第五幕 其ノ二

「…………………………」

「へっ。なんだ案外可愛い所があるじゃねぇか。そのまま大人しくしてりゃぁもっと可愛がってやるぜ……?」

 固まったまま身動き一つせず余韻よいんひたっていたトワに、再度フェムトが唇を重ねようとする。しかしそれに待ったを掛ける者が居た。

 他ならぬユノだ。

「はっはっはっ、とうとう越えてはならぬ一線を越えてしまったな。死んだよ、貴様」

 砂漠よりも乾いた口調でユノが告げる。

 その異様な気配にフェムトも背後を振り返るのを躊躇ちゅうちょする。

 見なくとも分かる。

 背後に居るのは、悪鬼羅刹よりも更に醜悪なナニか、だ。

 世界中の憎悪と怨嗟えんさを集めて煮詰めて人型に固めた、そんなナニか、だ。

(振り返ったらやられる……いや。振り返らなくてもやられる……)

 背中をダラダラと冷たい汗が滑り落ちて行く。

「おい。おーい。トワ? トワさん? トワ様!? あの悪魔も尻尾を巻いて逃げ出しそうなヤツを何とかして──」

 唇に手を当て未だ余韻を楽しんでいるトワを、フェムトが切羽詰まった様子でゆさゆさと揺さぶる。

 ピタ──

 フェムトの首筋に冷たい金属の感触が。

 数日振りのその感触に、もはや悲鳴すら上げられない。

 金の玉が痛むほど縮み上がって行くのを感じながら、さりとてフェムトに何ができる訳でもない。動かせるのは精々口くらいの物だ。

「ま……まぁ待てよ。なぁ? ここは一つ冷静に、な? 分かるだろ?」

「ああ。冷静になるのは大事だな」

「お……おお! そうだろそうだろ。一時の感情に任せて行動しちまうと取り返しのつかない失敗を犯しちまう事もある。だから落ち着いて、良く意見を交わし合って──」

「冷静でないと、手元が狂って無駄に苦しませることになるからな」

 冷静に落ち着いた様子で、淡々とユノが告げて来る。その余りにも平坦な声は、かえってフェムトに恐怖をつのらせる。

 完全に殺す気しかねぇじゃねぇか!

(ヤバイヤバイヤバイヤバイ……どうするどうするどうしようどうしようどうすりゃいい? ああああああああああああああああああああああああああ……)

最期さいごの慈悲だ。苦しまずに死ね」

 首筋に触れていた金属の感触が消える。ユノが剣を振る前動作だ。

(もうだめだあああああああああああああああああああ)

 ギュッと目をつむり死を覚悟するフェムト。

 そんな時──ガチャリと扉が開く音がした。


「お主等ぬしらは……? この部屋は一体……?」

 いぶかし気な表情でトワ達を見遣みやるのは、この館の主であるナキアヅカだ。

 その声で今にも振り下ろされんとしていたユノの手がピタと止まる。

 トワも意識を現実に戻し、ナキアヅカの方へ視線を遣る。

「覚えて居ないのですか?」

「……覚えて居るも何も、こんな部屋を儂は知らん」

 ユノの質問にナキアヅカが答える。

「操られておった時の記憶がない様じゃの」

「そういう物なのですか?」

「さて……? 儂が見て来た中では、そういう者もったし、全て覚えてる者もった。術の違いか個人差なのかは儂には分からんが、こ奴が覚えておらんかったとしても不思議ではないのじゃ」

「なるほど……」

 トワとユノが声をひそめての話が終わるのを待って、ナキアヅカが声を掛ける。

「ところでお主等は何者だ? 儂の館で何をしておった?」

「儂らは只の旅の者じゃ。ちと所要で寄ったら魔族がおったのでな、ついでに退治しておいてやったぞ。どうやらお主はその魔族に操られてった様じゃな」

 トワの答えに愕然とするナキアヅカ。

「な……なんとっ!? 儂が魔族に操られておったと……?」

「そうじゃ。そ奴は侍女に化けてったのじゃ。それは覚えてるかの?」

「侍女……う……、確かに数年前に新しく侍女を一人召し抱えた記憶が……」

「恐らくその時から徐々に操心そうしんの術を少しづつ掛けられてったのじゃろう」

「街はっ!? 儂の領民は大事ないかっ!?」

 魔族に操られていた事実を知らされ、真っ先に気にする事が領民の事である当たり、その本性は良き領主であるのだなと、トワとユノは得心する。

「儂が見て来た範囲では万事滞ばんじとどこおりなく、上手く回っておった様じゃぞ? 街人の表情は明るく活気のある良い街じゃ。魔族としても足掛かりとする街を荒廃させる気は無かったのじゃろう」

「そうか……、それならば良い」

 心底ホッとしたようにナキアヅカはこぼす。

 そこに空気などまるで読む気のないフェムトが図々ずうずうしい態度でナキアヅカに一つ要求をする。

「つまり俺達があんたを、ひいてはこの街を救ってやったって訳だ」

左様さようであるな」

「となると、だ。当然出すモンってぇのがあるんじゃあねぇのかい?」

 フェムトは指で輪を作って催促する。

 それを見てナキアヅカは一つ頷くと、

「当然であるな。ただ、儂は余り蓄財をしておらんのでな、期待に添えるかどうかは分からんぞ? 操られて居った間の事は分からんがな」

 そう言ってトワ達を、税が納められているのとは別の、ナキアヅカ自身の蔵へ案内すると言う。

「こっちじゃ。付いて参れ」

 先導して歩き出そうとした瞬間、ナキアヅカは「うっ……」と小さくうなると、頭を軽く押さえてふらついてしまう。

「大丈夫かの?」

 一早くナキアヅカを支えてやったのは、ナキアヅカに対して特に遺恨のないトワであった。フェムトはおっさんにしがみつかれるなんて御免とばかりに、むしろナキアヅカから距離を取っていた。

かたじけない……」

「ふぅむ。まだ魔族に掛けられてった術の影響が残っておるのやも知れんな。儂はその手の事にはうとくての。余り力になってやれんのじゃ」

「いや……大丈夫……。ええ……。大丈夫ですとも……」

 トワの肩に置いたナキアヅカの手に僅か、力が篭る。

「まさかこんな所であなた様にまみえる事がかなうとは思いもよらぬ事でしたぞ。その為の準備だけは十全に行っておったのですが、本当に役に立つ時が来ようとは……っ!」


天時環媛命あまのときわのひめみこ


 ナキアヅカが歓喜と共にその名を呼ばわる。

 それはトワの真名まな

 その名はトワを表すだけの記号ではなく、『原初の混沌』の力を宿すトワの力の根源を為す。

 その根源たる真名に、呪印という楔を打ち込む。

 それまでの体に刻み込んでいた隷属の呪印とは明らかに一線を画す、存在そのものを縛り服従させる為のナキアヅカの研究の集大成である。

 古代遺跡を探索するにつけ感じていた超越存在。

 古書を紐解くにつけ度々目にした破滅の象徴。

 ナキアヅカは空想──妄想、そして懸想した。

 もし、これほど強大無比な者をなぶる事が出来れば、それはどれ程の愉悦であろうかと!

 ナキアヅカは領主としての政務の傍ら、手間も暇も、そして私財も惜しまず投じて探し、求め続けた。

 そして見つけた、トワと呼称される破壊神を封じるための魔法陣を!

 先史文明の遺跡から偶然見つけたその魔法陣はしかし、トワを封印するのに失敗した事は容易に想像出来た。

 何故ならその先史文明はその後直ぐに、滅びを迎えているからだ。

 ナキアヅカはその魔法陣を持ち帰り徹底的に研究を始めた。これが今からおよそ五年程前の事である。

 その副産物として生まれたのが、フテリや賊達が使っていた隷属の呪印である。

 ナキアヅカは『時』と言う物を理解する為に魔族のボティスを召喚、呪印によって支配し更に研究を加速させる。

 そうして先史文明すら成し得なかった魔法陣の真の完成と、改良を成し遂げる。

 元はトワを永劫封印するための魔法陣を、隷属させる魔法陣へと変貌させたのだ。

 これはひとえにナキアヅカの、強者を甚振いたぶる快感への妄執の為せるわざであった。

 だがこの魔法陣を使うには一つ大きな問題があった。

 絶望的なまでの魔力不足。

 只の人間であるナキアヅカに、トワを支配出来る程の力を持った魔法陣を発動させるほどの魔力はない。

 先史文明には『ブラックホール』と言う天空のはるか彼方かなたにある超天体から得たエネルギーを魔力に変換する技術があった様だが、現在ではその様な物は望むべくもない。

 そこでナキアヅカが考え出した答え、それは──

「有る所から奪えば良い。そう、天時環媛命あまのときわのひめみこ、そなた自身からな!」

 ナキアヅカがトワの真名に打ち込んだ呪印は、その魔法陣へと力を注ぐポンプの様な物でありながら、同時に魔法陣の効果を印が刻まれたモノに及ぼす役目も担っている。

 一度ビクンと体を痙攣けいれんさせた後は、トワの全身から力が抜けくたりとナキアヅカにもたれ掛る。

「おい! 一体何がどうなってやがるっ!?」

「分からん!」

 フェムトの焦りを含んだ叫びに、ユノも動揺を抑え切れないまま怒鳴り返す。

 事態を呑み込めぬまま成り行きを見守るしかない二人を余所よそに、トワの体から球状の魔法陣が生み出される。その魔法陣は次第に巨大化し、トワとナキアヅカをすっぽりと覆ってしまう。

 直径が七~八尺ほどまで成長した球形魔法陣は、二人を残したまま地下室の天井を突き破り地上へと浮上して行く。

「追うぞ!」

「追ってどうしようってんだ!?」

「分からん! 分からんが、何もせん訳には行かんだろう!」

「俺は行かねぇからな!」

「貴様に期待などしておらん! 邪魔にならん様にしているんだな! 貴様を守ってくれるトワ様は、今は敵の手の中。つい『しっかり』貴様を殺してしまうかもしれんからな!」

「そこは『うっかり』だろうがっ!? てかこんな時でも俺を殺そうとしてんじゃねぇよ!」

「ふんっ。今は貴様に構っている僅かな時間も惜しい。命拾いしたな!」

「だったら俺を脅してないでさっさと行きやがれ!」

「それ位はしておかんと、業腹ごうはらではないか」

 そうつぶやくとユノは、ナキアヅカ達が開けた穴から二人を追って地上へ飛び出す。

 それを見送ったフェムトは──

「チッ。こちとらしがない野盗の下っ端だぞ? あんな化物どもに付き合ってられるかってんだ! ああああ……くそっ! くそっ! くそっ! くそっ! くそったれがっ!」

 床に転がる拷問器具を苛立ちまぎれに片端から蹴っ飛ばし、髪を掻き乱しながら部屋の中をウロウロと行ったり来たりしていたかと思うと、

「あああああああああああああああああああああああ!!」

 絶叫をほとばしらせる。

「やってやる! ああ、やってやるともさ! あんなジジイにくれてやるにゃあ勿体ねぇ! ここでアイツに恩を売って俺の奴隷への足掛かりにしてやるっ!」

 その表情には多分に恐怖が、そして開き直った故の清々しさと不敵さが同居していた。

 だからと言って直接戦闘に参加しよう等と愚かな考えは、フェムトの脳裏をかすめもしない。あくまで影から、ひっそりと、そして気付けばそれは致命打となるそんな手だ。フェムトが求めるのはそんな起死回生の一手。

(何か……何かあるはずだ……)

 自身が求める物が何かも分からないまま、それでもフェムトはそれを求めて部屋から駆け出した。

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