第6話 その名は
声が聞こえていた。
「……こ……いや……むむ……つがなった、か……」
ずっと遠くにいたかの様にか細く途切れ途切れだった声が、徐々に近づいているかの様にはっきりと鮮明になっていく。
「我はこういう細かい作業は好かぬのだが……。この線とこの線を繋げてここを改竄して……。これで行けるかの?」
そしてその声は語りかけてきた。
「……誰なの?」
問いかけた、つもりだった。
そこは不思議な空間だった。
辺りは真っ暗で何も見えず、目を凝らしても暗闇が晴れる気配はない。
手足の感覚が無い……というよりは今の自分は五体満足な形をしているのか、自分が本当に存在しているかの感覚さえ希薄。声を上げたつもりだったが唇が動いた感覚がしなければ、響く声が聞こえてくることも無い。
でも、返答はあった。
「我か? 我はそうよの、5柱目の女神とでも言おうか」
女性の声だった。おそらく9か10歳くらいの幼い少女の声。しかし子供が背伸びしているような感じではなく、ごく自然に尊大な響きを含むその声は、幼い声音ながらどこか威厳の様な物を感じさせた。
「5柱目の女神!? 4柱の女神以外に女神がいたなんて聞いたことないよ!」
4柱の女神の神話はこの国や、周囲の国の間では赤ん坊以外ならだれでも知っている話だ。おとぎ話の類以外にも図書館にある歴史書や女神を扱った研究論文などを読んだ事もあるが、5柱目の女神、なんてものが出てきたことはただの一度も無い。
その声を聴くと、美しい幼女がえへん、と小さい胸をそらす図が頭に浮かんだ。
でも今だ僕の頭は、まるで霞がかかったかのようにぼんやりとしていた。なにか悲しいことがあった様な。激しい感情に身を焦がされ、そのまま何かをやろうとしていた様な……
そしてその自称5柱目の女神は語りだした。
「我は……えーと、そうじゃのぅ……混沌と……死の……女神、そう、混沌と死の女神じゃ!」
「……どうして、自分の事なのに今思いついたみたいな言い方なの?」
「う、うるさいのう!
とにかくじゃ。えーっと、そうじゃ、混沌と死の女神であった我じゃが、人間の死と転生を司る神でもあった。転生……輪廻転生という概念は理解できるかの?」
「あ、うん、それは大丈夫。再生と闘争の女神エピメテウスを信仰している獣人国出身のヴァレリヤから聞いたことあるよ。エピメテウスの教えの中に、戦って死んだ人は女神の御許に送られて、それから新しい人生を送るために転生するんだって」
ヴァレリヤの名前を口にした時、ずきりと胸の奥が痛むような気がした。自分の大切な存在を失ったような、ずきずきとした痛みを訴えてくるが、霞がかかったようにぼんやりとした頭では何故なのかよく理解できなかった。
「そうじゃ、その転生じゃ。そして転生を実際に司り、実行するのが我というわけよの。我が司っておった死と転生というのは全ての生き物に等しく与えられるもの。すなわち、全ての生き物が我の加護を与えられていた」
「……全ての、生き物?」
「そうじゃ。4柱の女神の加護は一部の者にしか及んでいないであろ? しかし我の加護は今加護を与えられていない全ての人や、動物などにさえ等しく与えられておった。まぁ、数が多い分たいした能力は与えてやれんがの」
「……それじゃあ、僕にも本当は加護が与えられていた……?」
その言葉は僕に衝撃を与えていた。
加護がないからと、母様兄様やセドリックにかけられた酷い言葉や暴力が脳裏によみがえってくる。本当なら、僕にも加護が与えられていて、あんな目にあう必要はなかった……?
その声の主は興が乗ってきたのか、最初の頃より遥かになめらかに語る。
「そうじゃ。本来はそのはずじゃったが、信者の数が図抜けて多かった我に嫉妬した他の女神たちが、寄って集って我を封印したのじゃ!」
「……封印?」
「そうじゃ、4柱の女神の力で現世とは違う別の世界に隔離し閉じ込めた。そのため、本来与えていた筈の我の加護は与える事が出来んようになった。そして、抜け出そうにも、女神の力で障壁が張られていて出ることが出来ん。じゃがの、偶然波長が合い意思疎通が出来るだけの念派を送ることが出来る人間を発見したのじゃ」
「それが……僕?」
「そうじゃ、何故かは我にも分らんが。それにお主、死にかけておったしの。死は我の領域よ」
……死にかけていた? 僕が?
ざざざ、っと脳裏に断片的なイメージが蘇ってくる。
暗がりの中で半裸で泣き叫ぶヴァレリヤ――
ヴァレリヤにのしかかり腰を振る男――
そしてその男は僕に向かって剣を振りかぶり――
「うわあああああぁぁぁぁぁ!」
思わず叫び声をあげていた。
「ヴァレリヤ! あの男、ヴァレリヤ……ヴァレリヤを! そして、僕を!」
次々と次と蘇る光景。あられもない格好で辱められ泣き叫ぶヴァレリヤ、いつもの暖かな笑顔を浮かべながら命を失ったヴァレリヤ、そしてにやにやと厭らしく笑うスラムの男、ゲルト。
そして、それを依頼したのはあのセドリック!
家令の怜悧な、見下したような冷たい笑みが脳裏に浮かぶ。理不尽な虐めにも暴力にもずっと我慢していたのに、あいつは!
音も感覚もないのに、ぎりりと奥歯を噛みしめた気がした。
あの時の苦痛、屈辱、絶望感、喪失感、そして憎悪が蘇ってくる。
「思い出したかの?」
幼女がにやりと笑った、気がした。
「そう、お主の大切な人とお主自身の命は奪われた。理不尽にの」
そうだ、なんて理不尽なんだ。僕もヴァレリヤも何ひとつ悪い事はしていなかった。なのに、加護が無く力も無いせいでなにもかも、尊厳も命も理不尽に奪われた。
憎い、憎い!
ゲルトも、セドリックも、両親も兄様も――みんなみんな!
「直接手を下した者共も憎かろうが、何より歪んでおるのは4柱の女神に支配された世界の秩序――そう、世界そのものじゃ」
命を奪われる直前に感じた感情が蘇ってくる。
なんと残酷。
なんと理不尽。
なんと傲慢で、身勝手で、上から目線な世界なのだろう。
「したくはないかの? 復讐を――」
そこへ幼女の甘く囁くような声が聞こえた。
「したくない訳が無い!」
思わず叫んでいた。
腹の奥底から激しく燃えるような憎しみがどんどんと湧き上がってくる。なにもかもを破壊して辺り構わず当たり散らしたい衝動に駆られるが、ここはどことも知れない暗闇の世界で、僕はすでに死んでいるのだ。
そこへ、幼女が声をかける――
「そこで提案じゃ、我と取引をせぬか? 我と共に女神を誅するのじゃ」
まるで詠うように、世界に向けて宣誓するかのように――
「細い繋がりを持つお主を依り代とすれば、我は女神の障壁を超えて世界に現出することが出来る。お主に我の力を貸し与えることも出来るの。そして、女神を誅すことによって全ての障壁は取り払われ、我は女神として再び力を振るえるようになる」
……女神を、倒す? いくらなんでもそれは……。
「なあに、殺すという訳じゃないのじゃ。力を削ぎ、今の我の様に、世界に及ぼす力が弱められれば良い。そうすれば、お主の好いたあのメイドも救われるのじゃ」
ヴァレリヤが? どういう事だ?
「言ったであろ? 我の力は死と輪廻転生を司っておる。我が力を取り戻せば、ヴァレリヤとやらの魂は救われて輪廻転生し、世界で新たな生を得る。その時は、力を取り戻した我が加護を与えることも可能であろうし、来世でお主と再び出会えるようにすることも造作もない事じゃの」
あるかどうかも分からない心臓が高鳴るのを感じる。
ヴァレリヤが救われる? 再び会える?
そんな馬鹿な話が、と思う反面、それは魅力的な提案で、するりと僕の胸に沁み込んできた。
「まぁ、今からお主は我に力を貸して女神を誅してもらうからして、その後天寿を全うしてからとなるがの。我が力を取り戻せば、メイド以外にも加護無しで迫害されておる人々にも、等しく我の加護を与えることが可能となるのじゃ」
幼女が、まるで僕を迎え入れるかのように腕を広げた気がした。
「正義! そうじゃ、これは正義の戦いなのじゃ! そのついでに、お主とメイドの命を奪った者共に復讐することが出来、さらに来世での幸せまでも勝ち取ることが出来るのじゃ!」
5柱目の女神を名乗る幼女は、高らかに言った。
――正義の戦いだと。
それは、心躍る言葉だった。
もちろん復讐はしたい。
僕やヴァレリヤを酷い目に合わせた奴らに目に物を見せてやりたい。
加護持ちに命まで奪われた僕が、同じく加護持ちに迫害されている人達を救うために、まるでヴァレリヤに聞かされた英雄の様に戦うことが出来る、というのは実に痛快で心躍る提案だった。それにどちらにしろこのままセドリックの屋敷に戻る、という選択肢は無いのだ。それならば彼女と行動を共にし、この世界に一矢報いるために行動するのも良い気がした。
ましてやそれが、ヴァレリヤの魂を救うことに繋がると言われれば……。
「……分かった、やるよ。協力する」
「はは……、ははははははは! そうかそうか、決心したか! 忌まわしき女神どもを誅するため、立ち上がってくれるか! あははははははは!」
僕の決心を伝えると、幼女はそれはそれは愉しそうに笑い声をあげた。
「よし、それでは今からお主の魂を世界に戻し、お主を生き返らせるのじゃ。さすれば、すぐに我を呼び出せ。呼び出すための言霊は、その時になれば自然と分かるはずじゃ」
ごくり、と唾を飲み込む。
いよいよだ。いよいよ本当に元の世界に戻り、ヴァレリヤの為に戦うのだ。
――ふいに、いとも簡単に僕とヴァレリヤを気絶させたゲルトの顔が浮かぶ。
ぶるり、と思わず震えてしまう。僕はあのゲルトに対して何も出来ずに殺されてしまった。生き返ったところで、なんとかなるのだろうか……?
「安心せい、我が力を貸してやるのじゃ。あのような有象無象相手にもならぬの。お主は心を強く持つ事だけ考えていれば良い」
そんな僕の様子に気づいたのか、幼女が声をかけてくれる。
恥ずかしい、こんな幼い少女に心配されるなんて……。まぁ、相手は女神様だ。見た目の年齢なんて意味無いだろうけど。
「では行くぞ、準備はよいかの?」
問いかけてくる幼女の顔を見て、ふと気づく。
そういえば、名前も聞いていなかったことに。
「……君の名前を聞いていなかったね」
「それもそうじゃの。いかんいかん。我もいささか気が急いておった様じゃ」
幼女は苦笑すると
「我の名は――――」
にんまりと、三日月の様に口角を吊り上げて嗤った。
「――――ニャルラトホテップ」
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