前日のネギトロ丼はヤバかった

 さて、3コマ目は無機化学の授業である。

 レポート提出があるので、割と早いうちから講義室は人でいっぱいだった。


「ハイ宮沢っち。資料ありがと」


「お、はいよ。つーか胡桃沢、レポートできたんか? 今更コピーとかしてて」


「ああ大丈夫だよー、必要なのはグラフだけだったから」


 こう見えて胡桃沢は割と要領がいい。見た目が派手だから侮るやつもいるにはいるが、成績優秀なほうだ。

 少なくとも去年『可』を2つとった俺よりは上だろう。ま、俺は一浪、胡桃沢は現役合格。その時点でも差があるにせよ。


 そうして胡桃沢は俺の隣へと移動してくる。

 先ほどケンカしたので、紗英はいま俺の隣にいない。


「あれー? 坪井っち隣にいないけど、もしかして痴話ゲンカ?」


「なんでそうなる」


「犬も食わないから早く仲直りしたほうがいいよー」


「夫婦喧嘩と同じレベルで語られても困るんだが。というかいつも一緒にいるわけじゃないからな」


「そうなの? でもさっきのカフェテリアでのやり取りはどうみても痴話ゲンカにしか見え」


「見てたのかよおまえは!!」


 思わず、講義前の喧騒の中でもひときわ目立つような叫び声をあげてしまったが、紗英は微動だにしない。もういいや。

 そして紗英の隣にいるのは永井の変態だ。こりゃ紗英も根に持ってやがる。自暴自棄になってるとも言うか。


 ま、それはおいといて。

 俺の前には、なぜかおなじみ平野さんがいる。だが、心なしか平野さんの背中が震えている気がする。

 なんだろう、さっきまでは上機嫌ぽかったのに。滅多に見せない笑顔になるくらいには。


 気になって、斜め後ろから平野さんの表情を確認すると……


「……平野さん? 具合でも悪いの?」


「……なんで、そう思うのかしら?」


「いやだって顔色すっごく悪いんだけど。小刻みに背中も震えてるし」


「……」


 俺が指摘すると、平野さんはそーっとそーっと立ち上がった。

 砂の城を崩さないように。


「……悪いんだけど、宮沢殿」


「殿?」


「わたしは、ちょっと具合が悪いから、退席するわ……」


 あ、これヤバいやつだ。


「どうしたの平野さん、マジ大丈夫? 救急車呼ばなくてもいい?」


「……大丈夫。そこまで、することじゃない……」


 クールというわけでなく、ただ何かに耐えながら表情の青白さを加速させる平野さんの様子から、ただ事ではないと悟ったのだが。


「……あ」


 心当たりが一つだけあった俺は、無難な受け答えを選択した。


「わかった。教授には伝えとくから、お大事に」


 コクリとうなずき、堤防が決壊しないよう忍び足で歩いていく平野さんを、俺は見送ることしかできない。ご武運を祈る。


「あれ? 平野っち本当にどうしたんだろ? あそこまで具合悪そうなところ初めて見たけど、大丈夫なのかな?」


「……多分大丈夫だろ。無事に個室までたどり着ければ、の話だけど」


「??」


 胡桃沢の疑問は、察した俺にかわされた。そりゃ詳しく言うわけにいかんだろ。


 ──いくら低温保存していたとはいえ、やはり前日のネギトロ丼の壁は厚かったようで。



 ―・―・―・―・―・―・―



「……よし。これでレポートは全部集まったかな?」


 講義が始まり、さっそくレポートを集め始める教授。

 一方、平野さんはいまだに帰ってくる様子はない。


「教授。平野さんが、まだ帰還してないんですけど……」


「おう、そうか。平野なら、レポートやってきてないということはないだろうが……バッグの中に入ってるのか?」


 平野さんは真面目も真面目、超の付く真面目なので、教授の信頼も厚い。

 ま、そりゃそうだよな。俺をはじめとする化学科の人間全員、持ってきてないとは思ってないはず。


「あ、じゃあ、ちょっと失礼してバッグの中から探してもいいかなー?」


 胡桃沢がそういうやいなや、遠慮なく平野さんのカバンをごそごそとあさり始めた。

 さすがに俺があさるわけにはいかないので、そんな胡桃沢を止めずにいたのだが。


 ばさばさばさ。

 胡桃沢のあさり方がまずかったせいか、椅子の上に置かれた平野さんのバッグの中から、レポートではない何かが床に落ちていく。

 どうやら書籍らしき何かだ。レポート書くのに必要だったのかな。


「あっ」


 自分の失態に声をあげてしまった胡桃沢に気づき、俺はバッグから落ちた本らしきものを拾い上げるのを手伝おうと、手を伸ばすと。


『友達百人できるかな? 大学生活を楽しく過ごす本』


『気になる異性を振り向かせる方法』


『コミュ障のあなたにも彼氏ができる! 思わせぶりなアプローチ100例』


 見事にそこで固まった。

 バッグの中に落ちた本を戻そうとした胡桃沢も、タイトルを確認して同じようになっている。


 そこで、胡桃沢と目が合った。


「……」


「……コクン」


 暗黙の了解。

 わりと手あかにまみれたその本を、気まずさを隠しつつ俺と胡桃沢は元に戻す。むろん、他のやつらに見られないようにしながらだ。


 なんでこんなものを肌身離さず持っているのやら。

 ま、平野さんは平野さんなりにコミュ障を治そうと必死だったのかもしれないけどさ。


(忘れろ胡桃沢。俺も記憶から消去デリートするから)


(……りょーかい)


(抹消したらサルベージも不可だぞ)


(……いくら真砂でもそのくらい理解してるよ)


 顔を寄せ、ひそひそ話での密談。

 見る人が見ればただのイチャコラにも見えなくもないかしれんが、そんな余裕など残されていないぞ二人とも。


 ごめんね平野さん。

 でもさ、あのカフェで見せた笑顔を思い返すに、もうこんな本持ち歩く必要、どこにもないと思うんだけどなあ。


 なお、平野さんは結局、講義が終わるまでに帰ってこなかった。


 ──講義室に残されたこのバッグ、どーしよ。

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