第9話 アキレウスの恋
使者は、アキレウスからプリアモス王とヘカベ王妃への申し入れとしてこう伝えた。
ポリュクセネーを正式に妻として迎えたい。そうすれば自分は率いてきたミュルミドン族五千の軍勢ごと戦線を離脱し故国に帰るだろう。もともと、一人の女のために起こされたこの戦争には気が進まなかったのだから。
思いもよらぬ申し出を受けて、トロイア王宮はてんやわんやの大騒ぎになった。
さっそく主だった者たちによる御前会議が、連日行われることになった。
アキレウスの申し入れを受け入れるようにと力説したのは、アイネーアスだった。
リュディアやメディアなどの近隣のアジア諸国や遠くエジプトからも、助太刀の軍勢は続々到着してきているとはいえ、いぜん、強大なギリシャ軍に対しては劣勢にあることを熟知している将軍たちも、これに同調した。
けれども、プリアモス王は頑として首をたてに振ろうとしなかった。
あんなミュルミドン族の地のような野蛮なところに最愛の末の姫をやるわけにはいかん。なんでもあそこには一つ目の巨人が棲んでいて、若い娘を攫っては食らうそうではないか‥‥というのだった。
そのうちに、なぜかヘクトール王子までもが王に同調しだした。
「よりによって最愛の妹を人質同然に敵地に送り込むなんて‥‥」と、会議の席で語ったと地獄耳のマルペッサから聞いて、わたしは心を傷つけられる思いだった。
最愛の妹とは、ヘクトール兄上がわたしに向けて語りかけるときの決まり文句だったし、周囲にもそのように語っていた言葉だったから。
わたしはもう、兄上の最愛の妹ではないのだわ。しかたがないわ。口をついて出るのは不吉な予言ばかりだし、それに、アキレウスの弱点の夢もいまだに思い出せない。
御前会議は結論の出ないまま、連日続いた。
このままでは、休戦期間が終わってしまう‥‥
わたしは意を決して、女人禁制の会議の間に押し入った。今度は衛兵も、あきらめたものか本気で制止しようとはしなかった。
「カサンドラ様、また塔に押し込められます!」と背後でマルペッサが叫んだが、もとより覚悟の上だった。
「カサンドラ、またそなたか。今度はどんな不吉な予言とやらを言ってくれるのか」
わたしを見るなりプリアモス王が、いやみを述べる。
わたしは意に介さず、ヘクトールに向かうと叫んだ。
「兄上、どうかアキレウスの申し入れを、聞いて下さい。願ってもない申し入れではありませんか。さもないと‥‥さもないと‥‥」
「さもないと、何かな?カサンドラ」
ヘクトールが促す。「アポロン様のお告げの通りになってしまいます。おお、おそろしい。アキレウスが戦車に兄上のからだを、死んだようになったからだを結び付けて、トロイアの城壁のまわりを引きずり回すのを、夢で、お告げで見たのです‥‥」
一座にざわめきが走る。
「カサンドラ、やはり気がふれているという噂はほんとうだったのか。この無敵の英雄ヘクトールが、そんなことになるわけがないであろうが」と、プリアモス王。
ヘクトールの方は、やや顔を蒼ざめさせて、黙ったままだ。
「カサンドラ、何を言ってるのか自分で分かってるのか?あのポリュクセネーが、一つ目の人食い巨人の巣食う、蛮地に送られてしまうのだぞ」プリアモス王が
「カサンドラ‥‥」意を決したように、ヘクトールが口をひらいた。
と、その時ー-
「アエネーアス様が、ギリシア方からきた客人を伴ってご入場です」
衛兵の声が高らかに告げた。
そういえば、アエネーアスの姿が今まで見えなかった。でも、ギリシア方の客人とは?
一座の視線が入り口に集まった。
アエネーアスが、神官の頭巾でなかば顔を隠した男を伴って入ってくる。
「プリアモス陛下、ヘクトール殿、遅くなりました。珍客を連れてきました」
「珍客とは?」
男が頭巾を取る。若く精悍な顔が現れる。まぎれもない、あれは‥‥
「アキレウス殿です。」
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