3話~4話

       3


 早朝練習の最後には、ダンも含めた全員で肩を組み、スクワットを行った。ダンの低い大声に合わせて、皆でカウントをしながらだった。

 短くぴしりと揃った声に桐畑は、日本の高校サッカー部にはない統制を感じた。

 練習を終えた桐畑は着替えを済ませ、エド、ブラムとともに朝食の席に着いた。場所は、昨日と同じ建物だった。

 椅子に座ると間もなく、給仕が料理を運んできた。

「なーんだ、ベーコンか。同じ肉だったら、ソーセージのが良いんだけどな。相変わらず量は少ないしさ。なーんか今日一日、先が思い遣られちゃうぜ」

 だらしなく座るエドは、顔、声ともにがっかりといった風である。

 正面から渋い顔をエドの食事に向けるブラムは、「エド」と、低くゆっくりとした声で諫め始める。

「ローマ帝国の祝宴じゃ、何度も味覚を楽しむために食った物をわざわざ吐いた、って話は知ってるよな。選り好みと飽食は、知性の欠如の証だよ。ホワイトフォードの食事は開校からずっと質素だけど、健康を害した奴はいない。俺たちにだって、耐えられる」

「うーん。ローマの宴会の件はごもっともだけどさ。物には、限度があると思わない? ってか今、耐えるっつったよね? やっぱブラムも、我慢してんだ」

 面白がるようなエドの突っ込みに、ブラムの険しい面持ちがわずかに緩んだ。

「いや。そりゃあ、俺も食べ盛りの男だからな。本音は、好きな物を腹いっぱい思いっきり食いたい、だよ。けど、そこを頑張って乗り越えてこそ、人間としての成長があるってもん……」

 難しい調子で返すブラムの視線が、入口へと向かう。釣られた桐畑は、同じ方向を向いた。

 木製の松葉杖を突く遥香が、テーブルの間を近づいてきていた。表情には穏やかな笑みこそあるが、左足に太く巻かれた白いギプスがなんとも痛々しかった。

「アルマ! 良かった! 学校には来られるんだな!」

 珍しく喜色を湛えたブラムが、叫ぶように尋ねた。

「心配を掛けてごめんね。できるだけ早く治して練習に復帰するよ」

 優しげな小声で返事した遥香は、ブラムの二つ隣の席まで達した。気付いたブラムは隣席を引いて、遥香が楽に座れるように気を遣った。

「ありがとう」穏やかな語調の遥香は、特にブラムが不安げに見守る中、松葉杖を使って慎重に着席した。

「復帰ねー。でも、びっくり仰天だよな。アルマも他の女子みたいに、半分マネージャー状態だったのにさ。急にすっごい上手くなって、男に混じって試合に出始めちゃうんだもんな」

 呆れているとしか取れないエドの感慨に、遥香は、「そうかな」と曖昧に笑っている。

「ってか、ずっと気になってたんだけど。女子ってさ、胸でボールを受けて、痛くねーの? ──って、アルマにする質問じゃあなかったか。ごめんごめん」

 ベーコンをもちゃもちゃ噛みながら、エドは悪気がない口振りで言い捨てた。どうでも良さそうな視線は、遥香の胸元に向いていた。

 桐畑は、そろそろと目だけを動かして遥香の顔を見る。依然として笑顔は柔らかいが、微かなしこりが感じられた。

(そういや元の朝波も、客観的に見ても、胸元を含めて色気はないよな。すらっとした美人ではあるんだけど。ってか大丈夫なのか? 今のエドの台詞は、俺的には場外ホームラン級のアウト発言だぞ?)

 冷静に思考を巡らす桐畑は、気まずい空気を変えるべく、明るさを意識して話し始める。

「まあでも、さっきの練習、すっごい良い雰囲気だったじゃねえか。俺ら、相当良いとこまで行けるって」

「ああ、当然だよ。アルマは復帰しなくても、俺たちだけで何とかなる。いや、絶対に何とかしてやる」

 ブラムの宣言に、異常なまでの熱を感じた桐畑は、黙り込んだ。周囲の楽しげな談笑が、急に耳に届き始めていた。


       4


 その日の一限目の地理の授業では、桐畑と遥香は別だった。成績優秀なアルマは、地理は飛び級で上の学級に所属していた。

 理解不能な地理の講義を聞き終えた桐畑は、二限目、今日の最後の授業がある美術教室へと入った。

 雰囲気は、他の教室と近かった。ただ、部屋の四辺には本棚があり、芸術に関する様々な本が並んでいた。本棚の上には、古風な額縁や白色の石膏像が所狭しと置かれていた。

 キャンバスを載せた二十個ほどの画架が円を成しており、その後ろには椅子があった。桐畑は、すでに来ていた遥香の隣に座った。美術の科目においては、同学年は同じ学級だった。

 数秒の後に、教師が扉を開いた。赤茶色のベストに黄土色のスーツ、黒の山高帽を身に着けた、壮年の男性だった。

 すぐに授業は始まり、生徒たちはこれまで描いてきた油絵の自画像の続きに取り掛かった。

 他の生徒が筆を動かし始める中、桐畑は自分のキャンバスを注視する。

 自画像は首の少し下までで、油彩での下書きがほぼ終わっていた。上手く描こうとする意思は読み取れるが、全体的にのっぺりとしていて、素人に毛が生えた程度の腕な印象だった。

(ケントよ、お前、かなーりがさつだろ。心理学者じゃなくても、絵の描きっぷりからバレバレだぜ)

 予想を付けた桐畑は、何気なく隣の遥香のキャンバスに視線を移した。

 キャンバスの中では、油彩のアルマが淑やかに微笑んでいた。全体的に緻密でタッチは柔らかく、素人目にも上手だった。何よりも、作者の落ち着いた気品が伝わってきた。

(美術の授業は朝波も初めてだし、この自画像は、本物アルマの作ってわけか。演技してる時の朝波以上に、知的な感じだぜ。

 朝波も教養はあるけど、運動選手なだけあってエネルギッシュだし、アルマは方向性が違う気がすんな。アルマのが慎ましいつぅかか、女の子らしいつぅか)

 向き直った桐畑は、自分の絵に取り掛かろうとした。すると視界の端で、遥香の絵の具が画架から落ちた。

 すっと拾い上げた桐畑は、「朝波」と、遥香の顔に目を遣った。

 しかし遥香は気付く様子もなく、考え込むかのような真顔で、アルマの自画像を見詰めていた。

(どうしたよ、朝波。そんな神妙な顔してよ)

 遥香のただならぬ様子に戸惑う桐畑は、心の中だけで問い掛けた。不安に近いもやもやした感情が、桐畑の中で芽生え始めていた。

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