リブラ 黒金の天秤は傾かない

大月 小町

0-1 『最後の女神』が残した『永遠の春』


 鋼鉄都市ケラウノスを六時間前に出発した列車は、ようやく終点である悠久都市アストライアに到着しようとしていた。車窓から見える景色が、見慣れたものに変わっていることに気づき、シャーロットは分厚い本に栞を挟む。

 ほんの数十分前まで、車窓の先には牧歌的な風景が広がっていた。羊飼いの少年が、群れから離れる子羊を追いかける様子は実にほのぼのとしていて、シャーロットの心を穏やかにさせてくれたものだが、今、車窓の向こうに広がっているのは、鬱蒼とした森と廃墟ばかり。

 かつては他のどの都市よりも栄え、世界の端々にさえその存在が知れ渡っていた、『最後の女神』が住んでいたアストライア。

 だが今は、かつての栄華の面影を残すばかり。

 どこまでも続くかと思われるような深く暗い森と、その隙間隙間から顔を覗かせている廃墟。

 そんな楽しくもなければ、美しくもない景色を、シャーロットは生まれてからずっと──そう十八年間、見続けて来た。見慣れた景色。そして、見飽きた景色。

 だからこそ、帰って来たのだ、と実感できる。

 ただやはり、見飽きた景色に変わりはない。

 シャーロットはすぐに、視線を車窓から手元の栞を挟んだばかりの本へ戻した。六時間という、退屈を持て余すには十分すぎるその時間を、シャーロットは読書に費やした。

 どうしてもこの本が読みたかったわけじゃない。

 ケラウノスの目抜き通りメインストリートにある一番大きな本屋へ行き、そこで一番分厚い本をくれ、と店員に言った。

 すると店員は、驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべ、この分厚く重い本を持って来た。店員の様子から察するに、この本は長い間、売れる気配すら見せなかったのだろう。

 その本を、シャーロットは迷うことなく購入した。本のタイトルも、最初の一ページさえも確認せずに。

 ただ故郷へ帰るための六時間を適当に潰す程度、役に立ってくれれば良かった。内容には、微塵も期待していない。

 そして、その期待を裏切ることなく、本の内容は退屈極まりなかった。

 恐らくもう二度と、開くことはないだろう。


 ──ガラッ……。


 再び退屈極まりない本を読もうとしたシャーロットの耳に、車両と車両を繋ぐ貫通扉を開ける音が聞こえた。

 シャーロットは反射的に、そちらを見た。

 ケラウノスから終点アストライア行きの列車だが、終点に向かう程に、乗客は数を減らしていく。

 それはいつものことで、シャーロットが乗り込んだ車両は、ほぼ独占状態。

 シャーロットともうひとり、黒髪の男性しか乗っていない。

 そんな車両に別の車両から移動して来たのは、少女だった。赤みが強い茶色の髪は、肩に触れるか触れないかの長さ。貫通扉をしっかりと閉めた少女は、どこに座ろうかと視線を動かしていた。

 シャーロットは視線を本へ戻す。故郷へ帰るための六時間はいつだって退屈で、その退屈な時間を潰すため、誰も買わないような分厚い本を買う。

 それはつまり、シャーロットが退屈な六時間を他者と共有し、有意義なものにしようとは考えていない、ということにも繋がる。

 要するに、シャーロットはひとりが好きなのだ。


「──ここ、良いですか?」


 だというのに、終点間際になって車両を移動して来た少女は、シャーロットが座る席を選んだ。

 シャーロットは眉間に皺を寄せ、けれども断る言葉は口にせず、ただこくりと頷くのみだった。


「ありがとうございます」


 少女は笑顔を浮かべて荷物を座席に置き、自身はシャーロットの真正面に座った。

 シャーロットの視界に、少女が入り込む。

 すぐ間近に感じる他人の気配に、シャーロットは足元に置いた自身の荷物に目がいく。細長い黒色の旅行鞄トランクの中には、シャーロットがアストライアを出ることになった“理由そのもの”が入っている。


「私、初めてアストライアに行くんです。あなたも?」


 目の前の少女に向ける目に、知らず厳しさが宿る。

 自分と同じ歳の頃かと思ったが、真正面から見る少女は、思っていたよりも幼く見えた。十六──いや、十五だろうか?

 大きな瞳は、鮮やかなエメラルド色だった。


「……生まれも育ちも、アストライアよ」


 視線を真っ直ぐに少女へ向けたまま、シャーロットは利き手である右手を使い、足元の旅行鞄トランクを奥へ移動させる。見た目程、この旅行鞄トランクは重くない。片手だけで、簡単に動く。


「本当ですか? じゃあ、役所がどこにあるかも、知ってます?」


 役所──そこが目的地ということはつまり、目の前に座る少女が観光目的ではないことを示している。移住者、なのだろうか?

 シャーロットは一瞬、少女に対する警戒が緩みそうになった。

 だがすぐに、シャーロットの紫色の瞳に厳しさが戻る。車窓の向こう側に、この列車が停車する最後の駅が見えたのだ。

 そのことに少女も気づいたらしく、まだ列車が完全に止まってもいないのに、慌ただしく下車する準備を始めた。


『終点アストライア──終点アストライア』


 車内放送が響き渡る。

 それと同時に、列車が騒々しい音を立てながら、停車した。列車が停車する前に座席から腰を上げていた少女は、停車する揺れでバランスを崩しかけたが、座席にしがみついたおかげで、倒れることはなかった。


「あの、役所はどこに?」


「駅に地図があるわ。それで確認して。道案内は、苦手なの」


 シャーロットは読み終えることができなかった分厚い本を閉じてから、黒いコートに袖を通す。

 それが済むと、座席から立ち上がる。奥へと押し込んだ旅行鞄トランクを忘れず手に持ち、先を歩く少女の後に続き、列車を降りた。

 数日ぶりの故郷は、予想通り、寒かった。ケラウノスは穏やかな春の陽気だったが、アストライアはいつだって凍えるような冬の気候。他の都市が真夏の暑さに耐える中、雪が降ることだってある。

 なのでコートは、必需品。

 それを知らなかったらしい少女は、寒い寒いと言いながら、駅に設置してある都市の案内図を見ていた。


「──なんだ。やっぱりお前だったのか」


 聞き覚えのある声に、シャーロットは振り返る。

 そこには、列車から降りた黒髪の男性が立ち、シャーロットを見下ろしていた。左耳に、金色のピアスが存在を主張するように光っている。


「──ヴェルメリオ調停官だったのですね」


 黒髪に赤い瞳の男性ヴェルメリオは、目つきが悪く、猫背。

 ちゃんと背筋を伸ばせば、百九十を超える背の持ち主なのに、もったいない。


「まあな。……“回収”したのか?」


 ヴェルメリオの視線が、シャーロットの持つ旅行鞄トランクに向けられる。


「ええ、まあ。……すべて、とはいきませんでしたけど」


「……そうか。──オレはハズレだよ、ハズレ」


 ヴェルメリオが場の空気を変えるように声を上げ、コートのポケットから愛煙している煙草の箱を取り出し、その一本を口にくわえた。

 シャーロットとヴェルメリオ、ふたりが身につけている衣服は、細部に違いは見られるが同じデザインをしている。夜の闇を集めて染め上げたような漆黒のコートに、シャーロットは同じ色のワンピース、ヴェルメリオはベストとズボン。

 その所々に、金糸で秤のない天秤が刺繍されている。


「……ったく、何のためにヘスティアまで行ったんだか。あー、報告面倒くせぇ。報告書書くのも面倒くせぇ。ハズレだったんだから、書かなくても良くねえか?」


 ぶつぶつと文句を口にしながら、ヴェルメリオは歩き出す。お互い行き先は同じだが、歩調を合わせるようなことはしない。

 シャーロットは向かい風を、ヴェルメリオを盾にして防ぐ。冷たい故郷の風が、シャーロットの白金プラチナブロンドの髪を揺らした。


 アストライア唯一の駅だと言うのに、ここは相変わらず、物悲しい空気が漂っている。

 しかもケラウノスの中央駅を見た後だと、物悲しいだけじゃなく、さびれた印象さえ抱かせる。


「あ、お姉さん!」


 駅に設置された案内図を見ていた少女が、改札口に向かうシャーロットに気づき、小走りで追いかけて来た。


「どこまで行きます? 良かったら、途中まで一緒に行きませんか?」


 物悲しさを吹っ飛ばしてくれそうな少女の明るい声が、駅に響く。

 シャーロットとヴェルメリオは慣れた様子で、駅員のいない改札口に置かれた箱に切符を入れ、改札口を通り過ぎる。利用客が少ないため、改札口に駅員が立つことはない。

 それを真似して、少女も切符を箱に入れる。


「屋さんにはあっちよ。──あなたの運命に、正義の女神が微笑みますように」


 駅を出たシャーロットは立ち止まり、役所のある方向を指差す。

 そして抑揚もなく、初めから決まっていたかのような言葉を少女に送ってから、歩き出した。

 そんなシャーロットの背に向かって少女が、


「私、アリスって言います! お姉さん、また会いましょうね!」


 手を振りながら、笑顔で言った。


「懐かれたみたいだな」


 聞こえないふりをするシャーロットをヴェルメリオが肩越しに振り返り、茶化すような目で見てくる。冷たい風に乗って、煙草の煙が流れて来た。

 その匂いに顔をしかめ、シャーロットは歩みを早める。


「──“本物”、かねえ」


 歩みを早めたシャーロットに追い抜かされたヴェルメリオの意識は、役所に向かう少女──アリスに向いている。

 アリスが向かう先も、そしてシャーロットとヴェルメリオが向かう先にも、人の姿は見えない。

 まるでゴーストタウンのようだが、ここではコレが当たり前。


「お前はどう見る?」


 自身のみならず、周囲の人間にとっても有害となる煙を肺へ送り込みながら、ヴェルメリオは疑惑と好奇の色を瞳に宿した。

 シャーロットは何か言おうと思い桜色の唇を開きかけたが、寸前でやめた。視界の先に、目的地が見えたから。

 悠久都市アストライアの中心にそびえ立つのは、『最後の女神』が住んでいたと言われている塔。

 どこまでも伸び続けるかのように見える塔の頂上は、もう何百年も前に崩れ落ちてしまっている。危険だからと言う理由で使用されなくなって久しいその塔の眼下に、シャーロットとヴェルメリオが所属する組織──『聖遺物調停管理機関』がある。


「あ〜……仕事したくねー」


「吸殻、道端に捨てるのやめてください」


 短くなった煙草を地面に落としたヴェルメリオに、シャーロットが冷ややかな視線を向ける。

 ヴェルメリオは聞かせるように舌打ちをすると、地面に落とした吸殻を拾う。

 シャーロットはそれを確認し、ワンピースの内側からペンダントを取り出す。ペンダントトップには、コートやワンピースに施された刺繍と同じ、秤のない黒金の天秤が描かれていた。

 それを、重く閉ざされた扉に向ける。


「調停官シャーロット・ユースティティア・アウローラ──帰還しました」


 ゆらゆらと揺れるペンダントトップが、眩い光を放つ。

 その光に呼応するように、扉がゆっくりと開いていく。


「同じくヴェルメリオ・エスパーダ・エルミス、帰還した」


 ヴェルメリオの左耳を飾る金色のピアスが、シャーロットのペンダントトップのように光る。眩くも優しい光は、ふたりを歓迎するかのように包み込む。

 すべての恐怖も不安も拭い去ってしまう絶対の安らぎが、その光には宿っていた。

 その光の中を、ふたりは進む。迷いのない足取りだ。光の先に何があるのかを、知っている者の足取り。

 やがて光の先に、出口が見えた。

 シャーロットとヴェルメリオはほぼ同時に、着ていたコートを脱ぐ。春の陽気を思わせる暖かな風が、ふたりの肌をそっと撫でたのだ。

 扉の向こう、光の先に待っていたのは、『最後の女神』が地上に残した『永遠の春』だった。



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