「エチオピア料理が食べたいな」

 と、恋人が言った。


 春に恋人と同棲を始めてから二ヶ月が経つ。かつて、父と母と私の三人で暮らしていた家に、今度は恋人と二人で暮らしている。

 その違和感にも、もうずいぶん慣れた。


 私たちの甘美で幸福な生活は、いまのところ完璧なかたちをしている。


「エチオピア?」


 恋人は、私に比べて経験が豊富だ。私より長く生きているというだけではなくて、私のよりも密度が高い人生だったのだと感じる。

 頭の中にも、きっと私よりずっとたくさんのものがつまっているにちがいないのだ。証拠に、恋人は私にいろいろなことを教えてくれる。


 私は、二人の頭を叩きくらべてみたら、全然べつな音がするのかもしれない、と考える。

 恋人のはぎゅっとつまっているからいい音がする。反対に私はからっぽだ。


 の入った西瓜みたいに。


 エチオピアへ行ったときの話をしてくれている恋人の頭に手を伸ばしてみる。恋人はほんの一瞬だけ不思議そうな顔をして、すぐに微笑む。

 のばした右手の首をつかんで引き寄せられて、私は恋人の腕の中にすっぽりとおさまってしまう。恋人は私の体を操るのが上手だ。


 うしろから抱きすくめられて、大きな手で頭を撫でられる。思いがけず、ほうとため息をついた。

 私は上体をひねって恋人の首筋にキスをする。恋人はくつくつと笑いながら、私の頭を撫でている。


 私は、何も心配することはない、と思う。


 私の頭のは恋人がみたしてくれる。私が私の輪郭をたもっていられるのは、すっかりぜんぶ恋人のおかげなのだ。


 私は恋人を愛している。

 恋人はただ、それを受けとめてくれる。流すでもなく、返すでもなく。やさしく抱きとめて、それから、たくさん愛してくれる。


 私の望むだけ。


 そこにはまったく余分がないし、不足分も無い。

 ぴったりちょうどなのだ。


 恋人のとなりでだけ、私は完全になる。恋人もそれを知っている。


 結局、私たちの町にエチオピア料理店はなかったから、二人で買い物へ行って家で食事をすることにした。

 私の恋人は料理も得意だ。

 勿論、私も苦手なわけではないけれど、私はそれを恋人に言っていない。恋人の手料理が、私は好きだ。


 私が料理できることを知ったからといって、恋人が手料理を振る舞ってくれなくなることなどないことも、私は当然わかっている。

 私には、ほかにも恋人にかくしていることがいくつかあって、だけど、恋人はそのすべてを見透かしているにちがいないからだ。


 私の秘密など、恋人にとっては透明な水槽のようなものなのだ。

 私は恋人に泳がされている。


 自分のほうから。 

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