第8話 アルテミスの巫女

 戦争が始まって何度目かの、夏至祭の時節がめぐってきた。

 わたしたち、アポロン神殿の巫女と神官の一行は、都を出てスカマンドロス河をわたり、イーデーの山麓にある奥の院に向かった。

 その後を、妹神アルテミス神殿の巫女と神官の一行が続く。

 奥の院では、アポロン神とアルテミス女神が、同母兄妹神として合祀ごうしされていたのだった。

 アルテミスの巫女一行の先頭に立つのは、末の妹のポリュクセネー。ついきのうまではあどけない少女と思っていたのに、今年からはアルテミス神殿の最高巫女を務めることになっていた。

 

 木立を縫って続く山道をしばらく登ると視界がひらけ、古錆びた奥の院の建物が姿をあらわす。

 正面の前はかなり広い草地になっていて、すでに大勢の人が詰めかけていた。

 アポロンの巫女とアルテミスの巫女の、奉納の舞を見物するために。

 見物人めあてに、あるいは牛乳を壷に入れ、あるいは果物を籠に入れ、草の上に筵を敷いて並べた市も立っている。


「カサンドラさま、あそこにアキレウスが‥‥」

 アポロン神への舞を舞い終わり、アルテミス女神への舞が始まるのを見ているときのこと。マルペッサの言葉に目をやると、見物人のあいだに、ギリシア軍の兵士らしき屈強の若い男の姿がチラホラと認められた。

 今はやはり何度目かの休戦期間。そのあいだはこうして、ギリシャ兵士もトロイア人に交じって神殿に参詣し、朝市で買い物をしたりする。ギリシャ人とトロイアびととは、言葉も同じなら奉じる神々も同じくする、元は同族なのだった。

 そんなギリシャの兵士の一団のなかに、アキレウスがいた。目立たぬようななりをしていたが、あふれ出る覇気は隠しようもない。

 ギリシア方の総大将、アガメムノン王とは和解したとかで、ふたたび戦場に立ってトロイア軍におおきな損害を与えていた。

 その誰もが恐れる超戦士アキレウスの視線は、いま、舞いを始めたアルテミスの巫女たちへと向けられていた。それも、中央に立って舞うポリュクセネーに一直線に向けられていた。

 タンバリンをシャラシャラと鳴らしながら踊るポリュクセネーは、さながらアルテミスの女神が舞い下りたかのように美しかった。その姿をアキレウスは、かれたように一心に見つめているのだった。

 と、一瞬、ポリュクセネーの踊りが乱れた。アキレウスの視線を感じたのだと分かった。神々しいまでの入魂の舞いに、隙が生じた。ミルクのような白い頬に、それとは見分けられないほどに紅が射したのが、わたしには分かった。

「ポリュクセネー‥‥」わたしは絶句した。こともあろうに憎い大敵のアキレウスと妹の乙女ポリュクセネーが、視線で情を通じあっている‥‥

「カサンドラさま?」いぶかるようにマルペッサが言葉をかける。


 その時。

 別の視線をこの身に感じて、わたしは思わず体を固くした。

 アキレウスの純な恋慕の視線とはまったく異質な、からみつくような粘っこい視線だった。

 おそるおそる視線のくる方向を、横目で窺う。

 アキレウスからやや離れたところに、アキレウスと同じぐらいの体格でやや年かさのギリシャ兵士がいた。

 視線はまっすぐ、このわたしに、それも胸から腰のあたりに向けられている。

 目の奥になにやら粘性の白い光を湛えて。

 おぞましさに身がすくんだ。

「マルペッサ、あの男は‥‥」

「あれは多分、ロクリスのアイアース」

 情報通のマルペッサは、ちらと目をやっただけで即答し、付け加える。「身持ちの悪さでも有名ですわ。神も恐れぬとか‥‥」

 そんな男がなぜわたしを。アキレウスではなくて‥‥

 と考えを走らせて、思わず頭を振った。「カサンドラさま?」

「なんでもないわ、少し疲れただけ」

 わたしは内心、ふかく恥じていた。こともあろうに大敵アキレウスをめぐって、妹のポリュクセネーに嫉妬したなんて。


 夏至祭からしばらく経って、休戦期間もそろそろ終わりに近い頃。アキレウスの使者と名乗る兵士がトロイア王宮に現われた。

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