夏、私は恋人と旅行に出かけた。

 私たちは海にいる。あの町の黒々とした海とは違う、白い砂浜によく映える青。退屈なうつくしさ。

 それでも私のとなりには恋人がいる。それだけのことで、私はどこへでも行けてしまう気がする。


 ざざん、ざぶん。

 恋人が波の口真似をした。私は、彼がそういった茶目っ気を見せるときの表情が好きだ。

 浮かれているような、でもすこし、それを恥じているような。


 きょう、ホテルについてすぐ私たちはセックスをした。二度も。

 それから、お酒をたくさん飲んだ。

 私はお酒の種類や銘柄にくわしくない。恋人もそうだ。だけど、私たちはよくふたりでお酒を飲む。


 足元の砂を小波がさらっていく。ぎゅっと足指を丸めてつかんでみたけれど、波はそのあいだをすりぬけて私の砂を盗んでいってしまう。ざざん、するする。


「子供のころ、船乗りになるのが夢だったな」

 ぽつりと恋人が言った。

 私は「そうなの」と相槌を打った。


 恋人について。

 私はそのすべてを知りたいと思っている。

 だから、彼の話はいつだって真剣に、ひたむきに聞いてきたし、そのほとんどを記憶している自信だってある。

 いま、彼が話している子供のころの夢を聞くのだって、ほんとうは二回目だ。けれど私は、そんなことは言いもしないし、表情にも出さない。


 夢。

 私にとってそれは呪いのことばだった。

 どうなったって何をしたって、きっと私は私のままで、そうであるならば、未来など語る意味を持たなかった。


 私は私以外になりたいのだ。

 たとえばあなたに。


 呑み込んだ言葉を胸のうちで反芻する。






 夜は恋人の腕に抱かれて眠る。


 右手のすわり、、、が悪くて身じろぎしたついでに、恋人の頬に口づける。

 恋人はやわらかい微笑をうかべ、私の頬にもキスをしてくれる。私はそれですっかり安心してしまう。安心して、それからもう一度恋人にキスをした。今度は唇に。

 さっきのよりながく。

 あまい果物をかじるみたいに。


 恋人が笑みを深める。きつく抱き寄せられて、私は息ができなくなってしまう。耳元で恋人が睦言をささやく。私も、彼の体に回した腕を引き寄せる。

 胸をいっぱいに満たす熱を言葉にしたいのに、口がふさがっていてできない。私がもぞもぞしていると、不意に恋人が「大丈夫」と言った。大丈夫、わかってる、大丈夫だよ、と。


 恋人がそう言うのならそうなのだ。私は動くのをやめて、まぶたをとじる。意識が暗いところに落ちていく、暗転。


 朝、私が起きると、恋人はすでにベッドを出ていた。珈琲の匂い。

 部屋にはヴォリュームを落としたフランク・シナトラの『イパネマの娘』がかかっていて、私は泣き出しそうになる。


「あなたは孤独ではないわ」

 体を起こすなりそう言うと、恋人はこちらを向いて両腕をひろげた。私は子犬のようにその中に飛び込む。


「そうだ」

 顔をぴったりくっつけた胸から、恋人の声が響く。


「そうだ。僕らは二人でいる」

 私は、よかった、と思う。


 恋人が独りのつもりでなくて。 

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