第七幕 草莽の臣
「……先生! マルセルム先生!」
「ん……?」
通りを歩く2人、いや、バジルに対して声を掛けてくる者があった。溌溂とした感じの若い男性の声であった。
声に振り向くとそこには声の印象通りの、ぱっと見にはディアナと同年代くらいの若者が立っていた。
ゆったりとした旅の商人風の衣装を身に纏っている。顔の造作は整っているようだが、短髪に長めの揉み上げと剽軽な印象を与える笑顔が、彼を今一つ締まりのない三枚目な雰囲気にしていた。
ディアナには全く見覚えのない人物であったが、声を掛けられたバジルはその人物を知っていたらしく、細い目を見開いた。
「お前……まさか、イニアスか? 何故こんな所にいる? お前の家はライトリムにあるはずだろう」
「はは、何年前の話ですか。もうずっと以前にリベリア州に転居したんですよ。しかし憶えていてくださって光栄ですよ」
若者――イニアスが苦笑するとバジルは鼻を鳴らした。
「ふん、お前は中々手間を掛けさせてくれた
「はは! それに関しては僕も同感ですね!」
特に気を悪くするでもなくイニアスは声を上げて笑った。どうやら本心のようだ。自身が敬遠される事も多いバジルにまでこんな事を言わせるとは、そのイニアスの祖父とはどんな人物なのだろうか。
いや、そんな事よりも……
「あ、あのバジル様、こちらの方は……? お知り合いなのですか?」
蚊帳の外に置かれていたディアナが、好奇心から我慢できずに質問する。
「ん? ああ、済まなかったな。こいつはイニアス・タッド・ウィールクス。以前俺がハイランドにいた頃に、帝国の高官だったこいつの祖父に請われて、こいつの家庭教師を引き受けた事があってな」
「か、家庭教師、ですか。バジル様が……?」
アーネストならともかく、人当たりが良いとは言えないバジルが家庭教師をしている姿があまり想像できなかった。バジルもその自覚があるのか顔を顰める。
「……あの頃は官吏になりたてで、とにかく金が必要だったから高額の報酬に釣られてな」
「な、なるほど」
バジルの金に対する執着を考えればありそうな話である。だが今現在こうしてディアナに対して政治経済の講釈をしている事からも、決して教えるのが嫌いという訳ではなさそうだ。
そんな事を考えていると、今度はイニアスの方がこちらの関係が気になったらしい。
「それで、先生。こちらの美人さんは誰なんですか? いやぁ、先生もそういうのに興味なさそうな顔して中々隅に置けませんねぇ!」
片目を瞑ってバジルを肘でつつくような物真似をする。どうやら見た目や雰囲気通りの性格のようだ。バジルが眉を顰める。
「馬鹿、言葉を慎め! こちらはゴルガの街だけでなくこのソンドリア郡全体を治める、【戦乙女】ディアナ公その人だぞ!」
「え、ええっ!? この人、いや、このお方が……!? そうとは知らずに失礼をば!」
イニアスは驚愕に目を見開くと、慌ててその場で両手を合わせて礼を取った。それを見てディアナも慌てて手を振った。
「あ、あの! どうか顔を上げて下さい、イニアス様! 私などバジル様を始めとした優秀な同志の皆さんがいなければ、1人では何も出来ない小娘に過ぎないのですから。それに私も今はバジル様に教えを乞う身。となればあなたは兄弟子という事になりますし、どうぞ普通に接して下さい」
「……! おぉ……何と奥ゆかしい……! 茱教の教えに忠実な奥ゆかしさを保ちながらも、こうして自らが旗揚げされて、下手な男など比べ物にならぬような実績を上げていらっしゃる……。まさにこの世の奇跡を体現されたようなお方だ。素晴らしい……!」
「あ、あの……イニアス様?」
イニアスは顔は上げたものの、どこか熱に浮かれたような、妙にキラキラした眼差しでディアナを見上げてくる。どうやら先日仲間に加わったファウストとは別の意味で軟派な性格のようだ。
ディアナが戸惑っていると、それを見かねたバジルが咳払いする。
「おほん! ……それで、お前は一体何の用で俺達に声を掛けてきたのだ。まさか偶々見かけて挨拶してきただけではあるまい?」
「……! おっと、そうでした。ディアナ様のご威光に当てられて肝心の用件を忘れる所でした」
イニアスは立ち上がると居住まいを正した。そして再び礼の仕草を取った。
「元々は先生に推挙をお願いするつもりでしたが、ディアナ様ご本人がいらっしゃるなら丁度良かったです。……どうか私めをこの国で召し抱えては頂けないでしょうか?」
「ええ!? 私達の国に仕官したいという事ですか!? 一体なぜ? 他にも勢力は沢山あるのに……」
確かにディアナ軍も3県を領有する中規模勢力にはなったが、エヴァンジェリンの国を始めとして同規模の勢力は中原にいくつも出来てきている。特にお隣のフランカ州の州都ヴィエンヌを擁するリクール軍などは最近躍進著しいらしく、アーネストも警戒を高めていた。
敢えてディアナ軍を選ぶからには何らかの理由があるのだろうと思ったのだ。するとイニアスはやや昏い表情となった。
「……私の現在の住まいは、エトルリア郡内のピストイアにあります。そしてご存知のようにピストイアはエヴァンジェリン……ラドクリフ軍の軍門に下りました」
「……!」
それはディアナとしても他人事ではない話だ。彼女は眉を顰めた。
「エヴァンジェリンはどう考えても何の展望も無く、ただ私欲の為だけに徒に中原に戦乱をもたらす暴君です。彼女がこのリベリア州を支配すれば、この州は地獄と化すでしょう。しかしディアナ様はエヴァンジェリンやその配下達と激しく対立していると聞きました。そしてソンドリア郡でのディアナ様の評判なども聞いた上で、エヴァンジェリンを倒してこの州を制するのはディアナ様しかいないと考えて、そのお手伝いをさせて頂きたくこうしてここまで旅をしてきたのです」
「…………」
言っている事自体は不自然ではないとディアナは思った。バジルの知人という事なら身元も信用できるだろう。彼女はそのバジルに判断を仰ぐ。
「バジル様、どうでしょうか? イニアス様の仕官を受け付けても宜しいと思いますか?」
「ふむ……まあ、能力に関しては保証できるぞ。国も大きくなってきたし、俺もヤコブ以外に使える人材が欲しいと思っていた所だ。だがお前、家の事はいいのか? 父親のオーガスタス殿も、お前の教育には随分熱心だったと記憶しているが……」
バジルの質問にやはりイニアスは昏い表情になってかぶりを振った。
「ええ、まあ、そっちはいいんですよ。実は父とは中原の状勢の在り方について意見の対立がありましてね。それで家を飛び出してきたのです。だからまあ……正直行くところがないんです」
イニアスはバツが悪そうな顔で頬を掻く。そして再びディアナに取り縋らんばかりの大仰な仕草を取る。
「なのでお願いです、ディアナ様! 寄る辺ない身を憐れんで頂けるなら、ぜひとも私をこの国に置いて下さいませ! 非才の身ながら粉骨砕身働かせて頂きます故!」
「え、ええと……そ、そうですね。バジル様も保証して下さるなら私の方は問題ないと思います。武官だけでなく文官にも優秀な人材が来て頂けると私も助かりますし」
「おお! ほ、本当でございますか!? ありがたき幸せ!」
イニアスの勢いに少し押されながらもディアナが許可すると、彼はパッと顔を輝かせる。しかしディアナは少し表情を引き締めて釘を刺す。
「ただし! 落ち着いたら必ずお父様と和解なさって下さい。それが仕官を認める条件です。親子の絆は大切です。どんなにそれが欲しくても、もう決して手に入らない人だっているんですから」
「ディアナ……」
彼女の過去や身の上を知っているバジルが若干同情的な様子になる。イニアスは勿論それを知る由も無いが、それでも再びバツの悪そうな表情になって頭を掻いた。
「う……そ、それは……。はぁ……解りました。少し頭を冷やしたら必ず父と再び、今度は冷静に話し合うとお約束しますよ」
「ふふ、約束ですよ? それならあなたの仕官を歓迎致します。宜しくお願いしますね、イニアス様」
ディアナはニッコリと微笑んで、イニアスから臣下の礼を受けた。こうして突然の成り行きで、ディアナ軍に新しく若き文官が加わる事となった。
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