29話~30話
29
桐畑たちは、一重の円を成した。ゆっくりと全体を見渡したダンが、正面に視線を固定した。
「ダン校長。自分に話があります。良いですか」
片手を半端な高さまで上げた桐畑は、厳粛に割り込んだ。
少し虚を突かれた風のダンだったが、「わかった。話してみろ」と平静な語調で促した。
桐畑は瞼を閉じて、一秒、二秒。たっぷりと深呼吸をして、目を開いた。
「自分とそこにいるアルマは、この時代の人間じゃありません。一ヶ月ほど前に、元のケントとアルマの身体を乗っ取る形で、百四十年後の日本からタイム・スリップ──ってこの時代に、んな概念はねえか。この時代にやって来ました。俺の名前は桐畑瑛士。そこのアルマの格好をしてる奴は、朝波遥香って名前の奴です」
断固として告げる。だが、誰からも返事はなかった。遥香をちらりと見ると、驚きと困惑が入り混じった面持ちを、桐畑に向けていた。
「タイム・スリップは、超ぼろぼろのボールに触って起こりました。で、今もそこに同じボールがあります」桐畑は、びっと例のボールを指差した。
「だから俺たちは、これから一緒に触ります。そんで、日本に帰ります。誰がなんと言おうとも、絶対に帰ります」
(なんか、挑発っぽくなっちまったな。ま、まーったく後悔はしてないけどよ)
開き直った桐畑は、堂々と胸を張って反応を待つ。
「いったい何を話してるの。全然、理屈が通ってないよ」
やや慌てた様子の遥香から、冷静な、アルマの口調の指摘が来た。
(まだ演技をすんのかよ)
悲嘆と苛立ちを感じながら、桐畑は再び口を開く。
「朝波遥香は、責任感の塊です。自分が日本に帰ってアルマが消えたら、みんなが悲しむ。俺だけ帰して自分は残って、アルマの振りを続けよう。そんな、てめえを省みないバカな真似をしようとしてました。だから俺は、そいつを粉々にぶっ壊してやりました」
桐畑は、力強く言葉を切った。知らない間に、拳は強く握り込まれていた。
軽く怒った面持ちのエドが、幼い口振りで喚き始める。
「いーやいやいや。ふざけ過ぎだっての。あんた、ケントのニセモンだろ。本物のケントは、ぜーったい嘘だけは吐かないんだよ。……ん? でもほんとだとしたら、ケントはケントじゃあなくて。嘘だとしたら、ケントはケントで。なんか俺、訳がわかんなくなってきた」
エドは、途中から混乱を来し始めていた。真剣そのものな顔のブラムが、厳格な調子で引き継ぐ。
「そこにいるケントの中身が本物のケントだとすると、発言内容は真実だよ。つまり、ケントはケントじゃあないってことで、矛盾が生じてる。だから少なくとも、今のケントの中にいる人は、ケントでない誰かだ」
会員たちが隣同士で、小声の会話を始めた。「桐畑君」と、不安げな顔の遥香が控えめに諌めてきた。
「黙ってろ。喋ってんのは俺だ。ここはお前の出番じゃねえ」
目もくれずに強く捩じ伏せると、遥香はゆるゆると口を噤んだ。考え込むような、静かな表情をしている。
「俺たちが戻ったら、ケントとアルマは完全に消えちまう可能性もある。でもだからといって、誰かが犠牲になってめでたしめでたしなんて、ぜったいに間違ってる。確かに、仲間の消失は悲劇だよ。だけと、ホワイトフォード校フットボール結社は、そんな柔じゃあない。いっくらでも、乗り越えていけるっての」
少し間を置いた桐畑は、貫くような眼力で遥香を睨んだ。
「それにな、朝波! 日本でお前を待ってる奴らはどうすんだよ! いくら事情を話されても、悲しいもんは悲しいんだよ! 俺だってそうだ! 昨日も、あんだけ頭におもくそ叩き込んでやったろ! 俺はな! 日本に帰っても、お前とずっとずっと、永遠に一緒にいたいんだよ!」
遥香は、はっとしたようにわずかに目を見開いた。見届けた桐畑はぐるんと中央に顔を戻し、真正面を指差した。
「あるべき所に、あるべきものを戻す! これが俺のやり方だ! 文句がある奴は、しゃしゃり出てみやがれ! 完全完璧、徹底的に論破してやる!」
桐畑の耳に、轟くような自分の声が飛び込んできた。場は再び静まり返ったが、遥香が鼻の下辺りを人差し指押さえて俯いた。小さな肩は、小刻みに震えている。
「ぷっ、くく。『永遠に側にいたい』なんて、プロポーズじゃあないんだから。よくもそんなくっさい台詞……。テンション任せにも程があるよね」
おかしげに呟いた遥香はしだいに笑いを止めて、面を上げた。
「ありがとう、桐畑君」
さらりと告げてから、晴れやかな顔を真ん前に向ける。
「初めまして。二十一世紀の日本から来た朝波遥香です。これまでずっと、アルマの振りをしてきました。騙してきて、本当にごめんなさい。許してくれなくても仕方ないけど、全力で謝らせてもらいます」
真摯な謝罪を遂げた遥香は、両手を前に遣り綺麗にお辞儀をした。元の姿勢に戻った時には、面映ゆい雰囲気を纏っていた。
「自分なりに皆さんを想ってアルマの演技を続けてきたけど、桐畑君のお陰で目が覚めました。偽りの調和なんて、保つ意味なんかないんだよね。だから私は。私たちは、日本に帰ります。今までありがとうございました」
遥香は、再び深々と頭を下げた。姿勢を戻して「桐畑君」と、例のボールに向かって歩き出した。桐畑も、隣を行き始める。
二人は、ボールの前まで辿り着いた。桐畑が振り返ると、皆、神妙な面持ちを向けてきていた。
言葉を迷わせた桐畑だったが、やがて「元気でな」と複雑な思いで呟いた。
「せーの、で触ろう」隣の遥香からの静かな誘いに向き直り、小さく頷く。
二人は掛け声の後、同時にボールに片手を置いた。ボールは唐突に光を放ち、桐畑はふうっと気が遠くなった。
30
ふわふわ、ふわふわと、夢を見ているような捉えどころのない思考が巡る。そこに段々と、両手と頬へのひんやりとした感触が割り込んでくる。
しばらくして桐畑は、自分の意識がまだ存在する事実に思いが至った。
目を開いて立ち上がり、辺りを見回した。背後には見覚えのある広い校門に続いて、巨大な校舎が夜の静寂に佇んでいた。桐畑たちが通っていた、龍神高校の入口だった。
ここで桐畑は、視界の左端に倒れ伏した人間を認めた。龍神高校の制服姿の遥香だった。ややあって動き始め、手を突いてゆっくりと立ち上がる。
「朝波。お前の予想は正しかった。どうやら俺ら、戻ってこれたみたいだぜ」
桐畑が感慨を籠めて告げると、遥香は振り向いた。桐畑を見詰めながら小さく、どこか寂しげに笑っている。
「ブラムやエドとは、もう二度と会えないし、ケントとアルマも消えちゃったかもしれない。でも、これで良かったんだよね。絶対に、間違いはなかったんだよね」
切なげな問いに、視線を落とした桐畑は黙り込んだ。だがやがて、慎重に言葉を紡ぎ始める。
「今の俺には、真実を明かした上で全部を元に戻す方法が完璧に思えてる。だけどもしかしたら、全員が全員、百%幸せになれる手があったのかもしれねえな。俺はこの結果をみんなに押し付けた重みを、一生ずっと背負って生きてくつもりだよ」
「私もずっと覚えてる。あの時代で、見て聞いて感じた全てを。その上で今度は、人生の岐路でより良い選択ができるよう、精一杯先に進んでいくよ」
静かに重く、遥香は胸の内を明かした。静寂が訪れて、二人は動きを止める。
「それじゃあ、ここで別れま……」
遥香が明るく切り出すや否や、ドンっと、二人の間で音がした。またしても、古びた革のボールだった。空から落下してきたらしく、まだ小さく弾んでいる。
接近した桐畑が手に取ると、ボールから芝居がかった女の声がし始める。
「突然失礼いたします。朝波さんは初めまして、桐畑さんには一度お目にかかりましたね。私どもは、あなたたちからすると未来の時代のサッカー協会の者です」
桐畑と遥香が黙り込む中で、女の声はさらに続ける。
「いかがでしたでしょうか? 桐畑瑛士様が経験した一連の事柄は、『サッカー・プレイヤー再生プログラム』。が考案した、落魄れたサッカー選手を、あらゆる面で再起させるためのものです」
「プログラムって……。アルマとエドの消失も、全部仕組まれてたって意味か? もっと詳しく説明し……」
「十九世紀で出会った人たちに押し付けた悲しみが、気掛かりだって?」
桐畑の怒りの詰問にも、声は全く揺らがない。「これ、たぶん録音だよ」と、遥香が訝しげに囁いた。
「心配ご無用。私どもは常に完璧。抜かりは一切ございません。ほら、この通り」
愉快げな声が止むと、ボールの表面がすうっと透き通り始めた。青空をバックにブラム、エド、ダンの、不思議そうな顔が現れる。
「キリハタとアサナミだな? プログラムがどうとか声がしたと思ったら、こちらに残っていた革製のボールにお前たちが映った。
しばらく返事がなかったな。もしかしてそっちのボールからは、俺たちが見えてなかったのか?」
ブラムの落ち着いた分析に、まだ従いていけない二人は絶句した。
すると、ブラムの近くのエドが画面から消えた。ややあって、二人の人物を連れてくる。
「じゃーん。お前らは初対面だよなー。本物のケントと本物のアルマだぜ。キリハタたちが消えた瞬間に、どっからか出てきたんだ。二十一世紀の日本にいたって、話してるけどなー」
見知らぬ桐畑たちが相手だからか、ケントとアルマは微妙な面持ちだった。
「以後もあなたたちは、このボールを通じての連絡が可能です。メッセージはここまで。後はご自由に。友との会話を、心行くまでお楽しみください」
割り込んだ、ボールからの女の声が止んだ。桐畑の胸に、熱い物が込み上げる。
「これからも交流できる、だって? 俺は夢でも見てんのか!? ……ってか、俺は何をはしゃいでんだ。ブラムたち、怒ってるよな。お前らを顧みずに、自己中全開で日本に帰ったんだからよ」
思い留まった桐畑は、沈鬱に懺悔をした。だがブラムからは、寛大な微笑が返ってきた。
「気に病むな。キリハタたちは真っ当な道を選んだ。結果として、誰一人失わない最高の結末が手に入ったじゃないか。恨む理由なんて、どこにもないよ」
「ってかアサナミ、ボールの声からアサナミの悩みを聞いたよ。ほんとごめんなー。胸がどうとか、しょーもない台詞、口走っちゃってさ。俺はもっと色々気を使える、かっけー大人になるよ」
穏やかな調子のブラムに続いて、エドが申し訳なさそうに宣言した。奴隷時代について語った時と同様に、瞳には強い真剣さが見受けられる。
「エドはこういう時、フットワークが軽くて眩しいな。俺もしっかり清算しないと」
静かに独り言ちたブラムは、遥香にまっすぐな目を向けた。
「アサナミ、本当に悪かった。女性を大切にしているつもりだったが、気づかないうちに上の立場から物事を判断していた。俺はまったく、女性の強さに気付けていなかったよ。まだまだ未熟だ。これからは常に、自分の思い込みを疑うようにしていく」
言葉を切ったブラムは、やや照れたような面持ちで頬を掻いた。
「それと、一世一代の告白は、入れ替わり現象で事態が複雑になったな。俺はもう一度、自分の気持ちと向き合って、どうするか考えていくよ」
「わかったよ。ブラムの愛情が誰に向かっても、私はきっちりと答を出すから」
即座に遥香は、ぴしりと表明した。簡潔で胸がすくような、遥香らしい結論だった。
「どうだ、キリハタ? スポーツは、フットボールは、素晴らしいだろ? またこちらに来い。私たちは、いつでも歓迎する」
深い満足を感じさせる表情で、ダンがゆっくりと話した。
「ありがとうございます、ダン校長」
桐畑は心を籠めて返事する。
「ってゆーか、キリハタ! 約束を忘れんなよ! 俺に、フットボールはスピードだけじゃないって教えてくれんだろ? さっきの試合の最後のプレーぐらいじゃあ、ヨクバリな俺は納得しねーから!」
晴れ晴れとした顔付きで、エドが早口で喚いた。
「当然だっつの! ギディオンをぶち抜いたドリブル以上の物を、思う存分お披露目してやる。首を洗って待ってろや!」
負けじと桐畑が叫んだ。ボールの中の全人物が小さく微笑する。一同に流れる穏やかな雰囲気を感じ、桐畑の胸に深い充足感が訪れた。
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