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ちいさいころから、「ぶあいそ」だと言われて育った。
ぶあいそな子やわ。
いちばんよく覚えているのはいつかの正月に会った大叔母のそれで、私は、知らない言葉なりにもなんとなく意味を察しては、それを申し訳なく思っていた。
実際に、私は無愛想な子供だったにちがいないのだ。
お菓子をもらっても、かけっこの速さを褒められても、私はほとんど表情を変えることがなかった。それは感情を表に出せなかったという意味ではない。
私は、私の心に疎かったのだ。
自分がいま、どう感じているのか、何を思っているのかがわからなかった。
それで、ただ、いつもすこし困っていた。
それだけが、私が私についてしっていることだった。私は困った子供だった。
だけどいまは違う。
私の心について、私よりずっとくわしい恋人がそばにいてくれる。
父の命日に庭のギンモクセイが咲いた。
私が住んでいるワンルーム・アパート。その自転車置き場の脇で、白くて、ちいさな花が、つやつやした抹茶色の葉に埋もれるようにして咲いていた。
父を亡くしたのは三年前。
水族館でイルカが子供を産んだ次の日で、あたたかい夜だった。
私が父を喪ったとき、母はすでに家を出ていたから、私はひとりで家族の死と向き合わなければいけなかった。
弔問客は口々にそれをかわいそうだと言い、私の頭を撫で、あるいは手を握ってはげましてくれた。たくさんの名前を知らないおとなたち。その手。
実際のところ、私はそれほどかなしんでいなかったから、むしろ、今後しなければいけないだろう煩雑な手続きのことばかりで頭をいっぱいにしていた。
母がこの家を去ったのは、そのさらに三年前。私が十四のときだ。
まれに酔った父が言うことには、熱海かどこかに男がいて、母はそちらに身を寄せているらしかった。
母親との離別は、当時の私にとって勿論それなりにショッキングなできごとだったのだが、その話を聞いたときにはすんなりと納得してしまったのを覚えている。
父が死んだあとの手続きに関して、私がすることは意外にもすくなかった。
伯父やら伯母やらがあつまって、何かあれこれと相談し、父の死は粛々とただの記録になった。
どうやらその手順を踏むことによって、大人たちは死というものを
それに気がついたとき、私は素直に感心してしまった。考えてみると、葬儀にしろ、そのしくみの一つの部品だった。よくできている、と思った。
問題になったのは私の住みかだった。
親戚の家で厄介になるつもりはなかったが、かと言って母のところへは行く気になれなかった。そのまま元の家に住み続ける話もあったが、拒否した。
いまにしてみると、ああもわがままを言ったのはあれが初めてだったかもしれない。それほど嫌だった。
母も、父もいなくなってしまったあの家のしずけさを、私は許容できなかったのだ。
私にとって、死はかなしいものではなかったが、ひどくさみしかった。
結局、推薦試験で地元の大学に進学が決まっていたことが決め手になり、伯父の計らいでアパートを借り、一人で暮らすことになった。
実家のすぐそばで、わざわざ部屋を借りてまで、とは考えたが、伯父は快く私の転居をたすけてくれた。
あれから時間が経って、私は
おおむね、私はしあわせなのだと思う。
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