第八幕 父子相反(Ⅲ) ~策士再び

 ディアナ軍に参加したイニアスは、バジルの評価通り官吏として若いながらかなりの優秀さを見せてくれた。従来記憶力に優れているらしく、一度聞いた事は何でも即座に記憶して忘れないという特技を持っている事も分かり、文官として重宝されるようになる。尚その能力は官吏だけでなくアーネストやクリストフら軍師にも感心され、惜しまれた程であった。


 ヘクトールら武官の反応が懸念事項であったが、イニアスはその持ち前の剽軽さに加えて官吏とは思えないほどの腰の低さで武官にも敬意を払った為、ヘクトールやゾッド達にもすぐに気に入られるようになった。また意外に酒も強いらしく、本人も飲み歩くのが好きで、それも武官達との距離を縮める要因となった。


 ヘクトール達にも気に入られれば、もはや殆ど障害はないと言って良い。ディアナ自身も側近たちは皆年上の男性ばかりであったので、同年代のイニアスとは気軽に色々な事が話せる友人のような関係となり、イニアスもまた外見だけでなく強い信念を持ったディアナを敬慕するようになり、2人は折を見ては中原の未来などについて語り合った。




 そしてイニアスも完全にディアナ軍の一員として認められてきた頃……。ラドクリフ軍、つまりはエヴァンジェリンの国からの使者・・がゴルガの宮城を訪れたのであった。そしてその使者はある意味でディアナのトラウマとなっている、とある人物であった。


 ゴルガの宮城。謁見の間でその使者と対面しているディアナは、玉座に腰掛けながら緊張に強張った表情を解けなかった。それもそのはず、その使者は……



「ふふふ! お久しぶり、ですなぁ、ディアナ様! あの時は頼りない少女に過ぎなかったというのに、今や押しも押されぬソンドリア公。いやぁ、ご立派になられたものです! 旗揚げ後間もない頃のあなたを知っている身としては、まるでしばらく離れていた娘の成長を見るようで感慨深いものがありますな!」



「……っ」


 ぬけぬけとそんな事をのたまうその男……フレドリック・ヨルゲン・カルムに対して、ディアナは僅かに唇を噛み締めて拳を握る。


 旗揚げしてからしばらくの後、この男の罠に嵌められてあわや拷問されて殺されかけた時に記憶は未だに忘れられない。下手人のウルゴル共々、ディアナの記憶にトラウマとして刻み込まれていた。


 尤も今ここにウルゴルはいないが。当然だがあんな剣呑な化け物を君主たるディアナの前にむざむざ連れてくるのは、極めて危険の高い愚行だ。フレドリックもそれが解っていたのか、最初からウルゴルは連れていなかった。


 だがフレドリックだけでも、ディアナにあの日の記憶を呼び起こさせるのには充分であった。



「ディアナ……奴の挑発に惑わされるな。今のお前はもう旗揚げ間もない頃のお前とは違うのだ。戦力も充実し、お前を守る優秀な将兵達も大勢いる事を忘れるな」


「……! バジル様……!」


 玉座の脇に控えるバジルが緊張するディアナを諭す。今アーネストは別件でゴルガを離れており、バジルが一時的に政務補佐の役割を替わっていた。


 彼の落ち着いた声を聞いたディアナは徐々に冷静さを取り戻す。それを見ていたフレドリックがその細い目を更に細くして顎を撫でる。


「ほぅ、あなたがディアナ軍の財政を一手に引き受ける官吏長のバジル殿ですか。お会いするのは初めてですが、あなたの噂は我が軍にも届いておりますぞ。全く……あなたさえいらっしゃらなければ、今頃ディアナ軍は戦わずしてとうに瓦解していたでしょうに。あなたを勧誘したディアナ殿は中々どうして先見の明がお有りだったようですな」


 あながち世辞とも言えないような、若干の忌々しさが込められたフレドリックの言葉にバジルは鼻を鳴らした。


「ふん、その言葉はそっくりそのまま返そう。貴様が浪費癖の激しいだろうエヴァンジェリンやユリアンの手綱を上手く握っているお陰で、一向に奴等が自滅せん。それどころか次々と新しい政策を施行して、あの短期間で膨れ上がったラドクリフ軍の財政を黒字に保っているのも貴様の仕業だろう?」


 バジルもまた皮肉を装いながらも、その声には苦々しい感情が籠もる。ラドクリフ軍であと財政に明るそうなのは高利貸のナゼールくらいだが、自軍のヤコブと同じで優秀な官吏ではあっても国全体の財務を統括できるほどの器はない。


 ディアナ軍におけるバジルのように、間違いなくこのフレドリックがラドクリフ軍の財政を一手に担っているはずであった。


 似たような立場であり互いに優れた財務官である2人は、不倶戴天の敵同士ながらその能力だけは認め合う部分があるようだった。



「それに貴様も悪い意味で我が軍では有名だぞ? かつてディアナを卑劣な罠に嵌めて殺しかけたクズ野郎とな」


 それもまた事実であった。ディアナ軍発足間もなくに君主である彼女自身が罠にかかってまんまと抹殺される寸前となった事は、ディアナ自身は勿論その臣下達にとっても極めて苦い経験や記憶となってこびり付いている。それが行き過ぎた結果、あのアーネストによるディアナの軟禁事件にまで発展したのだ。


 その直接の原因となったフレドリックの悪名は、今ではディアナ軍全体に知れ渡っていた。


「ふふふ! それはそれは……光栄と思うべきでしょうなぁ!」


 しかし当のフレドリックはどこ吹く風といった様子で含み笑いを漏らしている。現在敵対関係にあると言える、しかも自身の悪名が知れ渡っているディアナ軍の本営に、いかに正式な使者とはいえ単身で乗り込んできて、廷臣達からの敵意や憎しみに視線を浴びても平然としているフレドリックの姿に、ディアナは敵ながらその胆力だけは本物だと認めざるを得なかった。



「……あなたと世間話をする気はありません。早く用件を言って頂けますか?」


 ディアナは感情を押し殺した、抑えた声でフレドリックに用件を促す。このまま彼を前にしていると緊張と動悸で苦しくなる。そんな彼女の心情を知ってか知らずか、フレドリックはまた嫌らしい笑みを浮かべつつ頷いた。


「ふふふ、つれない事で。ではお言葉に甘えて本題に入るとしましょうか。……ここ最近ですが、あなた方の軍にイニアスという若者が加わりましたね。今日伺ったのは彼についてです」


「……! 彼が何か……?」


 ディアナがピクッと眉を上げる。確かイニアスはエトルリア郡にあるピストイアの街から来たと言っていた。それに何か関係があるのだろうか。だが既に彼は立派なディアナ軍の一員であり、ディアナ自身にとっても友人であった。


 元々ピストイア出身だから返せなどと言われても当然応じる気はない。


「ふふふ、彼がピストイアから来たという事は流石にお聞きだと思いますが……彼は自分の父親・・について詳細を語りましたかな?」


「父親、ですって……?」


 そう言えば確かに彼から家族について詳しく聞いた事はなかった。あの最初の出会いの時に父親と意見が合わずに家出してきた事、そしてその後に妹が1人いる事を聞いたくらいだ。彼自身が語らないものをこちらから根掘り葉掘り聞くような事はしなかった。


「……あいつの父オーガスタス殿は、俺がハイランドで会った時は帝国軍の武官だったはず。……まさか?」


 バジルが何かに思い至ったように目を少し見開く。フレドリックの笑みが深くなる。



「そのまさかですよ。しかもただの武官ではありません。オーガスタス殿は帝国によってピストイアの太守・・に封ぜられていたのですよ。そちらのペリオーレのディナルド殿と近い立ち位置ですな」



「……太守、ですって!? ピストイアの?」


「ええ、そうです。そしてご存知のようにピストイアは我がラドクリフ軍に対して無血開城しました。オーガスタス殿は今では立派な我が軍の将なのですよ! 現在もエヴァンジェリン様の命によって、そのままピストイアの街を統括しておられます」


「……!」


 ディアナの表情が厳しくなる。既にラドクリフ軍が不倶戴天の敵であるというのは、ディアナ軍の共通認識となっている。そのラドクリフ軍で太守をしている重鎮の血族、それも息子というのは、イニアス自身がそれを今まで黙っていた事も含めてかなりイメージが悪い。


「ふふふ、ディアナ様。オーガスタス殿はこの件で大変お心を痛めております。あなたの過去・・はオズワルド殿より聞いておりますぞ? あなたならまさか実の親子を引き離すような無情はなさいませんな?」


「く……!」


 ディアナは歯噛みする。事の真偽はイニアス本人に聞けばすぐに判明する事だ。こんな事でフレドリックが嘘を吐いてくるとも思えない。


 ここには他の廷臣達もいるので、この事はすぐに勢力中に広まるだろう。彼女はなるべく早くイニアスを呼んで今後の事を話し合わねばならないと決心していた。





 しかし噂の広まる速度はディアナの予想していたよりも早かった。


 フレドリックの来訪から数日後の夜。ゴルガの城門を抜ける一つの影があった。


「ふぅ……しかし父上がまさか使者まで寄越してくるなんてね。いや、案外あのフレドリックが父上を唆してその気にさせたのかな?」


 それは若き文官のイニアスであった。彼はここ数日でゴルガの宮城に急速に広まった噂を聞きつけて、自分から街を出る事にしたのであった。


「ディアナ様の負担にはなりたくないしな。……正直名残惜しいけど」


 後にしたゴルガの街を振り返るイニアス。ここで彼が残れば間違いなくディアナは、イニアスを信じて擁護してくれるだろう。だがそれでは他の将兵と溝が出来てしまう可能性がある。


 自分自身の存在があの素晴らしい女性に迷惑を掛ける事に彼は耐えられなかった。それでこうして置き手紙だけ残して出奔する事に決めたのだ。



「さようなら、ディアナ様。短い間でしたが、とても楽しく充実した毎日でしたよ。あなたは必ずやこの州のみならず天下の統一すら成し遂げられるはずです。草葉の陰からあなたの躍進を願っていますよ」


 そして彼は未練を断ち切るようにゴルガの街から視線を外し、後は振り返る事無く夜の街道に消えていった……


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