第7話 逆襲

 最初に目に飛び込んで来たのは、血だまりの中に倒れ伏すヴァレリヤの遺体だった。


 そこは薄暗いホコリとゴミの散乱する廃屋――僕とヴァレリヤが連れ込まれ殺されたあの場所だった。


 視線を動かすと、ゲルトの手下たちに乱暴されていた銀髪の女の子が、死んだ様に横たわるのが目に入ってきた。彼らは犯すだけ犯し満足して興味が失せたのか、女の子を蹴り飛ばすと、酒で飲みに行こうと外に出ていこうとする所だった。


 どうやら、死んでから時間はたっていないらしい。


 僕が手足を縛られ床に転がされているという状況は全く変わっていないのだが、


 ――逃がすものか


 どこからかそんな感情が湧き上がると同時に、僕の掌から黒いの様なものが湧きあがってくる。それが何かは分からなかったが、それについて考えると死んでいる間に見た夢でニャルラトホテップと名乗る幼女と出会ったことを思い出す。


 言っていたではないか、力を与えると。


 ぐい、と力を入れると手足を縛っていたロープはあっさりと千切れて、手足が自由となる。


「はは……」


 僕は自由を奪われて、犯されるヴァレリヤを見ている事しか出来なかったが、その時僕を拘束していたロープがこんなにあっさりと千切れてしまった事に乾いた笑いが出てくる。これが、加護……これが女神の加護?


 僕は立ち上がると、ヴァレリヤの遺体にちらりと目をやる。

 あの美しく暖かだった彼女はもういない。その身体は辱められ、命さえも奪われた。ぐつぐつと、体の奥から怒りとも憎しみとも言える感情が湧きあがってくるのを感じる。


「ああん? なんだ?」


 ゲルトが振り返り、目を見開くのが見えた。

 だけど、もう遅い。


 頭の中に、ニャルラトホテップが言っていた言霊が浮かんでくる。


「ふんぐるい むぐるうなふ!」


 天井を見上げ、祈るように両手を広げる。


「にゃる しゅたん! にゃる がしゃんな!」


 叫ぶと同時に、びきり、と頭上の何も無い空間に昏く輝く亀裂が走った。


「ハははははは、あハははははははははははははは!」


 その亀裂がばくんと大きく口を開いた。

 隙間から覗くのはどこまでも深く昏く落ちていく様な奈落。その中から彼女は舞い降りる様に現れた。


 おそらく夢の中で出会った、歳は9か10くらいの美しい幼女。


 彼女は黒で統一された上等な仕立てのゴシックドレスを身に着けていた。あちこちに白いフリルはあしらわれていたが、足元までふわりと広がったスカートも黒一色。そして腰まで伸びた闇より純度の高い闇色をしたさらさらとした髪と、同じく深い深淵を覗き込むような黒曜石の様な瞳。なにより、切れ長の瞳と薄い笑みを湛える唇は完璧な比率で配置され、その顔立ちは今まで見た事がないほど整っていた。


「くふふふふふ、あははははははははは!

 ついに、ついにあの忌まわしい障壁を突破できた! に入ることが出来た! これで、これで我らの悲願を叶えることが出来る! あハはははははははは!」


 幼女は、嗤っていた。


 悲願が叶う、と。愉しくて愉しくてたまらない、と。


「ガキが生きていた?!」

「ガキなんてどうでもいい! なんだこりゃ!」

「どこから現れやがった?!」


 ゲルトの手下のゴロツキ達が、起き上がった僕と突然現れたニャルラトホテップに気付きばらばらと囲むように広がってゆく。


「我は、ニャルラトホテップ――」


 幼女はまるでおどける様にスカートの端をつまみカーテシーをすると、笑みを浮かべた。


旧支配者グレート・オールド・ワン、這い寄る混沌、色々呼ばれた事があるでの。好きな様に呼ぶがよい」


 ニャルラトホテップは一見友好的と言える程に朗らかな笑みを浮かべていたが、ゴロツキ達は警戒する様に各自手持ちの武器を構えていく。


「この、バケ……」

「では、お別れじゃよ」


 なにか叫ぼうとした男にニャルラトホテップが腕を振ると、ゴロツキの男は真っ二つになり彼の上半身と下半身は分かれを告げた。


「は?」


 一瞬だった。


 無造作に振られたニャルラトホテップの腕から瞬間、爆発的に僕の体からも立ち昇るが濁流のごとく押し寄せ、男の体を真っ二つに引き裂いた。


「ゲッツ! おい、大丈夫か!」

「よくも、ゲッツを!」

「こいつ、ぶっ殺してやる!」

「あははははは、殺れるものなら殺ってみるが良い!」


 愉しげに笑うニャルラトホテップに男達が剣を振り上げ斬りかかって行くが、その幼女が無造作に――まるで蠅でも払うかのように腕を振ると、彼女の身体から立ち昇る黒いもやが鞭のようにしなり飛んで行き男たちが1人、また1人と真っ二つに両断されていく。


 あっという間にびちゃびちゃと真っ赤な血が床を一面に染め上げ、両断された死体がごろごろと転がる。


「はははははは、もう少し頑張れぬのか。手応えが無さすぎるの」


 嬲る様に両手両足を切断された男もいた。男達の悲鳴と苦痛の呻き声がその薄暗い廃屋の中には満ち満ちていた。


「なんだこれは! やってらんねぇよ!」

「助けてくれ! 死にたくねぇ!」


 何人もの男が出口に向かって殺到するが――


「逃がすと思うてか」


 ニャルラトホテップから放たれたもやが出口を覆い隠した。


 唯一の出入り口だったそこが塞がれてしまい、男達の間に動揺が広がる。そんな中、1人の勇気ある男がそのもやを剣で斬り付けた。しかしそのもやは特に攻撃などはしてこない様だったが、まるで堅牢な壁の様で突いても切り付けても叩いてもびくともしなかった。


「お前らは全員ここで死ぬのじゃ。久しぶりに堪能させてもらうぞ、贄をの」


 くすくすと愉しそうに嗤い、踊るようにゆらゆらと腕を振るうニャルラトホテップ。そして、またひとり上半身と下半身が別れを告げた。


「くっそう、ダツも殺られちまった!」

「なんだこりゃ、どうなってんだよ!」


 男たちが1人また1人と殺され、阿鼻叫喚が繰り広げられる中、僕は――


 情けないことに、1人、震えていた。


 血を見た事がないって訳じゃない。

 ウェイトリー伯爵家に仕える騎士達の調練や試合などを見たことはあるし、その際に血が流れる事だって珍しくはない。偉そうに言える事ではないが兄様やセドリックに殴られてよく血は出ていたし、それについさっきゲルトによってヴァレリヤや僕自身から流れ出す血を見せつけられたばかりだった。


 でも、これは違う。


 彼らは僕とヴァレリヤの命を奪った憎い連中でスラムなんかの住人達とはいえ、人の命がまるで雑草の様に刈り取られてゆく。その光景に怒りに染まっていたはずの僕の頭は真っ白になっていた。


「このガキィ、てめぇがコイツを連れてきたのか!」


 ゴロツキの一人が、怒りの形相で剣を構えて走ってくるのが見える。


 心臓を鷲掴みにされた様な衝撃が走った。

 そうだ、この惨状は僕がニャルラトホテップを呼び出したから起こったものだ。彼らへの復讐を誓った僕が巻き起こした事態だ。嫌が汗が次々と流れ落ち、鼓動が早くなるのを感じる。


「アレス! なにをしておるのじゃ!」


 ニャルラトホテップの声ではっと我に返る。


「その者達はお主自身とメイドの仇であろう! その者共はこの歪められた世界に弄ばれ、操られた者共じゃ。死すれば来世では我の加護が与えられ、幸せな生が約束されておる!」


 その言葉は、不思議と心の中にするりと入り込んでくる。


「言ったであろ、これは正義。そう、正義の闘いなのだとの!」


 ニャルラトホテップが男を1人真っ二つに切り裂きながら叫ぶ。


 そうだ、これは正義。


 ヴァレリヤの仇が討て、さらに僕やヴァレリヤ……加えて彼らスラムの住人達までも来世で加護が与えられ幸せになることが出来る。皆が幸せになることが出来るのだ。これは正義の行いなのだ。


 そう、


 腕を振ると、ニャルラトホテップがしていた様に黒いもやが鞭の様に走り、駆け寄って来ていた男を弾き飛ばした。男はそのまま壁に激突し、動かなくなる。


 ただ、それだけだった。


「はは……」


 ゲルトにまるで赤子の手をひねる様に捻じ伏せられここに連れ込まれた時は、自分の無力感に打ちひしがれていた。しかし今、僕より大柄な男達が僕が手を振るうだけで簡単に吹き飛ばされていった。


「ははははは、そうじゃ、よくやったの!」


 ニャルラトホテップが歓声を上げる。


 その隙に別の男が斬り付けて来ていたのを、僕はもやの鞭で弾き飛ばした。


「はははは……はははは、これが僕の力!」


 思わず、僕も笑っていた。

 

 これが加護!

 欲しい欲しいと願っていたけど手に入らないと諦めていた、女神の加護の力!


 これでセドリックに、僕を見下した奴らに目に物を見せてやることが出来る!


 見ていてよヴァレリヤ、君の魂をこの腐った世界から救い出してみせる!


 その間にもニャルラトホテップは同じもやの鞭で数人の男を両断していたのが見える。同じような攻撃だけど、やはり女神様というだけあってその威力は段違いだ、などと考えていると、


「てめぇ、やってくれやがったな」


 低い低い怒りに震えるゲルトの声は、廃屋の中に良く響き渡った。

 何故なら、彼の手下の男達は全員が物言わぬ屍となっていたからだった。


 静かになってしまった廃屋の中を、ちゃぷちゃぷと血だまりを踏みしめてゲルトが歩いてくる。


「あんな奴らでもよぅ、可愛い部下だったんだぜ?」

「そうかそうか、それはすまんかったの。我に感謝するとよいのじゃ、すぐに会わせてやるでの」


 殺気を飛ばすゲルトに、にやりと笑みを浮かべ応じるニャルラトホテップ。

 ゲルトがまだ10歩ぶんほどは距離があるが立ち止まり、左足をゆっくりと後ろに引き剣を左下に低く構える。


 すうと深呼吸したゲルトが


「浄化の秘技、第四位階ジェレーター 解き放つは神の怒りフェルス・デア=イグニス!」


 叫びだんっと足を踏み出すと、次の瞬間には僕の目の前でばちばちと雷を纏う剣を振り上げていた。


 ――躱せない、殺られる?

 

 そう思った瞬間、ゲルトの体が右手に直角に吹き飛ばされた。

 壁に激突するゲルト。


「ほう、それが女神の秘技か。その程度の力では我は出し抜けぬの」


 僕のすぐそばで片足を振り上げた体勢のニャルラトホテップが笑う。


 助かった、という安堵と同時に先ほどの光景が蘇ってくる。


 ゲルトが叫んだ言葉と雷を纏う剣、見るのは初めてだけど天空と憤怒の女神プロテウスの浄化の秘技だ。女神の怒りで邪悪を浄化する、神の雷をあやつる秘技だと本で読んだことがある。

 しかも秘技は加護のある人が全員使える物じゃない。加護持ちでも大抵の人は第五位階ニオファイトといって秘技を使うことは出来ない。秘技を使えるのは第四位階ジェレーター以上の加護持ちで、なかなか見れるものではないからだ。


 つまり、ゲルトはそれだけの使い手だという事だった。


 ごくり、と唾を飲み込む。


「痛てぇじゃねぇかよ……」


 ゆらりと立ち上がるゲルト。


「ほう、なかなか頑丈な様じゃの」

「バケモノめ、てめぇはぶっ殺すからな」


 にやにやと笑うニャルラトホテップに、ゲルトは吐き捨てる様に言うとまたも剣を低く構えた。


「浄化の秘技、第四位階ジェレーター 解き放つは神の怒りフェルス・デア=イグニス


 ゲルトが再び口にすると、再び剣にばちばちと雷が走る。その白い稲妻は天から落ちてくる雷とはまた違う、透き通る様なまさに神の雷と言われても納得できる神々しい光を纏っていた。


 ――これが、女神の秘技。


 加護の無かった僕には想像できない超常の御業。ニャルラトホテップが女神の一人であるとはいえ、無事に済むものだろうか?


「死にやがれっ!」


 次の瞬間、ゲルトはニャルラトホテップの頭上で剣を振り下ろしていた。


 見えなかった!?


 振り下ろされる剣の下でにたり、と嗤うニャルラトホテップと迸る黒いもや。


 そして次の瞬間、ゲルトの身体は細切れとなり床に散らばった。

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