第4話 運命の美女ヘレネ―
日頃と異なり王宮には人が溢れていた。
大広間に足を踏み入れると、めざとく私たちを見つけてヘクトール兄さまが近づいてくる。
「カサンドラ。待ってたぞ」
「ヘクトール兄上。お久しぶりです」
わたしは感慨を込めて、長身の第一王子を仰ぎ見る。
広く厚い胸。しなやかに伸びた四肢。厳しさのなかに包み込むような優しさを秘めた、神々しいほど立派な顔。
これが、トロイア第一の勇士にして不敗を誇る英雄、そしてプリアモス王の揺るぎない後継ぎとして人々の希望の光となっている、ヘクトールなのだった。
「お前も息災でなによりだ。アエネーアスもマルペッサも、元気か」
さりげなく言葉をかけられてマルペッサは顔を紅潮させる。トロイアの女なら英雄ヘクトールに憧れないものはいない。
「ヘクトール兄さま、で、パリスは」
「パリスならあそこにいる。お、気がついたらしい」
「カサンドラ姉上、パリスです、何と双子なのにお目にかかるのは初めてだとは‥‥」
「パリスなのね、カサンドラでいいわ」
歩みよって来る美しい少年とさりげなく言葉を交わしながら、私たちはまじまじと見つめ合った。
一瞬、鏡と向き合っているような錯覚にとらえられた。パリスの方が少し背が高く、肩幅もほんの少しだけ広いほかは、瓜二つといってよい。
「お前たち、本当によく似ているな」とヘクトール兄さまが嘆息する。
「カサンドラ、妻のヘレネ―に紹介しよう。きっと親友になるよ」
興奮した面持ちでいう視線の先を見ると、人の輪ができていて、その中心で父王プリアモスと母王妃ヘカベーが見慣れぬうら若い女と話している。
あれが、ヘレネ―。
横顔だけでも圧倒的な美貌が分かった。何か妖気のようなものがその周りに放射されていて、そこだけ王宮のどの場所とも異質の空間になっているようだった。
パリスに導かれるままに近づくと、三人の視線がこちらに向けられる。
「おお、ヘレネ―殿。わが第二王女にしてパリスの双子の姉、カサンドラじゃ」
「カサンドラ姉上ですね。お会いしたかったですわ、スパルタのヘレネ―です」
宮殿や神殿から吹き上げる炎が夜空を焦がしていた。
喚声と悲鳴とが
そしてー
城壁の上に佇む一人の女。炎の照り返しでくっきりと浮かび上がった美貌に、邪悪な微笑が浮かんでいた。
それこそがヘレネ―だったと、今、気が付いたのだった。
わたしはありったけの声で叫んでいた。
「いけないわ、このヘレネ―はトロイアを滅ぼす。パリス、ヘレネ―をスパルタに追いかえして!」
「何をいうのだね、カサンドラ。ヘレネ―殿はほら、こんなにも美しく優しい」
「カサンドラ、いくら何でも失礼ですよ!」
「ああ、父王陛下、母上、この女は災厄をもたらす地獄から来た女。トロイアが滅びる!早く早く、追い出して!」
「カサンドラ、気分が優れないようだね」
「カサンドラ、外の空気を吸って来ようよ」
「カサンドラさま、しっかりして」
ヘクトール兄さまとアイネーアスと、そしてマルペッサに抱えられて、王宮を連れ出されるわたしの耳に、竪琴の音とともに吟遊詩人の歌声が流れてきた。
そのもの悲しげな節回しもまた、トロイアの将来を暗示しているようだった。
吟遊詩人さん 吟遊詩人さん
あなたの笑顔は 素敵なのに
歌はどうして 悲しいの
竪琴のしらべが 胸しめつけるの♫
君もいつか見る 涙の谷を
国をめぐり 時を渡っても
聞くのは 滅びの歌ばかり♫
だから僕は 死ねなくなった
海と空を渡り 時を越え
竪琴に乗せて 届けよう
滅びしものの 物語を♫
正しいがため やさしさゆえに
滅んだ勇士や 姫君の
また名もない人の 物語を
忘れないでと ささやく声を♫
ぼくは吟遊詩人 時空をわたる
竪琴の
忘れないで 忘れないでと
ささやく声を 物語を♫
【註】本連載の主題歌「時空をわたる吟遊詩人」は、AI作曲したものを以下のサイトで試聴できます。
https://www.orpheus-music.org/open.php?id=667435
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