第7話 ヘクトールの予兆

 翌朝、前日に続いてアポロン神殿を訪れたヘクトール兄上は、勝利祈願の盃を受けたのち、ポツリとこんなことを言った。

「アキレウスは強い。おそろしく強い」

「でもヘクトール兄さま、あなたが優勢だったのです」

「最初はな。けれど、打ち合うたびに、あやつの槍は勢いと正確さを増した。まるでこの私から力と技術とを吸収するかのように。」

 そしてポツリと付け加えたー-「次にアキレウスと戦う時が、私の最後かもしれない‥‥」

「ヘクトール兄さま。弓矢はどうかしら。」わたしは思いついて言った。「アポロンの神は弓矢の神でもあるのですから」

「カサンドラ。アキレウスは黄泉を浴びて不死身となった体。弓矢は通るまいぞ。あやつを倒すには槍と盾で叩き潰すほかないのだ‥‥」

「いいえ、兄さま。からだに一か所だけ、黄泉を浴びずに弱点となったところがあると、いつかの夢で教え‥‥」とここで、気が付いてわたしは言い直すー-「いつかアポロンさまに教えられたような‥‥。」

「何、本当か、カサンドラ。して、それはどこなのだ?」

「それが、兄さま。はっきり思い出せないのです」

「思い出してくれぬか。そうだ、もう一度アポロン神に祈り、託宣を受けるわけにはいくまいか。カサンドラ、こうなったらお前だけが頼りだ‥‥」

 こう言って勇士ヘクトールはその日も戦場へと出て行ったのだった。


 その日以来ヘクトールの部隊は、アキレウスとの正面衝突を避け、隙をいて側面からギリシャ軍の陣地に奇襲攻撃をしかけるという、ゲリラ戦法を取るようになった。

 一方で、運悪くアキレウスに遭遇した部隊はおびただしい犠牲者を出すことになった。

 そのうちアキレウスの姿は、ギリシャの軍勢には見られなくなった。

 やがて、アキレウスが総大将アガメムノンと仲たがいして、戦場に出ることを拒んでいるという、噂が流れるようになった。

 トロイア勢はここぞとばかり反撃に出て、多くの名だたる王侯や将軍を血祭りに挙げた。またしばしば夜襲をかけて沖合に停泊するギリシャの軍船にも火を放った。

 トロイア方の損害も半端ではなかった。

 やがてギリシャ軍から使者が来て、戦死者の弔いのための暫しの休戦を申し入れてきた。トロイア側も事情は同じだったので、これを受け入れた。


 十年にもわたる長い恐ろしい戦いの、これが緒戦だった。

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