第四十二幕 羅刹の望み

 シエナ方面軍に遅れる事数日。ディアナ自身が総大将を務める本隊も、南のチリアーノに向けて進軍を開始した。トレヴォリからチリアーノまでは東にパドヴァ湖を望む比較的平坦な道が続いており、距離もさほど離れていない。


「この進軍路には森や丘など罠を仕掛けられる地形が少なく、必然正面からのぶつかり合いが主体になってきます。我が軍は約6000の兵力ですが士気は高く意気軒昂。対してラドクリフ軍はかき集めれば1万程は揃えられるでしょうが、まずもってまともに揃うかが怪しい状態です。そしてよしんばそれだけの兵をかき集めた所でその士気は低く、小細工なしのぶつかり合いとなれば我が軍の敵ではないでしょう」


 本陣でディアナに随伴するアーネストが戦略を説明している。士気が限界まで低い敵軍は籠城戦を行う事が出来ず、野戦に出てくる可能性が高いという話も聞いていた。


「なるほど、基本的に我が軍が有利と思って間違いないですね。でも……それでも一点だけ・・・・不安というか不確定要素があると思うのですが……」


「解っております。オズワルド・・・・・の事ですね?」


「はい……。私にはどうしてもあの男が何もせずに私達に勝ちを譲る・・とは思えないのです」


 それはもう確信のような物だった。オズワルドが最早エヴァンジェリンを見限っているのは事実かも知れないが、それとは別にディアナ軍に対して敵意を燃やすあの男は易々とは勝ちを渡さない。その予感があった。


「ええ、ディアナ殿の仰る事もよく解ります。私も同門としてあの男の危険性は理解していますからね。基本的な戦略は変わりませんが、何があっても対応できるように備えておかねばならないでしょう」


 この本隊にはシュテファンやカイゼルもいるので、臨機応変な対応も万全のはずだ。ディアナ軍は警戒しつつも進軍を続け、そして結局何事もないままチリアーノを視界に収められる場所まで行軍して来ていた。



 城門前にはアーネストが予想した通り、籠城戦ではなく野戦を選択したらしい防衛部隊が待ち構えていた。その数はざっと4000程。こちらよりは少ないがさりとて油断できる数でもない。


「あの部隊は恐らくチリアーノ太守であるゾランが率いているでしょう。不忠者の多いラドクリフ軍の中でも特に奸臣として悪い意味で有名な男です。その人となりは……私よりもディアナ殿の方がよくご存知でしょうが」


「……!」


 ゾラン・パコ・ナダル。かつてクリストフに騙されて・・・・このチリアーノまで赴いた際に邂逅した太守。ここでユリアンにも初めて会った。今のディアナにとっては遠い昔のように思える出来事。最早彼女は縛られて震えていた無力な少女ではない。


 あの時はただ逃げるしか出来なかったゾランとチリアーノの街に、今こうしてそれを上回る兵力で攻め落とさんと迫っている。ディアナは一瞬不思議な感慨に捉われた。


 ディアナはかぶりを振った。今はそのような感慨に耽る時ではない。彼女は全軍に号令を掛ける。



「皆さん、ようやくこの時が来ました! あそこに布陣するのは憎きラドクリフ軍の一部です! これまで散々辛酸を嘗めさせられてきた借りを今こそ返しましょう! さあ、皆さんの力を思う存分発揮して下さい!」



 ――ウオォォォォォォォッ!!!


 自分達が熱狂する『戦乙女』の凛とした号令に気勢を上げた兵士達は、一陣の風となってチリアーノの防衛部隊に襲い掛かった。



 ラドクリフ軍からは大量の斉射が浴びせられるが、自軍の部隊を率いるシュテファンは一糸乱れぬ統制で大楯を掲げさせ、斉射による被害を殆ど無効化してしまった。そして巧みな用兵で進軍を遅らせる事無く敵軍に突撃を敢行する。


 両軍が入り乱れて忽ち乱戦となる。シュテファンは当然乱戦となっても統制を失わず、的確に部隊を指揮して敵兵を駆逐していく。だが……


「ふむ……? ゾランとやら、聞いていたより優れた指揮官かも知れんな。この兵力差で私に突破口を開かせぬとは」


 通常、無能な指揮官に率いられた軍は乱戦になると容易く統制を失って、部隊の厚みがちぐはぐになって穴だらけとなる。そこを突けば敵本陣まで一気に突入も可能になったりするのだが、意外な事に敵軍もまた乱戦でありながら統制を失わずに巧みに『穴』を埋めてくる。


 怠惰で保身にばかり優れた俗物と聞いていたがそれは単に能力を隠していただけで、ゾランという男は案外優れた将軍かも知れない。直接戦矛を交えているシュテファンはそう感じていた。


 両軍が意外にも一進一退の攻防を繰り広げ戦線が膠着状態に陥りかけた時、事態が動いた・・・・・・




「……ゾランめ、これだけ追い込まれてようやく手の内を見せたか。まあ……最早私には関係のない事だが。しかしディアナよ。易々と勝利を手渡す事だけは、我が矜持にかけてさせはせん」


 両軍がぶつかり合う様を間道・・に身を潜めながら眺めていたオズワルドが呟く。一見なだらかに見えるトレヴォリ・チリアーノ間の平野だが、それでも僅かに軍が通行できるような間道は存在していた。


 侵攻側であるディアナ軍はそこまでこの地の地形を精査している余裕が無かったが、ラドクリフ軍は主にオズワルドの主導でエトルリア郡一体の地形は精密に調査してあった。その情報量の差が、オズワルドと彼の率いる300人ほどの部隊がディアナ軍に捕捉されずに迂回する事を成功させたのであった。


 彼等が間道を抜けると、そこはディアナ軍の本隊の後方が窺える位置であった。


「…………」


 オズワルドは麾下の兵士達に隠密を命ずると、慎重にディアナ軍の後方に忍び寄っていく。ディアナ軍はゾランの意外な善戦によって、完全に前方に意識と備えが集中している。本陣を直接叩く・・・・・・・なら今この時をおいて他にない。



 もしここでディアナを討ち取る事が出来たら、戦局は一気に覆るだろう。その後エヴァンジェリンが巻き返すか、それとも州外の勢力の侵攻を許すか。それは最早彼の知った事ではなかった。


 オズワルドとしては、彼の望み・・である『永遠の乱世』が続くならば何でも良かった。戦乱の世を終わらせるなどと標榜するディアナは、彼にとって決して相容れない排除すべき危険因子・・・・であった。


 そこまで上手く行くかどうかは、ディアナの強運と敵軍師たるアーネストの知見に懸かっているが……



「……行け。目指すはディアナの首ただ一つ。見事大将首を挙げた者は、エヴァンジェリン様からの褒賞は思いのままだ」


 兵士達に敵本陣への突入を命じる。元々このように言って士気の低い兵士達をこの任務に就かせたのだ。それに実際ディアナを討ち取るような大手柄を挙げれば、確実にエヴァンジェリンから莫大な褒賞を受けられるはずなので別に嘘は言っていない。


 欲に目が眩んだ兵士達は勇んで、無防備なディアナ軍の本陣に後方から襲い掛かる。全く警戒していなかった後方からのまさかの奇襲にディアナ軍は慌てふためいて浮足立つ。その混乱を突いて敵本陣に突入した兵士達は僅かな守備兵を蹴散らし、ディアナに逃げる暇を与えず容易くその間近まで到達した。



「いたぞ! ディアナだ!」


 兵士の1人が指差した先には、細身の体を隠すように派手な外套を纏っている高貴な雰囲気を醸し出す武将がいた。このような雰囲気は無骨な戦場の男達に出せるものではない。間違いなくディアナ本人だ。 


 ディアナ自身も多少腕が立つ事は知られていたが、所詮は女であり殺気立った大勢の兵士達に囲まれて無双できる程ではない。この状況になった時点でディアナの討ち死にはほぼ確定であった。


「死ねぇっ!!」


 兵士達が手柄を求めて我先にと槍を構えて殺到してくる。四方八方からの槍に、ディアナは為す術もなく串刺しにされる……はずであった。


「――っ!?」


 外套が舞った。それとほぼ同時に恐ろしい程の速さと鋭さの剣閃が煌めき、殺到して槍を突き出した兵士達の殆どが返り討ちとなって急所を切り裂かれて血を噴き出した。


 他の兵士達は激しく動揺した。ディアナにはここまでの凄絶な剣の腕はないはずだ。となるとこの『ディアナ』は……



「やれやれ、大勢で取り囲んで可憐な女性をめった刺しにしようなどと……いくら戦場とはいえ無粋の極みですね」



「お、お前は……!?」


 そこには線は細いながら鍛え抜かれた身体に、しかしどことなく典雅な雰囲気を纏った1人の男が細身の剣を片手に佇んでいた。


「我が名はファウスト・ボリス・パラシオス。戦場では死の唄を奏でる吟遊詩人です。短いお付き合いですがどうぞよろしくお願いします」


 慇懃に名乗った男――ファウストは、再び目にも留まらぬ勢いで剣閃を煌めかせる。その度に兵士が血を噴いて倒れていく。勿論兵士達も反撃するが、ファウストは全く意に介さない剣捌きで血の海を広めていく。


「ひぃっ!? な、何だ、この優男は!」

「ば、化け物だ、逃げろ!」

「話が違うぜ! もうやってられるか!」


 元々士気が低かった所を、確実にディアナを討てるからとその褒賞目当てで釣り出したに過ぎない連中だ。ファウストの予想外の強さに及び腰になり、命惜しさに逃げる者が出始めた。そうなると脆いもので、一気に瓦解して我先にと遁走していく。




「……影武者か。アーネストめ、流石にこの程度の策には備えていたか」


 少し小高くなった丘に身を潜ませていたオズワルドは、本陣の様子から奇襲が失敗した事を悟った。兵力も少ない上にその兵の士気も質も最低とくれば、流石のオズワルドも打てる策は限られていた。


 そんな条件下で打てるような策では、アーネストの裏をかく事は出来なかったという訳だ。


「残念だがここまでだな。だがこれで最低限の義理は果たした」


 オズワルドは肩を竦めると踵を返す。どのみち作戦が成功しようがしまいがラドクリフ軍からは出奔するつもりであった。しかしいくらも進まない内に……


「……!」


 彼の行く手に、数十人はいるだろう兵士達の一団が立ち塞がった。鎧の意匠からしてディアナ軍だ。オズワルドのいる場所や、彼がこの場から離脱しようとしていた事まで見抜いてここに現れたという事になる。となるとこの部隊は……



「……オズワルドよ。このまま戦場だけでなくラドクリフ軍からも去るつもりか?」



「……!! なるほど、あなたでしたか……カイゼル師父・・・・・・


 その兵士達の後ろから進み出てきた人物を見てオズワルドは納得した。『救国の英雄』にしてオズワルドの軍略の師でもあったカイゼルなら、彼の行動パターンを見抜いていたとしても不思議はない。


「ラドクリフ軍を抜けて、その後は何とする? この戦乱の世に、大人しく晴耕雨読の日々を送るお前ではあるまい?」


「……知れた事。再びどこかの野心的な君主を見つけて取り入るまでです。まだ情勢の安定していないガルマニア州かスカンディナ州辺りが狙い目でしょうな」


 全く悪びれずに答えるオズワルド。カイゼル相手に下手に誤魔化した所で無意味だ。


「オズワルド、これが最後のチャンスだ。ディアナ殿は必ずや中原の再統一を果たされるであろう。それだけの器をお持ちだ。乱世は終わり、中原は安定と平和を取り戻す。お前の能力と才覚は治世においても充分役立つものだ。ディアナ軍に加われとは言わん。せめて安定した勢力での宮仕えを――」


「――安定。それは私の最も嫌う言葉です。師父も良くご存知のはずでしょう? 私を止めたければ今この場で私を殺す以外にありません。師父に討たれるのならば本望ですよ」


 カイゼルの言葉を遮るように発言したオズワルドは、そう言って両手を広げる。彼は単身であり、カイゼルは少数とはいえ兵を率いている。討とうと思えば確実に討てる状況だ。だが……


「……どうしても考えは変わらんか」


 カイゼルは唸った。オズワルドがこれまでに為した所業、そしてこれからもディアナの前に立ち塞がるだろう事実を鑑みれば、ここで討ち果たしておく事の意義は大きい。


 だが反面、カイゼルの幾多の門弟の中でもある意味最も優秀で才気に溢れた人物でもあった。師としての情、そしてその才を惜しむ教導者としてのさがが、カイゼルの内に激しい葛藤と迷いをもたらした。そしてその葛藤の末に彼が出した結論は……



「……行くがいい」


 カイゼルは脇に避けて、兵士達にも道を開けるように促す。この兵士達は元々カイゼルの私兵だった者達ばかりで、敬愛する英雄の命令に疑問を差し挟まずに従う。


「……宜しいのですか? ここで私を討たなかった事を必ず後悔する事になりますよ?」


「全て承知の上だ。その上で一度だけ見逃す。ただし無論二度目は無いと思え」


「…………」


 オズワルドはそれ以上何か言ってカイゼルの気が変わる事を危惧したのか、無言で会釈のみすると丘の反対側へと消えて行った。それを見届けてカイゼルは深く嘆息した。


「『救国の英雄』などと呼ばれようが、儂も所詮は不合理な感情に囚われた愚か者に過ぎんな」


 彼の小さな呟きは、眼下の戦場から轟いてくる戦の音に紛れて誰にも聞こえる事はなかった。 




「んんー……、一瞬だけディアナ軍の後方が騒がしくなったけど、その後すぐに持ち直したね。どうやらオズワルドは失敗したみたいだね。まあ失敗するかもとは言われてたけど。じゃあこれ以上やっても勝ち目ないし、僕もさっさと逃げるかな」


 ラドクリフ軍の防衛部隊を指揮していたゾランは、正確な状況判断を行って現状を把握していた。恰幅の良い身体に柔和に垂れ下がった目尻。彼が普段自分の能力を隠している事もあって、誰もが彼の事を暗愚で怠惰な太守と思い込んでいた。


 しかし実際には敵よりも少ない兵力で、しかもシュテファンのような優秀な将軍に率いられた軍と互角に戦う有能な人物であった。ただしその能力は今回のように本当に瀬戸際にならなければ発揮される事はなかった。


「このままエトルリアに逃げた所で多分ディアナ軍の攻勢は止まらないだろうし、ラドクリフ軍の滅亡は避けられない感じだねぇ。じゃあ残念だけど軍を捨てて自分だけで逃げるしかないか」


 ゾランはそう決断すると、副官にこの場を任せて(押し付けて)、自分はチリアーノの街へと逃げ戻り、宮城から持てるだけの財産を持ち出して街の裏門から逃走してしまった。


 慌てたのは残された兵士達である。彼等はゾランが自分達を置いて逃げ去ったと気付くと、即座に白旗を上げてディアナ軍に降伏した。



 こうしてディアナ軍はゾランやオズワルドは取り逃がしたものの、チリアーノを無事に接収する事ができた。今頃はピストイアもヘクトール達が攻めているはずであり、残す所は州都エトルリアだけだ。


 天子争奪戦に端を発したディアナの長きに渡る遠征は、遂にその目的を遂げて終焉を迎えようとしていた……

 

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