たとえば私が

ちよ子少佐

 私は朝が嫌いだ。


 鳥のさえずりに、ぼやけた視界に、しずけさをたたえた空気に、朝を構成するすべての要素に、自分が生きているのを感じる。

 焦燥にも似たその実感は、真っ白な絶望を伴って私を圧迫する。


 起き抜けの頭が鈍く痛む。体を起こして、部屋の反対側の壁にかかった時計を見た。普段と変わらない起床時間。

 緩慢な動きでベッドを抜け出し、身仕度を整えながら、少しずつ意識の靄が晴れていくのを自覚する。ふと、寝室を満たす冷気に身震いした。


 私の住むワンルームは朝も暗い。窓がないからだ。

 正確に言えば、私が箪笥で隠してしまった。自分の部屋が外の世界に通じているという事実を恐ろしく感じる時期が、私にはあった。


 無意識にため息をつき、あとからそれに気がついて眉をひそめた。最近、増えた気がするのだ。


 部屋の中心に置いた小さな机から鏡を取り上げ、右手で前髪を整える。


 鏡の中の私は、どこか疲れたかおをしていた。






 支度が済んだら、家を出てすぐ隣にある階段をあがる。そこから、ゆるやかで、けれど長い坂道を登りきったところ。私の通う大学は町の外縁にほど近い場所にあって、家からは少し遠い。


 門を抜けても続く斜面に辟易としながら、時々声をかけてくる顔見知りに返事をする。努めて発した明るい声が、いっそ滑稽なくらい空虚な響きを耳に残した。


 もしも今、はたから自分を見られたならば、私はきっと恥ずかしくてしかたがなくなることだろう。

 浮かべた笑みのぎこちなさは自覚している。だけど、これで良いのだ。


 私はあなたの敵ではないという、その主張さえできれば。


 広い講義室の奥、窓際の席に鞄を置いて座る。

 月曜日のこの時間は、窓から見える町を眺めることにしている。まだ頭が回り始めていないから、というのが言い訳で。


 窓の外、うす曇りの、つめたい空。

 民家の屋根が、並んで続いて海まで届く。

 港、白い漁船の群れ。


 遠くに霞む水平線が、船よりずっと高い位置に見えるのはどうしてだったか。前にも、同じことを疑問に思って調べたような気がする。

 大学の講義は、痒いところに手が届かない。






 恋人を待っているあいだは本を読む。いつからか、もうほとんど習慣になっている。


 本のページをめくるとき、私は何かこわれものでも扱うみたいに緊張する。

 角の余白に親指をあてがって、そろそろと撫ぜるようにして隙間をつくる。人さし指と合わせて抓んだら、そのまま指をすべらせて、めくる。右手に残る紙の手触りと、遅れて届くインクのにおい。


 読書中、私は私でなくなる。はたちの女でも、大学生でも、誰かの娘でも、誰かの恋人でもなくなる。

 そういう肩書きは、すっかり全部、文字の海にとけてしまって、私はまっさらになる。

 そうして孤独をやり過ごすのだ。

 頁の隙間で、息をひそめて。


 恋人が来たら。

 そうしたら、私が身を隠す必要はなくなる。恋人と手をつないでいればいいし、キスをしてもいい。

 ただそれだけのことで、孤独はたちどころに消えてしまって、あとにはうす桃色の炭酸がはじけるような幸せだけが残る。


 彼の手が私の髪を梳くたび、唇と唇が触れるたび、私はこのときのために生まれてきた、と思う。きっとそれはほんとうなのだ。


 恋人は背がひょろりと高く、声に深みがあっておだやかで、ボサノヴァを好んで聴く。特にマリア・ルイザの歌が好きで、そのために、私の部屋には恋人からもらった彼女のCDが二枚もある。

 普段は銀縁の眼鏡をかけていて、これが切れ長の目に憎いほどよく似合っているのだが、キスをするときには邪魔らしく外してしまうのを、私は惜しく思っている。


 夕方。私は図書館の二階にひとりでいる。

 大きくとられた窓から射し込むオレンジ。背の高い書架を縫って歩く人の気配。印刷機の駆動音と、ひそやかな話し声。


 想像していたより深くしずむ椅子に腰かけて本を読んでいると、私だけが間違ってこの世界に迷い込んだような気がしてくる。

 図書館が好きなのは、そこに静謐を感じるからだ。

 静寂と似て、それでも決定的に違うそれに身をひたして、私は底冷えのする安心に抱かれる。


 やがて恋人が来る。

 こげ茶色のたっぷりしたコートを着ていて、両目がいたずらっぽくほそめられている。十歩も前から気づいていたのに、私はいま気がついたみたいな顔をして、こんばんは、と言ってみせた。


「お待たせいたしました」

 と、恋人が言う。 

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