7話~8話

       7


 歴史学の授業は、二時間で終わった。桐畑は、休憩時間まで議論を続いていた遥香を控えめに止めて、二人で次の教室へと向かった。

 二限目の授業はラテン語で、歴史学と似たような古い教室で行われた。教師は、サンタクロースのような髭の膨よかな中年男性だった。ボディー・ランゲージを交えた楽しげな話し振りに、桐畑は男性教師のラテン語への情熱を強く感じた。

 英語と同じく、どうしたわけか桐畑にはラテン語の知識もあり、教師に当てられた時も他の生徒と変わりなく返答ができた。

 授業後は昼食だったが、朝食のソーセージが燻製鱈に変わり、少量の豆入りベーコン・トマト・スープが加わっただけの、質素なものだった。

 昼食を取った二人は、三限目が行われる最上階の教室へと入った。

 教室は歴史学のものよりかなり広く、球形の天井の頂点は、はるか頭上だった。壁は鈍い茶色で、ギリシャの神殿の柱のような装飾が施されている。

 床には、様々な明度の黄土色の正方形が並んでおり、教室の静かで冷たげな印象に一役を買っていた。

 二人掛けの机に着いた桐畑は、時間割が書かれた紙を見ながら小声で尋ねる。

「次は、スポーツ神学theologyってなってるよな。担当は、『ダン・ブライドン校長』、か」

「私も初めてだし、詳しい内容はわかんないよ。でもホワイトフォード、スポーツに力を入れてるから、その関連だろうね」

 隣に座る遥香は、澄んだ眼差しで静かに返事をした。

「そうなのかよ」と続けて話そうとした桐畑は、遥香に身体を向けた。だが、入口から入ってきた男性教師に、桐畑の視線は奪われる。

 教授服の男性教師は、背は高くないが逞しかった。力強い歩き方は運動選手のものだが、彫りが深く大きな目からは深い知性が感じられる。

 黒に近い髪は短く刈り上げられており、髪の毛よりわずかに長い髭が、口元を覆っていた。年齢は、三十代半ばと予想ができた。

 教卓に荷物を置いたダンは、「講義を始める」と、低い声で宣言した。教室に、重みのある静寂が訪れる。

「『判断力批判』においてカントは、『芸術体験は主観的かつ普遍的なものであり、喜びを齎す一個の自律的体験である』とした。カントに同調したシリル・ウッドゲイトは、芸術でなく、スポーツから得られる精神の高揚を用いて、英国民の人格向上を達成しようとした」

 ダンは、一切の身振りを加えずに、厳粛な語調で話し続ける。

「以上が、主に前期で学んできたホワイトフォード設立の経緯だった。ここで、君たちの意見を聞きたい」

 言葉を切ったダンは、桐畑に向き直った。眼差しは厳格だが、わずかに緩んだ口元からは生徒への愛が見て取れた。

「ケント。フットボール結社juntoの君から見て、ウッドゲイトの主張は、どう感じる?」

「え? フットボール結社junto? どういう意味だか、いまいち俺には……」

 慌てふためいた桐畑は、面白がっているとも取れる調子の問いに、もごもごと一人口籠もる。

「難しく捉える必要はないよ。普段、何を考えながらフットボールをしているか、君の言葉で語ってくれたら良いさ」

 ダンは、優しくも毅然とした口振りだった。やや落ち着いた桐畑は、額に右手の指を付けて思考を巡らす。

「そうですね。俺は、深く考えてはプレーしてないです。思うがままっつーか明鏡止水っつーか。上手くは言えないけど、とにかくそんな感じです」

 桐畑は、なんとか言葉を捻り出した。

「ありがとう」と穏やかに答えたダンは、初めの体勢に戻った。

「世界は現在、とてつもないスピードで発展している。しかし君たちも知るように、まだまだ多くの問題が存在する。君たちがスポーツを通じて心を高め、世界の課題を解決する一助となる。未熟な私の、たった一つの願いだ」

 満足げなダンは、ゆっくりと全生徒を見渡した。やがて、「では引き続き、創立以降の当校の歴史を学んでいく。ウッドゲイトは手始めに、自らが選手であったクリケットを……」と同じ調子で話を再開した。

 講義が続く中、ダンの質問を反芻する桐畑は、これまでしてきたサッカーを想起していた。


       8


 ダンの授業は名前こそ「神学」ではあるが、内容は多岐に渡っていた。政治、世相、倫理。次々と話題は飛んだ。

「二つ下、つまり妹君は十三か十四か。うん、難しい年頃だ。幼い時のように遠慮のいらない関係は、保ち辛いよな」

 ダンは、起立している男子生徒に寄り添うような話し方だ。向ける笑顔も、教師の威厳は感じさせない気安いものだった。

「友達はみんな、妹とは仲が良いみたいだし、僕の他人との関わり方は、おかしいのかなって考えてしまうんです」

 男子生徒は感情を抑えた風だが、言葉の端々から不安が伝わってきた。

「自分が一番悩んでいるって、考えがちだよな。人付き合いに関しては、特にだ。でもそれは間違いだよ。社交性の高い人も、上手くいかない一部との関係に、深く悩んでいるものだ」

 ダンは、緩やかに言葉を紡ぎ続ける。

「常に相手を思い遣って行動していれば、周りの者が好感を持ってくれて、自然と道は開けるさ。肩肘を張らずにやっていけ」

 男子生徒は、「ありがとうございました」と、わずかに楽になったような様子だった。

 ダンが、「では、今日の授業はここまで」と明朗に告げると、生徒たちは片付けを始めた。

 スポーツ神学は、午後四時までだった。遥香は終了後、すぐに荷物を纏めた。

「ほら、桐畑君。もたもたしてないで、部活……じゃなかった。結社の活動に出よう。てきぱき動いてかないと、いつまで経っても進展ゼロ。現代日本に戻る前に、寿命が尽きちゃうよ」

 薄い笑みとともに桐畑を急かした遥香は、出口に向かって歩き出した。

 片付けを終えた桐畑は席を立ち、早足で遥香に従いていく。

「結社って、校長の台詞にあった、フットボール結社だよな? どうして『結社junto』っつーマフィアっぽい大袈裟な名前が付いてんの? やっぱ朝波も、フットボール結社なわけ? あとさ。『てきぱき動いてかないと日本に戻れない』って、朝波には、なんか帰る当て、あったりすんの?」

 教室を出たところで追い付いた桐畑は、思い付いた疑問を熟考もせずに挙げた。

 すると、前を見続ける遥香の口から、小さな溜息が漏れた。

「ほんと、一気に訊いてくるね。質問相手を思い遣る気持ちって大事だよ」

 軽くはあるが諭すような論調に、桐畑は少し萎縮する。

 幅広の階段では、多くの生徒が騒がしく談笑しながら行き交っていた。降り切った二人は、さらに歩を進める。

「一点目。私と君は同じ、フットボール結社に選手として所属してます。この時代はまだ女子サッカーは黎明期だから、男女混合。初めに君に声を掛けた時、早朝練習の話をしたでしょ? そこから推察ができるよね? ああ、いや。別に責めてはないから、勘違いしちゃダメだよ」

 こっそりと見た遥香の顔は、どことなく楽しげだった。

 少し迷った桐畑だったが、慎ましく思いを述べ始める。

「男に混じって、サッカーをしてんのか。よくやるよな。お前は優秀だからテクはどうにかなるとしても、正直、身体能力って点できついだろ」

「確かにそうだけど、私もU17代表の端くれだからさ。男子選手に混じっても、ある程度はやってけないとね。それにこの時代のイギリス人は、二十一世紀よりも身体が小さいし」

(そういやなでしこが、そこそこ強い高校の男子部と好ゲームを繰り広げた、みたいな記事を見た記憶があるな。つくづく女は侮れん)

 遥香の軽やかな台詞に、桐畑はしみじみと納得する。

「二点目。名前が『結社』な理由はきっと、ホワイトフォードのモットー、『スポーツを通じて人格向上を実現する』に関係がある。それで、三点目だけど」

 石製の、身長の倍ほどの高さのアーチを潜った二人は、開けた空間に出た。

「おっ、ケントにアルマじゃん。そろそろと思って待ってたけどさ。手ぇまで繋いで仲良く出てくるとはね。さすがの俺も、予想できなかったよ」

 軽薄そのものな声が、左前方から耳に飛び込んでくる。

 見ると、アフリカ系の風貌の男の子が、競技用コートに続く砂利道の脇の芝生の上にいた。髪は短くて黒く、茶色の顔は興味津々、身体は妙に横に捻ったブリッジ状態だった。

「エド。私たち、手は繋いでいないわよ。また可笑しな噂を立てられちゃ、困るんだから」

 アルマの演技を始めたのか、大人しい表情の遥香が消え入るような声を出した。

「あ、そうなんだ」とエドは、どうでも良さそうに呟いた。ぬるりと横に一回転してから逆立ちで制止し、数秒してから跳ね起きる。

「身体も温まったし、俺、先に行ってるよ。だからアルマたちも、とっとと来いよ。べたべたくっついてないでさ」

 歯を見せて無邪気に笑ったエドは、コートに向かって軽快なランニングを始めた。

 エドの背中を遠い目で見つめる遥香は、やや疲れた様子で口を開いた。

「あの男の子はエドアルド・デ・アシス・ジョビン。通称、エド。アフリカ系ブラジル人で、年齢は、私たちの一つ下。カポエィラの腕を買われてホワイトフォードに入ったけど、フットボール結社にいる。悪い子じゃあないけど、デリカシーは皆無よね」

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