ分からない。もっとよく調べてみなければ。僕もこの世界に来てから日が浅いから」
「ホメロス、あなた一体、いつからこの世界にいて、齢はいくつなの?」マルペッサが口をはさむ。
「分からない。気が付いたらこの世界にいて、吟遊詩人をやっていた。その前のことは憶えていない。夢で少しずつ思い出せるだけ‥‥」
「ホメロスさん、お願い。アキレウスの弱点はどこなの?思い出せないの?」
「それは僕には分からない。カサンドラ、あなたの仕事だ」
と、その時。
母の胸におとなしく抱かれていた幼い王子アスチュアナクスが、声を放って泣き出した。
アンドロマケー妃は、「ああ、よしよし、きっとお腹が空いたのね」とあやすと、潮時と見たものか、
「あの人が帰ってくる。行かなくては」とつぶやき、
「カサンドラ殿、そしてホメロスとやら、お願いします。どうかあの人を、ヘクトールを、そしてトロイアを救って下さい」と深々と頭を下げ、身をひるがえして足早に、街路の奥の薄闇に姿を没したのだった。
ホメロスはしばらく見えぬ目で母子を見送っていたが、
「僕ももう行く」と竪琴を肩にかけ直した。
そして、「カサンドラ、これだけは約束して欲しい。どんなことがあっても、生きること。なぜなら、あなたには、隠された使命があるのだから‥‥」というと、アンドロマケー妃の去ったのと正反対の方角へと、姿を消した。
「隠された使命がある‥‥」
茫然として見送るわたしの耳に、この言葉がいつまでも鳴り響いているのだった。
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