十一月。

 さみしいという言葉はきっとこの季節に生まれたのだと、そう思う。

 秋とも冬ともつかないこの時季に特有の、胸に迫る茫漠とした寂寥。それが人肌恋しさというものなのだと理解したのは、一体いくつになってからだったか。


 風がつめたい。

 恋人と会えないこんな夜は、なおさらだ。


 恋人は大学院でスロヴァキア映画の研究をしている。今日は、その仲間との約束があると、二日前、私の家で夕方のニュース番組を見ながら言っていた。


 私は階段を降りている。長い階段。私の住む町は海から続く坂の中腹にあるから、あちらこちらに階段がある。コンクリートで作られた、ちいさな、ほそい。


 だからだろうか、私の家には昔から自転車が無かった。


 一度、それがどうしても納得できずに泣いたことがある。ユカちゃんの家にはぴかぴかの赤い自転車があったから、私もあれが欲しいと泣きじゃくっていた。


 今はもう、この町にユカちゃんはいない。私たちが中学にあがるころ、どこかに越していってしまった。

 あれから何年経つだろう。


 顔も覚えていないユカちゃんの、けれど誕生日だけは今も覚えている。十一月十九日。

 もう、すぐだ。


 誕生日のこと。

 私は去年の誕生日を思い出す。恋人がお祝いをしてくれた。

 その何日か前、恋人が「どこかレストランを予約しようか」と言ったので、私は「家がいい」と言ったのだった。


 きっと泣き出してしまうから、と。


 私は歳をとるのがおそろしかった。

 二十という年齢は、十九と比べてずいぶん大人だ。なんでもできるようになって、なんにでも責任を持たなければいけなくなるような気がする。


 たったひとつだ。それしか違わないのに。


 家から海にくだる道の途中で、私は足を止めた。お客様専用駐車場、と書かれた看板は、裏の通りにあるスナック・バーのものだ。


 しゃがみこんでしばらくじっとしていると、つやのある毛並みの猫が路地から顔を出した。

 夜にとけ込むような毛色が、月明かりの下で明瞭な輪郭をかたどる。ネコ科らしい、しなやかな筋肉に見惚れながら名前を呼んだ。


「ハチ」


 頭の横のところに傷痕があるからそう呼んでいる。

 偶に会いにきては、しばらく可愛がらせてもらうのだ。べつに何か与えるわけでもないのによくなついている。初めて見たときから人に慣れたようすだったから、もとは飼い猫だったのかもしれない。


「いい子にしてた?」

 のどをくすぐりながらたずねた。

 返事は期待していない。勿論。


 それはある種の絶望的ないとなみで、恋をしているみたいだ、と考えて、おどろく。

 私は恋というものを絶望と同列に語れるらしい。


 恋人の腕の中でときどき感じる、そうかあれは絶望だったのか。


「それでも必要なの」

 つぶやいて、口の中でもう一度くりかえす。

 必要なことなのだ、私には。


 夜空を閉じ込めたような瞳をのぞく。

 ハチが高く、あまい声で鳴いた。私はすこしうれしくなってしまう。


 と、と、と。

 また、階段を降りている。


 と、と、と。

 規則的な足音が響く。


 歩みをかさねるたび、からだが自分と切り離されていく。あしの動きは自動化されて、脳だけがべつのところに行ってしまう。


 無心に階段をくだり続けた。風が吹きあがってくる。鼻腔に潮のにおいが触れる。


 海が近い。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る