第12話 吟遊詩人ホメロス

「カサンドラ様、気分がすぐれないようですね」

「会議で疲れただけ、すぐなおるわ」

 マルペッサとことばを交わしながらアポロン神殿への帰途を歩む。

 と、神殿の方から竪琴の調べが流れてくる。

「あれは‥‥」

「吟遊詩人ですわね。最近は見かけないとおもったけど‥‥」

 あの調べは確かに聞き覚えがある。


  吟遊詩人さん、吟遊詩人さん

  あなたの笑顔は素敵なのに

  歌はどうして悲しいの

  竪琴のしらべ、胸しめつけるの♫


 そう、パリスが凱旋した日、ヘレネ―と会ってトロイアの滅亡を悟ったあのときも、王宮の片隅から流れていた。まるで滅亡の予言を裏書するような哀しい調べが。


  かげなきひとみの娘さん

  君もいつか見る涙の谷

  海をこえ国をめぐっても

  聞くのは滅びの歌ばかり♬


 少女のようなソプラノの声がたちまち青年のカウンターテナーに変わる。歌い手が女なのか男なのかもわからない。

「たしか、ホメロスという名でしたっけ」

「ホメロス‥‥」


  だから僕は死ねなくなった

  国をめぐり時をこえ

  竪琴の音に乗せ届けよう

  滅びしものの物語を♬


 吟遊詩人は神殿の柱廊ちゅうろうにたたずみ、白亜の柱に身をもたせかけるようにして、竪琴をつま弾き歌っていた。頭巾を目深にかぶって素顔はみえない。 


  正しいがため優しさゆえに

  滅んだ勇士や姫君の

  また名もない人の

  忘れないでとささやく声を♬


 歌詞の通りに、胸がしめつけられる。目の奥が熱くなって、いけない!涙が流れそう‥‥

「カサンドラさま?」


  ぼくは吟遊詩人時空をわたる

  竪琴のに乗せ届けよう

  忘れないで忘れないでと

  ささやく声を物語を♬


「吟遊詩人さん吟遊詩人さん、ホメロスというのね。どこから来たの?」

 曲が終わるのを見計らって、声をかける。

「ああ、その声は、錫杖しゃくじょうの鈴鳴りは、カサンドラ、アポロンの巫女‥‥」

 敬称抜きのことば使いに、「まァ」とマルペッサがたしなめようとするのを手で制する。

「遠い国からきた。山を越え海をわたり、時も越えて‥‥」

「時も越えて?」

 ホメロスが頭巾をはねのける。現れたのは見事な長い銀髪。けれど、顔は少女のように、あるいは年端のいかない少年のように、可憐で美しい。

「あなた、いったい齢はいくつなの?」

「それに男なの女なの?」

 マルペッサがたたみかける。

「ああ、忘れた。いつどこで生まれたのかも、自分が男なのかも女なのかも忘れた。あんまり遠いことだから‥‥」

 そういうと、こちらの体を突き抜けるように遠くを見る目をした。

 一度も視線を合わせようとしない。気になって尋ねる。

「あなた、もしかして目が見えないの?」

「つぶれてしまった。目が見えなくなりますようにと、神々に祈ったから。もう人が死ぬ光景を、切り刻まれる娘や焼き殺される子どもの姿を見なくて済むようにと」

「おお‥‥」わたしは思わずてのひらで顔をおおった。

「でも、肉の眼がつぶれても僕の心の目は見えている。そう、僕には未来が見える。カサンドラ、君と僕とは同じ未来を見ている。」

「同じ未来を、やはり‥‥」

 茫然とたたずむわたしとマルペッサに背を向けると、吟遊詩人は頭巾を再び被り、

「カサンドラ、いつかまた会うことになるだろう」と言い捨て、竪琴を肩にして神殿を歩み去った。

 

 やがて遠くから、またあの物悲しい調べが流れてくるのだった。

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