25話~26話

       25


 以後も遥香は、ヴィクターに肉薄し続けた。焦りの見えるヴィクターのプレーには、ミスやファールが目立ち始める。

 ただ桐畑は、今の遥香の有り様に危うさを感じていた。十九世紀のイギリスに残る決意とチームのために身を削る覚悟とは悲愴さの点であまりにも近く、桐畑の胸を否応なしに締め付けるのだった。

 敵のクリア・ボールを遥香は足元に止めた。対峙するヴィクターは冷たい目のまま、間髪を入れずに右足で掻っ攫おうとする。

 遥香、爪先でボールを浮かせる。ヴィクターのタックルが空を切る。だが、右肘は不自然に上げられていた。遥香の右脇腹に肘の一撃が入る。命中の瞬間、遥香は小さな呻き声を出した。

 くらりとよろけた遥香だが、すぐにボールに向かう。面持ちは苦しげだが、視線は射抜くように強いものだった。己の愛する競技に全てを懸ける、一人のスポーツ選手の目である。

(朝波。お前は凄えよ。凄いけど、自己犠牲が行き過ぎて危なっかしいんだっての。俺を日本に帰したい。偽物の関係でしかない仲間を喜ばせたい。そんな理由で、なんでそこまで頑張れるんだよ)

 苛立ちにも似た焦燥を覚えながら、桐畑は自分の位置を修正していた。他の選手も、敵との駆け引きを繰り広げている。

 桐畑に付いていた13番が、遥香へと寄せていった。遥香は一瞬で周囲を確認。13番の股を抜き、フリーの桐畑に縦パスを転がす。

 ボールを受けた桐畑は、ドリブルを始めた。ブラムのマーカーの接近を感じながら。

 充分に惹きつけた桐畑は、平行の位置のブラムに速いボールを出した。トラップしたブラムは、猛然と縦に持っていく。最後のディフェンス、ギディオンが詰める。

 急停止したブラムは、早い動作で右へとサイド・チェンジをした。

 ノー・マークのエドが、ワン・タッチ目で大きく前に出した。さすがのギディオンも、大きくボールを振られた後のエドのドリブルには従いていけない。

 エド、完全なるフリー。ゴールの左隅のぎりぎりへとシュートする。先制点を確信した桐畑は、ぐっと右手を握り込んだ。だが。

 皮肉にもボールはわずかに右へと逸れた。

(芝の、ギャップ? ここに来て運に見放された!)呆然とする桐畑の視線の先で、ゴールの左を通過し外に転がっていく。

 桐畑はすぐさま走り出した。前方では、エドが必死でボールを追っていた。

 しかし俊足を見せたキーパーが、エドを身体でブロック。ダイビングでボールを押さえつけ、ウェブスター校のゴール・キックとなる。ホワイトフォードは、千載一遇のチャンスを逃した。


       26


 桐畑たちは、目に見えて消沈していた。皆、体力は限界に近く、肩で息をする者もいた。

 ゴール・キックはギディオンに出された。軽く左に持っていったギディオンは、ライン際のハーフバックに速いパスを出した。

 疲れ果てた桐畑たちの間を縫って、精密なパスがテンポ良く回る。ギディオンを除いて、全員が攻撃に参加していた。遥香の健闘で揺らいでいたウェブスターは、完全に息を吹き返していた。

 引いていたエドが敵のキックをなんとか足に当てた。高めのボールが、ペナルティー・エリア内のヴィクターと遥香の間に向かう。

 さっとヴィクターが前に出た。ポジションを奪われた遥香は、回り込もうと身体を使う。

 ヴィクターは、右手で遥香を押さえた、軽く跳躍して、異様なまでに後ろに頭を振り被る。

 遥香の鼻にヴィクターの後頭部が激突した。遥香は文字に起こせないような悲鳴を上げる。そのまま凄まじい勢いで後ろへ倒れていった。

 ガゴ! 頭蓋骨と地面のぶつかる生々しい音が、グラウンドに響き渡った。遥香は両手を鼻に遣ったままほとんど動かない。

(……朝波。くそっ! ヴィクターのやつ、どこまでやりゃあ気が済むんだ!)怒り心頭の桐畑を余所に、頭でボールを去なしたヴィクターは反転した。すぐさま、淀みのないシュート・モーションに入る。

 ブラムが素早い動きでヴィクターの前に入り、シュートを撃ち際で阻止した。ボールがヴィクターの右足を掠めて、敵陣の桐畑へと飛んでいく。

 一瞬、前に、ギディオンは大声で「上げろ!」と、味方に指示を出していた。従った4番は、やや前に位置取っていた。しかし一度、敵に当たったので、オフサイドは無効である。

 桐畑とギディオンとの一対一。ここで得点できないと、勝敗は両チームの協議によって決まる。延長になれば、疲労困憊のホワイトフォードに勝ち目はない。

 右インでターンした桐畑は、ギディオンの全身を見据えた。終盤に来ても、ギディオンの半身の構えには一分の隙もない。

(やる! やる! やる! やる! 身体がぶっ壊れてでも、ここでやるんだ! 朝波は、あれだけの覚悟を俺らに示してくれた! 俺はエースだ! 絶対者だ! 敵にも味方にも、負けるわけにはいかねえ! ここで絶対、決めてやる!)

 意志を固めた桐畑の脳裏を、十九世紀のイギリスで目にした選手のドリブルが過る。

 遥香の柔らかさ、ブラムのボディ・バランス、マルセロの力強さ、エドの鋭い緩急、ヴィクターの流麗さ。その全てが昇華され、桐畑の身体を自然に動かした。

 左足裏で右、右で内跨ぎ、右足裏ストップ。右足裏で左、左で内跨ぎ、左足裏ストップ。

 全身全霊、正確無比のファルカン・フェイントに、ギディオンの重心が右へと傾いた。

 桐畑は見切った。左足を離した。右足をボールに置き後ろに転がす。反時計回りの身体の回転とともに、左足裏で前へ。完全無欠なマルセイユ・ルーレットだった。

 ギディオンの左を抜いた。ギディオン、とっさに桐畑の服を掴む。桐畑は左手で振り払い、最後の力を振り絞ってドリブルを続ける。

 キーパーが出てきた。桐畑はぐっと左に踏み込んだ。右足のアウトでキーパーを躱す。

 ゴールはがら空きだった。桐畑、イン・サイドで蹴り込む。二つの柱の間を、転々とボールが通過した。

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