第八幕 謀略の城塞(Ⅲ) ~飛将軍ユリアン

 チリアーノの城の地下牢。薄暗い牢に放り込まれたディアナは、監視の兵士が付けられた状態で、何もする気力がなくただ床に座り込んで放心していた。


(何故……こんな事に……)


 今彼女の心を支配しているのは、ただひたすらに激しい後悔と自己嫌悪のみであった。これでもう何もかも終わりだ。


 まんまと罠に嵌った愚かな自分を助ける者などいない。安全な場所から自分の意志で脱走して、その結果がこの体たらくである。流石のアーネストも義兄も、彼女がまさかチリアーノの街で囚われの身になっている事など予測できるはずがない。


 自分はこのまま助けもなく敵の一味に引き渡されて、そこで処刑されるのだ。あのフレドリックがやろうとしたように、切り刻まれて生首となってゴルガに帰還する事になるのか。


「く……ふ……」


 涙がこみ上げてきた。全てはこれから始まろうとしていたというのに、こんな理不尽な罠に嵌められて全てが終わろうとしている。死の恐怖は勿論だが、ディアナは何よりもその事が悲しくて悔しくて涙していた。



「……!」


 どれくらいそうしていただろうか。泣き疲れたディアナがウトウトと浅い眠りに入ろうとした時、地下牢の階段を降りてくる足音が聞こえた。一瞬で眠気が覚めて緊張に身を固くするディアナ。


 陰鬱な地下牢に姿を現したのは……


「ふ……気分はどうだ? 愚かな娘よ」

「……っ」


 こちらを嘲るような調子で問い掛けるのは、彼女を罠に嵌めた下手人たるクリストフであった。一切悪びれている様子のない彼の姿に、ディアナは目を吊り上げて牢の格子に取り縋る。


「あ、あなたは……何故! 何故こんな事を……!!」



「覚えておけ。今は乱世だ。騙し騙され……生き馬の目を抜く世の中なのだ。泣き言は通用せん。愚かである事の代償は自らの命だけでなく、お前に夢を賭けた者達の未来も摘むと知れ」



「……っ!!」

 反論できずにディアナは呻く。確かに彼の言うとおりだ。今は戦乱の世なのだ。自分を守れるのは自分だけだ。


 しかも彼女は自分一人の身ではない。ゴルガ伯として旗揚げし、シュテファンやアーネストら大勢の将兵の夢や生活も預かる身なのだ。クリストフの言う通り、自分が愚かであった事で彼等も巻き込んでしまうのだ。


 青ざめた表情で俯くディアナ。


「ふ……」


 そんな彼女を冷たい目で見下ろしたクリストフは、小さく笑うと自然な動作で牢の格子の傍まで歩み寄ってきた。そして監視の兵が目を逸らした一瞬の隙を見計らって屈み込むと、スッとディアナの服の袖に何かを差し入れた。


 それは小さな羊皮紙の切れ端のようだった。


(え…………?)


 ディアナが戸惑って見上げた時には既に彼は立ち上がって、何事もなかったように冷たい目に戻っていた。


「ゾラン殿によると件の『弟君』は、早くも明日にはこの城に来られるようだ。精々心構え・・・をしておくのだな」


「……!」


 心構えという部分を妙に強調するクリストフの言い方に、ディアナは僅かに目を瞠った。


 それだけを告げるとクリストフは、そのまま地下牢から立ち去っていってしまった。後には監視の兵を除けばディアナのみがその場に残された。


「…………」


 しかし彼女の目はクリストフが来る前と比べて絶望の感情が薄れていた。彼女は袖の中の紙片が気になっていた。


 監視の目を盗んで袖から紙片を取り出す。そこには短い一文のみが書かれていた。




『何事にも常に全力で臨むべし』




「――――」


 ディアナの目が今度こそ大きく見開かれた。そして彼女は紙片をギュッと握り締めると深く深呼吸をした。


 息を吐き出した彼女の顔は完全にいつも通り……いや、普段にも増して強い決意を秘めた表情へと変わっていたのだった。




*****




 そして翌日。地下牢から引き出されたディアナは、後ろ手に拘束されてゾランの前まで引っ立てられる。


 場所は宮城の太守の私室……ではなく、何故か街の城壁外に設営された大きな天幕の前であった。どうやらその件の『弟君』を出迎える為らしいが、つまりその人物は堂々とこのチリアーノの街に入れない立場の人間という事か。


「んっふっふ……おはよう、ディアナちゃん。昨夜はよく眠れたかい?」


「…………」


 縛られて自分の前にひざまずかされているディアナを見下ろして、ゾランがその醜い腹を揺すって問い掛ける。眠れている訳がないのを知っていての嬲るような質問に、ディアナはただ無言で睨み返す事で答える。


「ぬふふ……いいねぇ、その気の強そうな目! 本当に僕の物に出来ない事が勿体ないよ! でもどうやら多少気力が戻ったようだけど、それは却ってこの後辛くなるだけかもねぇ?」


 ディアナの様子を見て満足げな笑みを浮かべるゾラン。と、そこにゾランの私兵が近寄ってきて、彼に耳打ちした。するとゾランは盛大に溜息を吐いた。


「ふぅ……どうやら、本当に君に興味があるみたいだね。予定より早く『弟君』が到着したみたいだ」


「……!」

 それを聞いたディアナは緊張を強める。そして程なくしてディアナ達のいる天幕に向かって1騎の騎馬が駆け向かってきた。かなりのスピードだ。やがてその騎馬は陣の前で停まると、騎乗していた人物が軽やかな動作で馬を降りる。



 ゾランが馬を降りてこちらに歩いてくるその人物に向かって礼を取った。


「これは、ユリアン様。随分とお早いお着きで」


「ふ……噂のゴルガ伯を間近で見れる機会とあっては逸るのも致し方なかろう」


 その人物――ユリアンは、若干の皮肉を込めたゾランの言葉にも何ら悪びれる事なく傲然とした態度で応じる。どうやらかなり唯我独尊な性格のようだ。


(これが……例の『あのお方』とやらの弟?)


 ディアナはこちらに近付いてくる男の姿を観察した。年齢は思ったよりも若い。流石にディアナよりは上だが、それでもまだ20代前半ほどに見える。黒っぽい長髪を頭の上で束ねており、その容姿はかなり整った物だった。


 だが言動に違わず傲慢で横柄そうな雰囲気と、こちらを品定めするような冷たい目がその容貌を台無しにしていた。



 ユリアンは真っ直ぐディアナの元に歩み寄ってくると、その顎に手を掛けて強引に自分の方に上げさせた。その乱暴で無遠慮な扱いにディアナは唇を噛み締めてユリアンを睨み付ける。


 彼女の視線を受けたユリアンの目が少し見開かれる。



「ほぅ……随分と気が強そうだな。だが噂に違わぬ美貌だ。これは確かに姉上・・が嫉妬するのも頷けるという物」



「……!」

(姉上……? 今、姉上って言ったの? 『あのお方』というのは女……!?)


 思わぬ形で敵の情報の一部を知る事が出来たディアナ。だが増々謎は深まるばかりだ。ユリアンがディアナの内心など知らぬげに彼女を見下ろす。


「く、く……気に入ったぞ、ゴルガ伯ディアナよ。いや、これからはただのディアナに戻るのだ。お前は俺の所有物になるのだからな」


 嗤うユリアンの手がディアナの顔を撫で回す。嫌悪と屈辱から顔を顰めるディアナだが、ユリアンの手は執拗に顔の上を這い回る。我慢の限界に達したディアナは……



 ――ガリッ!



「……っ!」


 ユリアンの指に噛み付いた。ユリアンが少し眉を顰めて流石に手を離す。そのまま激昂してくるかと思いきや、何故か増々興味深そうな笑みを浮かべるユリアン。


「くっく……なるほど。確かにそこらの町娘とは気概からして異なるようだ。まあ自分で旗揚げしようなどという女だ。それも当然の事か。増々気に入った。どれ、少し調教・・してやるとするか」


「……!!」


 ユリアンの手が伸びてくる。調教という言葉からしても、先程とは違って何か暴力的な行為をするつもりだろう。ディアナが思わず身を固くして緊張するが、その時……



「……ゾラン殿」


 静かな声と共にクリストフが現れる。正確には後ろの天幕内にいたらしく、そこから出てきただけではあったが。


「ん? ああ、君か。お目通りさせる約束だったね。ユリアン様、お取り込み中の所申し訳ありません。こちらが今回の計略を立案して見事ディアナを捕らえたクリストフです」


 ゾランがクリストフを紹介する。彼は慇懃に一礼した。


「クリストフ・ヨハン・ダ・コスタでございます。お会いできて光栄にございます、ユリアン様」


「ほぅ、お前の計略だったのか。でかしたぞ。望みの褒美を取らせよう」


 ユリアンがディアナに伸ばした手を止めてクリストフに向き直る。クリストフは増々深く頭を下げる。



「は……ありがたきお言葉。私の望み。それは…………貴様らを捕らえる事だ!」



「何……!?」

 ゾランがその細い目を見開く。顔を上げたクリストフが合図をすると、天幕の裏や近くの木々や岩陰に隠れ潜んでいた武装した兵士達がなだれ込んできた。全部で10人以上はいる。武装は統一されておらず、恐らくクリストフが金で雇った傭兵達だ。 


 それを見て取ったゾランが細目を吊り上げた。


「き、貴様ぁぁっ!! 謀ったなぁ!?」


「ふ……最初からディアナ殿こそが我が主よ。さあ、大人しく投降しろ。衛兵もすぐには駆け付けてこれん。『あのお方』とやらの情報、洗いざらい喋ってもらおうか」


「……!」


 クリストフに一杯食わされた事を悟ったゾランが、その肥え太った身体をワナワナと震わせる。だがユリアンの方は全く余裕を崩す事無く進み出て剣を抜いた。


「ふん、小賢しい真似をしてくれる。こんな雑兵共で俺をどうにか出来ると思っているのか?」


「……! 手向かう気か? 構わん! 捕えるのはゾランだけでいい。ユリアンは斬り捨てよ!」


 ユリアンが抵抗の意思を見せた事で警戒したクリストフが指示する。雇い主の命令に従って、10人以上はいる傭兵達が一斉にユリアンに斬り掛かる。捕縛は考慮せずに完全に殺すつもりの動きだ。


 ユリアンもまた躊躇う事無く、傭兵達に向かって自分から突進していく。


「っ!?」


 その恐ろしい程の踏み込みの速さに、先頭にいた傭兵がギョッとして瞠目する。ユリアンはその隙を逃さずその傭兵を一刀の元に斬り伏せる。その斬撃の鋭さも並大抵ではない。明らかにただ傲岸不遜なだけの若者ではない。極めて優れた鍛え抜かれた剣士だ。


 そしてその事に傭兵達が気付いた時はもう手遅れであった。 


 まるで一陣の風のように傭兵達の間を駆け抜けたユリアンは、鋭くそして正確無比な一撃で、一刀振るう毎に着実に傭兵達の命を奪っていく。彼等も勿論反撃に剣や槍を繰り出すのだが、悉く回避されてその全ては空を切った。


 そして数分後には全ての10人以上いたはずの傭兵達が全て斬り伏せられ、血に濡れた剣を垂らしたユリアンのみが佇んでいた。



「……なんと!?」


 その光景を見たクリストフが信じられないといった風に呻く。彼が雇った傭兵達は決して雑兵という訳ではなかった。それなりに腕に覚えがある者達であた。それが10人以上いて、時間にして5分足らずで全滅したのだ。ユリアン1人の手によって。


 これは流石にクリストフが如何に優れた軍師であろうと予測できるはずもなかった。



「ふ……さあ、雑魚共は片付けたぞ。次は貴様の番だ。覚悟は出来ていような?」


 ユリアンが血染めの剣の切っ先をクリストフに向ける。軍師肌である彼には当然抗う術はない。万事休すかと思われたが……


「クリストフ様に手出しはさせない。お前の相手は私だ!」


「む……?」


 その間に立ち塞がった者がいた。それはいつの間にか拘束を解かれて剣も構えた臨戦態勢のディアナであった! 

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