第十三幕 不徳のナゼール
バルディア郡はリベリア州の西側にある郡で、更に西にフランカ州、北にはハイランド州とガルマニア州に接しているという、交通の要衝であり、戦時には激戦区となりやすい地域でもあった。
トレヴォリ県はそのバルディア郡の中では南寄りにある県で、ハイランドやガルマニアには接していないが、西はフランカ州と境を接しており、何よりこのリベリア州の州都エトルリアが東側に隣接していた。
ヤコブはそのトレヴォリの街で官吏として働いているらしかった。元々は『トレヴォリの毒花』という凄い異名の、帝国では珍しい女性官吏が太守を裏から操って私腹を肥やしていたらしい。
しかしその女性官吏はこの街の富を狙っていた商人の詐欺師とトラブルを起こした挙げ句、旅の浪人に引き抜かれて逃げるようにトレヴォリを出奔してしまい、その後任としてヤコブはトレヴォリに招聘されたのだという。
「ああ、それなのにこんな事になろうとは……。太守のドメニコ様は狭量なお方ですし、こんな借金を抱え込んだなどと知られては即座に馘になってしまう。妻と娘もいるのに、この先どうやって生きていけば……」
トレヴォリへの途上でヤコブは何度も同じような泣き言を漏らしていた。どうやらかなり悲観的な性格のようだ。どうやらナゼール達シャルロワ商会に家族が『招待』されているらしく、もし返せなかったり夜逃げした場合、家族に代わりに
「だ、大丈夫ですよ、ヤコブ様。事が私達の敵にも関わっている以上、この件は絶対に解決して奴等の企みを暴いてみせますから」
そしてディアナもその都度律儀にヤコブを慰める役に回っていた。バジルはとっくに、というか最初からヤコブの泣き言を黙殺して、今回の計画のシミュレーションに没頭していた。
トレヴォリにはディアナ達3人の他、護衛として20人ほどの兵士達が同行していた。今回の作戦にあたってヘクトールやシュテファンによって選りすぐられた精鋭の兵士達だ。
作戦の重要性は理解しつつもゴルガを手薄には出来ない事や、他にもいくつか理由がありゴルガに残ったシュテファン達に替わって、何かあれば命がけでディアナを守る事を最優先としている。
これ以上の人数になると一つの部隊として見られるようになり、周辺勢力の注意や警戒を呼んでしまうので、そのギリギリのラインが20人という数であった。
やがて旅を終えてトレヴォリの街へと到達した一行。この時代、戦時とはいっても基本的には同じ帝国内での諸侯同士の勢力争いという扱いなので、各街や関所などでもそこまで厳格な検問が敷かれている訳ではない。
厳しい検問を敷いてしまうと、それを厭うた行商人などがその街や県での商売を敬遠して、その噂が広まり結果として経済が停滞してしまうというデメリットもある。
各街や諸侯と取引のある商会などは通行証や許可証を持っており、それを見せるだけで後はほぼノーチェックで通されるというケースも珍しくない。
今回はゴルガに拠点を置く商会の一つから、この通称許可証を
トレヴォリの街に着いた一行は、ヤコブの案内の元、旅の埃を落とすのも程々に早速件のシャルロワ商会へと赴いた。
商会の本部は、街の一等地ではなくスラム街にもほど近い怪しげな場所に目立たないようにひっそりと建っていた。表で商売できない裏稼業の高利貸に相応しい立地ではあった。
門番にヤコブが名前と用件を告げると、そう待たされる事もなく屋敷の中へと通された。ディアナ、バジル、ヤコブに護衛の兵士が2人の計5人で屋敷へと入る。
通された応接室でしばらく待っていると、やがて扉が開いて1人の高価そうな服を着た痩身の男が、何人かの武装した男達を引き連れて入ってきた。この男が高利貸のナゼールで間違いないだろう。職業柄かかなり荒んだ鋭い目付きの男で、年の頃は40前後でヤコブと同年代くらいに見える。外見や名前からしてもフランカ人だ。引き連れているのは用心棒のようだ。
「リンドホルムさん、あなたも懲りない人だねぇ。何度来たって同じだよ。あの証文は
ナゼールは口調だけは穏やかだが、有無を言わせぬような言葉の内容で恫喝してくる。ヤコブは一瞬怯みそうになるが、ここに来た目的と同行者の存在を思い出して精一杯の虚勢を張る。
「ふん! 今日は友人のバジルを通して新進気鋭のゴルガ伯ディアナ様にご足労頂いているんだ。今までのようには行かんぞ?」
「何……!?」
ヤコブが出したディアナの名前に明らかに反応するナゼール。改めて彼女の方を値踏みするような目で観察してくる。
「ほぅ……あなたが?
ナゼールが自分の顎を撫でながら目を細める。深く興味を惹かれた様子であった。ディアナは内心で
「お初お目にかかります、シャルロワ様。ゴルガ伯のディアナ・レア・アールベックと申します。本日はヤコブ様に要請されてこの場にお伺いしました」
「ふむ……折角はるばるトレヴォリまでご足労頂きましたが、残念ながら例え出てきたのが高祖アーサーであっても同じです。これは証文付きの正式な契約。誰に言われても絶対に破棄はしませんぞ?」
ナゼールが先手を打って釘を差してきた。因みに高祖アーサーというのは、古の七国戦乱時代を制して中原を統一し、このオウマ帝国を建国した人物である。帝国の初代皇帝でもあり、『偉大なる』アーサーとも呼ばれる。
ナゼールの牽制にディアナではなくバジルが答えた。
「ふん、別にそんな事は望んでおらん。こっちはとりあえずその証文を確認させてもらいたいだけだ。俺はヤコブの友人で筆跡も知っているからな」
「なるほど、そういう事であれば別に構いません。ただし監視は付けさせて頂きますぞ? 破り捨てられては敵いませんからな」
ナゼールは不審を抱く事なく頷く。ヤコブの友人でその筆跡も知っているというバジルに対して自信満々な様子だ。バジルが若干挑戦的な目付きで鼻を鳴らす。
「ふん、好きにしろ」
「では…………リカルドッ!」
ナゼールが大声で手を叩いて合図する。すると即座に応接室の扉が開いた。どうやら扉のすぐ近くに待機していたらしい。
「はいはい、お呼びですかい、旦那?」
「……!!」
現れたのは背が高く浅黒い肌をしたイスパーダ人の男であった。30歳前後くらいの若い男であるが、顎にまで達しそうな長い揉み上げが特徴的だ。どことなく飄々とした雰囲気で、こちらの事を面白そうな目で眺めてくる。
だがその男を一目見たディアナは目線を鋭くする。自然と身体が緊張して呼吸が浅くなる。
(こいつ……強い!)
ディアナもベカルタ流の免許皆伝を受け、そして今まで幾多の強敵との実戦を経て、ある程度ではあるが相手の雰囲気や立ち振舞いを見ただけでその実力というものが類推できるようになっていた。
そんな彼女の第六感とでも言うべきものが、その男――リカルドの姿を見て盛んに警鐘を鳴らしていた。
もしかすると今までに剣を交えた次元の違う強者……即ちヘクトールやゾッド、それにウルゴルといった超級の武人達の強さにも匹敵するかも知れない。それがリカルドを一目見たディアナの感想であった。
こんな凄まじい武人がよもや高利貸の一味にいたとは想定外であった。今回の作戦の難易度は、彼女が想像していたよりも遥かに高いかも知れない。そんな予感を抱いた。
「話は外で聞いていたな? 彼等がヤコブの証文を改めたいそうだ。ここに持ってこい。そして確認の間良からぬ事をしないようにお前が監視しておけ」
ナゼールの指示にリカルドは肩を竦めた。
「へぇ、そりゃ遠路はるばるご苦労なこった。じゃあすぐに取ってきますよ」
リカルドは踵を返してすぐに部屋を出ていく。その歩く姿にも全く隙らしい隙が見当たらない。
「……ナゼール様。今の者は? かなり使うようですが」
少しでも相手の情報を仕入れておきたいディアナが、本人がいない間にナゼールに質問する。
「ほう、解りますか? あれは私の個人的な用心棒ですよ。イスパーダ州では名うての傭兵でしたが、私が破格の報酬で雇い入れたのです。何せこのような商売をしていると色々と物騒ですからな。身辺警護には金を惜しまない方針なのです」
「…………」
やはりナゼールが個人的に雇っているようだ。しかし金で雇われているだけなら、条件によっては揺さぶりを掛けられるのではないか。そんな気もした。
話をしている間に再び足音が近付いてきた。リカルドが戻ってきたのだ。
「やあ、お待ち遠様。これがご所望の証文ですよ。どうぞ好きに改めて下さいってね。ま、無駄だとは思いますがね」
「ふむ……」
リカルドが差し出した証文を受け取るバジル。証文自体は帝国で良く出回っている種類の竹簡のようだ。そこには何の不審もない。
バジルは真剣な目で証文の文字を追っていく。少しでも不自然な点があればそれを追求するつもりだ。ディアナも、そして勿論ヤコブも固唾を呑んでバジルの様子を見守る。
やがて証文を改め終わったバジルが深いため息を吐いた。そして竹簡をリカルドに返す。
「……俺の目から見てもこれは完璧にお前の筆跡だな、ヤコブ。この証文には何ら不審な点は見当たらないようだ」
「そ、そんな!? 本当に俺はこんな証文書いてないんだ! 信じてくれよ、バジル!」
「うるさい! こんな事で俺だけでなくディアナ殿の時間まで無駄に使わせおって。いや、時間だけでなく金の無駄でもある。俺達や兵士達の宿代だけでも馬鹿にならんのだぞ! それもお前の借金に加えるか!?」
「うぅ……」
頼みの綱?だったバジルのすげない態度にヤコブは目を剥いて抗議するが、バジルの一喝に黙らされて小さく唸る。
するとそのやり取りを聞いていたナゼールが目を細める。
「ほぅ……それは難儀でしたな。つまらない用事でご足労をお掛けしたお詫びに、今夜はこの街で宿をお取り下さい。宿代の方は私共で都合させて頂きますので」
「え? でも……宜しいのですか?」
ディアナが驚いて尋ねると、ナゼールは薄笑いを浮かべて頷いた。
「勿論ですとも。私は必要な
「なるほど、そういう事であれば……。では今晩はお世話になります」
確かに理由としては不自然ではない。しかし彼が宿代を払ってでも、今夜ディアナをこの街に留めおきたい
しかしディアナは勿論そんな内心はおくびにも出さずに、ナゼールの
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