第3話 パリスが凱旋する日
やがてわたしも上級巫女見習いとなり、夢殿に
けれども、念入りに
そのかわり夢に出てきたのが、あの「トロイの木馬」なのだった。
絵本というものに描かれた木馬は、巨大でまがまがしく夜の闇に立ち、横腹には長方形の穴がひらいて鎧兜に身を固めた兵士たちが
だから、大きな木馬が来てトロイアが滅びるというのが、アポロン神殿の巫女としての最初の予言になってしまったのだった。
その後もアポロン様が現れることはなかった。代わりに夢に見るのは、不思議な異国の情景だった。
白亜の宮殿と神殿の間に
見知らぬ遠い異国のようで、それでいていつか見たことがある、住んでいたことがあるという記憶が、どことなく
そう。ごく幼い頃には、もっと頻繁に、夢に出てきていたような気がする。当然のことのようにその異国の人々と言葉を交わしていたような憶えがある。
でも、神殿入りする頃には、記憶はほとんど消えかけてしまっていたのだけども。
木馬の予言のせいで、一時は気がふれていることにされてしまったとはいえ、予知姫への畏怖と信頼の念にはまだまだ厚いものがあった。
見習いから上級巫女へ、さらに最高巫女へと位階が進むにつれて、わたしも信頼を裏切らないよう言動に気を付けるようになった。
アポロン神さまが一向にお姿を現わさないなどとは、口が裂けても言えなかった。マルペッサの忠告のように、適当なことを言ってごまかしていればよいのだった。
そんなある日のこと。王宮から使者が来て祝宴に出るように父王プリアモスからの伝言が伝えられた。
わたしには双子の弟にあたる第二王子のパリスが、花嫁を連れて
実のところ、生まれていらいパリスには一度も会ったことがなかった。
旅の星占い師が、生まれた男児に国を滅ぼす不吉な相を見たとかで、都の南を流れるスカマンドロス河のかなたイーデーの山に、王命で棄てられたのだった。
けれどパリスは雌熊の乳を啜って生き延び、牧童として成長した。そしてある日、アフロディーティ女神との約束だと言って船を仕立ててギリシャに旅立った。
絶世の美女を花嫁にしてトロイアの都に凱旋するといい残して。
花嫁の名はヘレネ―といった。
「それが、なんとスパルタの王妃におなりになったばかりだったのを、たらし込んで駆け落ちしてきたっていうじゃありませんか、カサンドラ様」
日ごろ都に流れる噂話を集めては教えてくれるマルペッサが、あきれたように言った。
「それじゃスパルタの王様は、カンカンに怒ってるかも」
マルペッサを伴って王宮への道を急ぎながらも、不吉な思いが胸を
「カサンドラ‥‥」
呼び止める声にふり向くと、従兄のアエネーアスだった。齢は二歳ほど上だが、まだ少年の面影を残しているその容姿は、思わず見とれるほど優美でしかも
そんなしなやかな容姿にも似ず、武勇にも優れた素質を発揮し、ヘクトール兄さまに見込まれて勇者たるべく特訓を受けているのだとか。
「アエネーアス、あなたが来てくれたのなら心強いわ」
思わず甘えた声になるのを、とどめるのは難しい。「あたしはヘレネ―どころか、パリスにもまだ会ったことがないの」
「パリスとはいちど、船出の前に港で会った。君とそっくりな顔をしている。でも、似てるのはそこまでだ。中身は、心の内は比べものにならないよ」
「そうでしょうとも、アエネーアスさま。カサンドラ様ほど心のお美しい方は、世界のどこを探してもいないでしょうから」マルペッサが口を挟む。
「ねえ、アエネーアス、マルペッサ。ヘレネ―って世界一美しいって本当?」
「何だかそういう噂が流れているんだけどね」
「とんでもありませんわ、アエネーアスさま。ウチのカサンドラさまに比べたら、きっと太陽の前の月のように蒼ざめてしまいますわ」
「そのことで、カサンドラ。君も今日は王宮じゅうの注目の的になっている。あまり変なことを口走ったりしない方がいいよ」
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