第37話 君を銀色にしたいから。


 私はあの場所にいた。

 すべてが始まった、あの場所だ。

 

 雨の中、お気に入りの傘をさして。

 あの頃よりも、もっともっと小さく見える池を眺めていた。


 私は今、どんな顔をしているんだろう。水面に映るもう一人の私は雨粒にかき消されて、表情まで読み取るには至らない。


 でもきっと、ひどい顔をしているのだろう。


 私は、間違えてしまったのだろうか。


 自分の気持ちを、好きという気持ちばかりを優先して。勝手に、暴走して。


 彼の気持ちを考えていなかったのだろうか。


 私はただ、彼のことが好きで。好きで堪らなくて。彼をひとりぼっちにしたくないと願って。彼と一緒になりたくて。


 でも、彼は私のことなんて求めていなかったのだろうか。


 私と、2人になる未来を描いていてはくれなかったのだろうか。


 そんなはずはない。

 そんなはずはないんだ。


 彼も私を求めてくれている。

 私には、幼馴染にはそれがわかるんだ。


 そう思っていた。

 確信していたはずなのに。


 今はもう、わからなくなってしまった。


 あのキスを彼に拒まれた瞬間。

 すべてが崩れ去ったように感じた。

 私の独りよがりが露呈してしまった。



 ————涙が、止めどなく溢れた。



 ああ。やっぱり、そうだ。

 やっぱり、私はとんでもない間違いを犯してしまったのだろう。


 きっと私は勘違いをしていて。嫌われ者で、虐められっ子だった私に、何かがあるはずなんてなくて。


 私に宿る銀色なんて、ただの見せかけでしかなくて。


 私が、彼に求められているはずなんてなくて。


 私は……きっと————。





「————ユキ!!!!!!!!!!」





 そのとき、愛おしい声が聞こえた。

 ずっと聴きたかった声が聞こえた。

 雨の中でもはっきりと通る、大きな声。


 後ろを振り向く。


 ああ、なんで。

 なんで来てしまうんだろう。


 いつだって、ヒーローは遅れてやってくる。


 いつだって、ヒーローは私を助けてくれる。救ってくれる。


 私は、か弱いヒロインなんかではいたくなくて。待っているだけなんて嫌で。彼を支えてあげたいのに。


 彼が来てくれた。

 それだけで嬉しくなってしまうんだ。


 さっきまでの暗い気分なんて。絶望の淵に立っているかのようだった思考なんて。どこかへ吹き飛んでしまうんだ。


 だって。

 彼の声が。

 ヒロさんの声が。


 

 

 私を救いに来てくれたんだって。


 伝えてくれるから。


 間違いに気づかせてくれるから。


 わかっていた。本当は分かっていたはずなんだ。


 ヒーローだって、悩んでいて。苦しんでいて。間違えることがある。


 ヒーローはいつだって孤独で。


 私がいくら隣で寄り添おうとも、その悩みを明かしてはくれない。


 でも、やっと答えを見つけたんだね。


 やっと。やっと。来てくれたんだね。


 ヒロくん。


 私の。私だけの。ヒーロー。


 


✳︎ ✳︎ ✳︎




 叫んだ。

 世界で一番大事な人の名前を叫んだ。


 あの場所に。いつかの桜の森に。彼女はいた。いてくれた。


 俺の声に気づいて振り向く彼女。


 その顔からは、彼女の感情が少しだけ読み取れて。


 やっぱり俺たちはどこかで繋がっている。


 そう思った。


 何も崩れてなんかいない。


 学校から全速力で走ってきた俺は雨に打たれてびしょ濡れで。もう疲れ果てていて。心臓はこれ以上ないくらいにうるさくて。呼吸だってまともにできやしない。


 だけど。


 


 これだけは、最初に言わなければいけないから。


 だから無理やりにでも、吸えない息を吸う。


 俺にはやっぱり、叫ぶことしかできないけれど。


 だけど君に、今度こそ伝えるよ。




「好きだ!!!!!!!!!!」




 叫んだ。


 足りなかった言葉を叫んだ。


 ずっとずっと、言えなかった言葉を。今こそ紡いだ。



 そしてすぐにもう一度、息を吸い直す。

 まだだ。まだ足りない。


 この想いを伝えるには、言葉なんかでは足りないのだろう。


 だけど、言葉にしなければ絶対に伝わらないこともあるから。

 



「大好きだ!!!!!!!!!!」




 言うやいなや、俺は走る。


 幼馴染の元へ。


 大好きな人の元へ。


 駆け寄った。


 抱きしめた。


 つよく、つよく。


 抱きしめた。


 そして何度でも、何度でも。


 言葉を編んだ。


 『好き』を伝えた。



「ヒロさん……痛いですよ……それに、びしょびしょです……」


「す、すまん」


 俺は慌ててユキを離す。


 でも今度はユキが俺に手を回してくれて。

 抱きしめてくれた。


「……離していいとは言っていません。ちゃんと、抱きしめてください」


「お、おう……」


 しばらく、俺たちは抱きしめ合っていた。

 一緒にいなかった時間を埋めるように。

 お互いの気持ちを確かめるように。


 それから、今度はユキが俺に語りかける。


「ヒロさん」


「……なんだ?」


「これが、ヒロさんの答えですか? 私は、そう思っていいんですか?」


「ああ」


 俺は一瞬の逡巡もなく答える。

 もう絶対に、悲しい涙を流させるわけにはいかないから。


「……そうですか。では、私も言います」


 ユキはこちらをはっきりと見据えて、姿勢を正す。そして少し震えた声で告げる。


「好きです。ヒロさん。私はあなたのことが、大好きです」


 知っていたことだった。

 誰よりも俺はそれを知っていた。


 だけどそれを聞いた瞬間、もうこらえきれなくて。流さないと決めていたはずこ涙が、溢れてしまっていた。


 やっぱり、俺はとんでもなく情けない男だ。


「……ありがとう……ユキ。ありがとう」


「泣かないでください。ヒロさん」


 ユキは俺の涙を指で拭う。でも、それでも俺の涙は止まらない。


「だって……俺は、俺はずっとおまえを裏切って。知らないふりをして。……勝手に悩んで……閉じこもって……」


「ねぇ、ヒロさん」


 もはや言葉を、大事な言葉を紡ぐことさえできないほどに嗚咽を漏らす俺。


 だけどそんな俺に、ユキは言う。

 なんでもないことのように。ふわっとした表情で、笑って言うんだ。


「私は、ヒロさんさえいてくれればいいんですよ。それだけで、幸せなんです。ヒロさんが私を求めてくれる。それだけでいいんです。……知りませんでしたか?」


「なんで……そんな……」


 俺が欲しかった言葉を紡げるんだろう。

 俺が探していた答えを。


 いつかの未来でユキを幸せにするにはどうしたらいいのか。そればかりを考えていた。


 そんな俺が求めていた答えを、この幼馴染はなんでもわかっているとでも言うように平然と、言葉にしてしまうんだ。


「ずっとわかりませんでしたよ。でも今、わかりました。ヒロさんの声が、涙が、教えてくれました」


「……そっか」


「まったく、おバカですね。ヒロさんは。ずっとそんなことを考えていたんですか?」


「……そうだな。ほんとうに、大馬鹿野郎だ」


「そうですよ。だからもう、離さないでくださいね」


 俺はもう一度、ユキを抱きしめた。

 もう絶対に離さない。


 ずっと一緒にいる。

 それくらいは、俺にも出来るはずだから。

 一緒にいてみせるから。


 かと言って、ユキの言葉に甘えるわけではない。

 やっぱり、考え続けることはする。

 未来のことを考えながら、俺は『今』のユキを幸せにしていこう。


 そのために、一緒にいよう。


 幸せにし続けた『今』の向こう側にはきっと、銀色の『未来』が広がっているはずだから。



「なぁ、キスしてもいいか?」


「また、おバカですね。ヒロさん」


 ユキはぷぅっと、可愛く頬を膨らませる。


「私はいつでもウェルカムだと、言っていたはずですよ?」


「そう……だったな」


 ユキの唇を見る。それはまるでゼリーみたいにぷるぷるしていて。俺のものなんかとは明らかに違う。


 女の子の、ユキの唇だ。


 その唇に、俺はそっとキスをした。


 本当に、そっとだ。

 ほんの少し重なっただけのキス。


 緊張と興奮で、頭がどうにかなってしまいそうだった。


 それでも、そのキスは全てを俺に教えてくれた気がした。

 確かな絆を、関係性の糸を紡げた気がした。

 

 幸福を、感じさせてくれた。


「ふふっ。初めてのキス、ですね。ヒロさん」


「あんま見るなよ、恥ずい」


「真っ赤になっちゃって。可愛いです」


 ユキが俺に戯れついてくる。もう俺たちの関係はいつも通りだ。いや、今までよりもっと強固なものになったのだろう。


「ばっ。変なとこ触んなっ……てかそういうおまえも真っ赤だからな!」


「そ、そんなわけないです。私はよゆーです。キスくらいいくらでもできます」


「そんなゆでダコみたいな顔で言われてもなぁ」


「なっ。それならもう一度。もう一度しますよっ。ヒロさんっ」


「ちょ、待っ。待てってそんないきなりぃ!?」


「————んっ」


 しなだれかかってきたユキは流れるように、俺の唇を奪った。

 さっきよりも長くて、濃厚なキス。


 それから何度も何度も、キスを繰り返した。キスの魅力に取り憑かれていた。


 なんだよ……マジで余裕じゃねぇかよ……。


 やはり俺の幼馴染は肉食だ。俺は襲われる運命さだめにあるらしい。きっと、これからもずっと。


「……ぷはっ。キスって、気持ちいいですね。何回でもしたくなっちゃいます」


「……そうかもな」


 ユキは目をとろんとさせて、恍惚とした表情をしている。

 ユキが求めてくれることが、俺はずっとどこか不安で仕方がなかった。だけど今はそれが、こんなにも愛おしい。嬉しいんだ。


「あっ。ヒロさんヒロさん」


「今度はなんだよ?」


「虹です。虹が見えますよ」


「虹?」


 ユキは興奮気味にぴょんぴょん跳ねながら、俺の後ろを指差す。


 振り向くと、そこには大きな大きな虹の架け橋が出来ていた。


 雨はいつのまにか止んでいた。


 きっと、2人の想いが通じたその時にはもう止んでいた。


 雲の切れ間からは、透き通るような青空が広がっていた。


 止まない雨はないからと。


 人は言う。きっとその通りだ。


 どんなに辛いことがあっても。


 消えてなくなりたくなったとしても。


 進む先が見えなかったとしても。


 決して拭えないであろう後悔があったとしても。


 いつか雨は止む。


 そこには必ず、虹の祝福があって。


 何かを乗り越えた俺たちを迎えてくれて。


 


 虹はそれを、信じさせてくれるんだ。


「綺麗だな」


「空も、私たちを祝福してくれています」


「なぁ、ユキ」


「なんですか? ヒロさん」


「好きだ。大好きだ。」


「はい。私も、好きです。大好きです」


 俺たちはずっと、その虹を眺めていた。

 何よりも大切な『今』で、『好き』を伝え合いながら。


 あの頃、10年前と同じ場所で。


 あの頃とは違う、もっと深い関係性を繋いだ俺たちで。


 ずっとずっと、眺めていた————。

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