5話〜6話

       5


 桐畑の驚愕を見届けたアルマは、「従いてきてくれる?」と、涼やかに告げた。そのままくるりと前を向き、扉を開く。桐畑は慌てて、アルマの後を追った。

 二人は整備の行き届いた芝生を貫く道を行き、白や灰色のレンガから成る建物に辿り着いた。高さは十m、横幅は二十mほどあり、二階建てなのか、上下に二段の四角形の窓が等間隔に並んでいる。

 アルマが、荘厳な柱の間の、複雑な模様の彫り込まれた扉を押し開いた。アルマに続いて中へと入った桐畑は、辺りを見回す。

 ほぼ正方形の広々とした部屋を、六つの木製の長い机が縦に走っていた。机の両脇には、賑やかに食事をする者たちの姿がある。年齢の幅こそあるが、皆、十代の欧米系の顔立ちだった。

 一段、高くなった部屋の奥にも机はあるが、席に着く者はいなかった。机の上方には、制服のエンブレムと同じ紋様の巨大な彫刻があり、部屋全体を支配しているかのようだった。

 左右の黄土色の壁は聳え立つように高く、天井でアーチを描いていた。中ほどには大きく古風な暖炉があり、赤々とした炎が燃え盛っている。

 二人は、左端から二番目の机に着いた。会話を聞かれないように、隣に座る生徒との間隔は充分に取っていた。

「それじゃあまず、状況を整理しよっか。外見はこんなだけど、私は、朝波遥香。現代の日本じゃ、君と同じクラス……。って、さすがにクラスメイトの顔触れぐらい把握してるよね」

 まっすぐに桐畑を見詰めながら、遥香は小声で淡々と告げた。

 はっとした桐畑は、即座に遥香に詰問する。

「おう、当然だろ。自分でどう思ってるかは知らんが、お前は有名人だからな。名前と経歴ぐらいは知ってるよ。問題はその前だ。現代の日本? そんじゃあ、俺らがいる時代は……」

「一八七一年、ヴィクトリア女王の統治する、大英帝国全盛期のロンドン」

 遥香は、あっさりとした口調で言葉を引き継いだ。

「大英帝国って、現代のイギリスと同じ国だよな? 全盛期って、二十一世紀の初めって意味な」

 桐畑は、深く考えずに疑問を口に出した。遥香は、呆れたようにわずかに息を吐く。

「私はこの時代に来る前でも、イギリスの黄金時代がいつかぐらいは知ってたけどね。君さ、サッカーばっかりしてちゃあ駄目だよ。色々と学んで、人間の幅を広げなきゃ。ああでも、もう退部したんだったね」

 遥香は、あっけらかんと言い放った。

 遥香の指摘に、少しカチンときた桐畑は言い返そうと口を開く。

「ああ、部活は辞めたよ。だからどうしたっての。ていうか俺ら、ほぼ初対面だよな? 何で俺の退部を知ってんだよ?」

「誰かの会話を聞いたんだよ」

「盗み聞きしたのかよ。趣味悪くねえ?」

「見方によってはそうなるね。私、常に周りにアンテナを張って生活してるから。そうしてるとさ。色々と情報が入ってきて、何かと自分のプラスになるのよ。人生は短いんだから、あらゆる面で賢く生きていかないとだよね」

 穏やかな語調の遥香は、桐畑の視線を受け流すかのように、余裕がたっぷりで微笑んでいる。

(ほんとに同じ高校生かよ? 妙に大人びてやがる。なんか、こいつには敵わないかもな)と、桐畑は内心、舌を巻く。

「って、こんな無駄話をしてる場合じゃないよね」

 遥香の口振りが、切迫感を帯び始める。

「私がタイム・スリップしたタイミングは、三日前。JFAアカデミーとの試合の後、控室に忘れ物を取りに帰ったら、隅に昔の時代のボールを見つけて何となく手に取ったの。我ながら、ほんと迂闊だったな。で、急に気が遠くなってこの時代に来たってわけ。目が覚めた場所は、スチュアート寮のベッド」

 正体を現す前の、弱々しい振る舞いもどこへやら。遥香は強い意志が感じられる顔付きで、てきぱきと説明する。

「お前の事情は、じゅーぶん理解できた。で結局、ここはどこなんだよ? 学校っつー予測は付くがよ」

 桐畑は、冷静さを意識しながら遥香に問うた。

「名門パブリック・スクール、ホワイトフォード校。十三歳から十八歳が所属する学校だよ」

 真顔の遥香の端的な返答に、桐畑は調子を変えずに質問を続ける。

「パブリック・スクールってサッカー、ああいや、フットボールの統一ルールが、初めて作られたっつー……」

「サッカー関連の知識は豊富なんだ。勿体ないなー。その関心をいろんな分野に向けたら、もっと生活が充実するんだけどね」

 呟くように感慨を口にした遥香は、すっと居住まいを正した。

「私には、達成すべき目的がいくらでもあるの。だから絶対に、現代日本に帰らなきゃいけない。部活を辞めた君がどうかは、知らないけどね」

 ドライに言い捨てた遥香に、桐畑は、小さく笑みを向ける。

「まあ、なんとかなんじゃねえの? 映画とかだと、元の時代に帰れない、ってオチも多いけどさ。なんてったってここは現実、俺たちはリアルを生きてるんだからよ。それまで、大英帝国だっけ? の上流階級様の生活を死ぬほど満喫してやろうぜ」

 桐畑が力強く主張するや否や、トン、と木製のトレーが桐畑の目の前に置かれた。

「おっ、どうも」と、歩き去る給仕服の中年女性に気易く告げた桐畑は、トレーに視線を遣った。

 トレー上には紅茶に加えて、二つの白色の皿があった。深皿には、握り拳の体積より小量のオートミールが入っていて、浅皿には、一辺が十センチにも満たないパンが一切れと親指より少し大きなぐらいのソーセージが一本、載っているだけだった。

 絶句する桐畑の耳に、遥香の落ち着き払った声が届く。

「満喫、ね。少なくとも、食事の面では難しいかもね。ここの食事は、質と量の両面でイギリスの最貧家庭と競るぐらいだから。ああちなみに、夕食なんて洒落たものは存在しないよ。日本の常識は食に関しては通じないから、くれぐれも気を付けてね」


       6


 悲しくなるほど貧相な食事を終えた二人は、別の建物にある古びた教室に入った。同じ第三学年の二人には、一限目に歴史学の授業があった。

 やや縦長の教室は、一般的な日本の高校の教室の半分くらいの面積だった。木製の二人掛けの机が所狭しと並んでいて、その大半がすでに埋まっており、生徒たちが雑談や授業の準備をしていた。

 壁も深みのある茶色の木でできており、一面にびっしりと英語が刻まれていた。一つしかない窓は小さく、補強のためか六角形の、黒の金属の部材が表面に見えた。

 遥香は、前から二番目の空席に座った。教室を見渡した桐畑は、遥香の隣席を選んだ。できるだけ後ろに座りたかったが、空きがなかった。

 机の上の立て台には、羽ペンが刺さっていた。映画でしか見た経験のないペンに、桐畑は興味津々だった。

 程なくして前の入口から、膝下まで届く黒ガウンと、天辺が正方形の黒帽子を身に着けた女性教師が入ってきた。四十代と思われる風貌で、すっと伸びた背と大きく開かれた目からは強い能動性が感じられた。

 黒板前の教卓で止まった教師は手に持っていた本を置き、「では、授業を始めます」と、ゆっくりと顔を上げた。

「先週、告知しましたように、今日は、第三回十字軍におけるリチャード一世の施策について議論していただきます。ではミス・エアリー、概要の提示をお願いします」

 遥香に向いた教師の笑顔には、有無を言わさぬものがあった。

はいyes ma'am

 ぴしりと答えた遥香は、さっと立ち上がった。

「十字軍遠征に大きな情熱を持つリチャード一世は、王庫の金やサラディン税、軍役負担金を遠征の費用に……」

(いやいや、何をぺらぺら講釈を垂れてんだよ。俺ん中にゃあ、そんな崇高な歴史の知識はないって。英語は、なんでかわかるがよ。おんなじ感じで、過去に飛ばされたはずだぜ。あんたいったい、どうなってんの?)

 疑問でいっぱいの桐畑の頭には、遥香の朗々とした説明が入ってこない。

 遥香が着席すると、「ありがとう、ミス・エアリー」と教師が滑らかに労った。

「では先ほどの概要を踏まえて、リチャード一世の施策への意見や、自分がリチャード一世ならどのように行動するかなど、自由に議論なさい」

 教師の端的な指示に、生徒たちは移動を始めた。

「ちょいちょい、朝波さんよ。お前、何でそんなにイギリスの歴史に詳しいの? 今、流行の歴女ってやつか? それともまさかの帰国子女? まあお前の知的さなら、マサチューセッツ帰りですって言われても納得は行くがよ」

 桐畑は、再び立ち上がった遥香におじおじと尋ねた。振り向いた遥香は、わずかに眉の上がった不思議そうな面持ちだった。

「オバマ元大統領が、『キリスト教徒も酷い行いをしてきた』、みたいな発言をしてたでしょ? で当然、気になるじゃない? 差別問題は、知ろうとしない事が罪になりうるからね。そういう経緯で、かるーく本を漁って調べたの」

 遥香は、台詞通りの軽い口振りだった。

「オバマの台詞は知らんけど、かるーくってどのくらい? 百ページとか?」

「……予想、ページ単位なんだ。君との常識のギャップを、どうしようもなく感じちゃうね」

 溜息を吐かんばかりの遥香の表情は、やがて凛としたものに変わる。

「ちゃんと数えてないけど、十冊強ってとこかな。もっと読む気だったけどサッカーも忙しいし、他に読みたい本もあったから。まあ、十あたりが妥協点だよね」

 何気なく告げた遥香は小さく微笑んで、男女混合の三人の生徒が身振り手振りを交えながら議論する机へと向かった。少し迷った桐畑だったが、やがておもむろに遥香に従いていく。

 アッコン降伏がああだとか、サラディンがこうだとか、桐畑以外の四人が喧々諤々と討論する中、黙り込む桐畑はぼんやりと考える。

(あんたらさ、よくそんな一心不乱に話し込めるよな。歴史なんて研究してどうすんだ? このいかんともしがたい空腹が、解消されるわけじゃああるめえよ)

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