第七幕 遊惰の奸臣ゾラン
月明かりのみが照らす夜。ゴルガの街から伸びる街道を2騎の騎馬が疾走していた。1騎は理知的な雰囲気の軍師風の男性、クリストフ・ヨハン・ダ・コスタ。そしてもう1騎は当のゴルガの街の君主で、現在は宮城に軟禁状態に置かれていたはずの少女君主、ディアナ・レア・アールベックであった。
ディアナはクリストフに言われた通り、いつもの愛用の鎧姿に着替え剣も履いて万全の状態だ。またクリストフ自身も意外に巧みに軍馬を乗りこなして、ディアナと遜色ない速度で馬を走らせている。
「だ、大丈夫でしょうか、こんな事してしまって。今頃宮城は大騒ぎになっているのでは……?」
馬を駆けながらもディアナは後ろ髪を引かれる思いでゴルガの方を振り返る。クリストフの手配によって、誰にも見つからずに城を抜け出す事に成功したディアナだが、徒に騒ぎを引き起こす事が目的ではない。一応自らの意思で抜け出した旨を伝える書き置きは残してあるが、君主が突然行方不明になった事実は変わらない。
「そのご心配は尤もです。しかし小事を気にしていては大事は為せません。何事もなるようになるものです。他に選択肢は無かったのですから致し方ない事かと」
クリストフが事も無げに肩をすくめる。彼の言う通り、あのままではずっと『あのお方』とやらの尻尾が掴めずに、延々と軟禁状態が続いていた可能性が高いのだ。ならばどのみちこうするしかなかった。ディアナはそう自らを納得させて頷いた。
「そう……ですね。ではせめて急ぎましょう!」
ディアナは決心して、馬の速度を更に上げる。クリストフもそれに倣って追従していく。そのまま2騎の騎馬は、闇夜の街道を遥か南に向かって下っていった……
*****
エトルリア郡は同名の州都エトルリアを含む全部で4つの都市(県)で構成される、リベリア州で最も大きな郡だ。
その中の一つ、チリアーノ県に2人は来ていた。今ディアナ達はチリアーノの街に入り、夜を待ってから宮城を見張れる位置にある建物の陰に潜伏していた。
「さて……何回か言ったようにこの街の太守ゾランが、私が『あのお方』の一味だと睨んでいる人物になります」
クリストフの言葉にディアナも緊張しながら頷いた。
「フレドリックのような豪商だけじゃなく、まさか太守まで抱き込んでいるなんて……。一体『あのお方』というのはどんな人物なんでしょうか?」
間違いなく相当に影響力のある人物だ。そんな人物に疎まれ抹殺命令まで下される理由が一切分からない。
「それをこれから調べるんですよ。いえ、というよりゾランから聞き出すのです」
クリストフはそう言うと懐から何かを取り出した。掌に握れるサイズの小さな陶瓶だ。栓によって蓋がされている。彼はそれをディアナに差し出してきた。
「どうぞ。これを飲んで下さい」
「それは?」
「ご安心下さい、毒ではなく薬です。この作戦を成功させるにあたって必要な物です。これがあればすぐにゾランの元まで到達できます」
よく分からないが彼が自信を持って勧めてくるので、とりあえず受け取って栓を開ける。中には液体が入っているようだが何の臭いもしなかった。
「分かりました。これを飲めばいいんですね?」
ディアナが確認するとクリストフは何も言わずに首肯だけした。ここまで来たら彼を信じるしか無い。ディアナは思い切って小瓶の中身を一気に呷った。口の中に若干の苦味が広がったが、量は大した事は無かったのですぐに飲みこめた。
「……飲みましたけど、これでどうするんですか?」
「何、問題ありません。すぐに
「え…………っ!?」
ディアナは一瞬何を言われたのか分からずに目を瞬かせる。だが直後に異変を感じて愕然とした。
身体が痺れて、同時に急激に意識が遠のき始めたのだ!
「……っ。こ、これは……!? クリストフ様……!」
「言ったでしょう? 毒ではなく薬だと。……
「っ!!」
一切悪びれる事なく、それどころかどことなく冷たい雰囲気を湛えながら、必死に眠気に抗うディアナを見下ろすクリストフ。
「くっ……な、何故…………」
まんまと一服盛られたディアナは、強烈な薬の作用に抗う事が出来ずに、抵抗虚しくその場に倒れ伏して意識を失ってしまう。
「…………」
そしてクリストフは、そんな彼女をやはり冷徹な視線で見据え続けているのだった……
*****
「……っ。ぅ…………はっ!?」
強制的で不快な眠りから覚めたディアナは、反射的に飛び起きようとしてそれが出来ない事に気づいた。
両手両足を縛られていた。そして床に芋虫のように転がされていたのだ。それはまるであのフレドリックの館で囚われていた時の再現のようであった。
(こ、ここは……!?)
焦ったディアナは慌てて周囲を見渡す。かなり広くて調度品も豪華な部屋であった。誰かの寝室らしく、すぐ近くに大きな天蓋付きの寝台が据え付けられている。当然ながら全く見覚えのない景色だ。
と、ディアナが飛び起きようとした時に物音を立ててしまったので、それで彼女が目を覚ました事が気づかれたのか、ドスドスという足音と共に誰かが部屋に入ってきた。
「おやおや、目が覚めたのかい? ふふふ……そんなに怯えちゃって、可愛いなぁ!」
「……っ!」
入ってきたのは足音に見合うだけの体格の男性であった。といっても体格が良いという訳ではない。一言で言うと……非常な肥満体型の男だったのだ。
身長はそこまで大きくないにも関わらず、その腹部はディアナを一人分丸ごと詰め込めそうな容積があり、でっぷりとだらしなく緩んで突き出ていた。
そしてその顔も元の輪郭が分からなくなるくらいに弛んで、その目は細く一見柔和そうだが、それはただ単に顔の肉が弛んでそのように見えているだけだろう。
高価そうな服を着込んでいるが腹のあたりが大分キツそうで、全く様になっていなかった。
そんな不気味な肥満男がその醜い顔を下品な喜悦に歪めながら、縛られているディアナに近付いてきたのだ。思わず身を固くするディアナ。
「あ、あなた……誰!? ここはどこなの!?」
「ぬふふ……誰かって? 僕に会いたかったんでしょ? 嬉しいなぁ、こんな可愛い子に自分から会いに来てもらえるなんて!」
「……っ!?」
肥満男が更に顔をだらしなく歪めながら笑うのを、ディアナは愕然として見上げた。彼女がこれから会おうとしていた人物。そしてこの豪華な部屋。彼女の中で急速に嫌な予感が膨れ上がっていく。
「ま、まさか、あなたが……?」
「そう! 僕がこのチリアーノ太守のゾラン・パコ・ナダルだよ。ぬふふ……宜しくね、ディアナちゃん?」
彼女の名前を知っている事からも、間違いなくこのゾランは『あのお方』とやらの一味のようだ。だがそれが確信できた所でこの状況では無意味だ。
ゾランが屈み込んでディアナの顎を掴み上げる。
「……っ」
「んんー……! この若さ、可憐さ……素晴らしいね! なるほど、これは『あのお方』が
「くっ……は、離して……! わ、私、なんで……?」
顎を振ってゾランの手から逃れようとしながら、ディアナは何故自分がこんな目に遭っているのか改めて疑問が湧いた。
「んふふ……不思議かい、自分の置かれた境遇が? ではそろそろ種明かしといこうかな!」
ゾランがディアナの混乱を見て取ったように笑みを深くすると、彼女の顎から手を離して立ち上がった。そして何かを合図するように手を叩く。すると……
「お呼びですかな、ゾラン殿」
「え…………?」
静かに入ってきた人物の姿を見て、ディアナの目がこれ以上無いというくらいに見開かれる。
「ク、クリストフ……様?」
そう。それはアーネストの同門という事でゴルガに現れ、彼女をここまで導いてきた人物、クリストフその人であった。
しかし彼はまるで招かれるように部屋に入ってきて、当のゾランとも全く敵対している様子がない。それどころかゾランが親しげにクリストフに語りかける。
「ぬふふ……やあ、クリストフ。君のお陰でこうして労せずして目当ての物が手に入ったよ。あれだけ自信満々に豪語していただけはあるね」
ゾランの台詞は明らかにクリストフがディアナに出会う前からの
「お褒めに与り恐縮です。
「ほ……報酬? 約束って……」
それでもまだクリストフの裏切りを信じられないディアナは、何かに縋るような目で彼を見上げる。しかしクリストフの表情は何ら悪びれる事なく、むしろディアナの事を嘲笑するように歪められた。
彼女の様子を見たゾランが哄笑する。
「ははは! まだ解らないのかい!? 君は嵌められたんだよ! 最初から僕の掌の上で踊っていたのさ!」
「……っ! そ、そんな……嘘ですよね? 嘘だと言って下さい、クリストフ様っ!!」
だがディアナの必死の懇願にも、やはりクリストフの表情は露ほども動く事はなかった。
「ふ……簡単に人を信じ過ぎだ。これではこの戦乱の世を渡っていく事は到底出来まい」
「――――っ!!!」
ディアナは大きく身体を震わせて硬直する。信じられなかった。信じたくなかった。クリストフの裏切りは勿論だが、何よりも自分がここまで愚かだという事を信じたくなかったのだ。
(う、嘘よ……こんなの。もう、何を信じれば……)
まんまと罠に嵌って誘い出され、そしてこうして再び囚われの身に堕ちてしまった。彼女は最早何も考えられなくなってしい、自分の殻に閉じこもってしまった。
「……して、この娘、どうなさるおつもりですか?」
クリストフがそんな彼女から目を逸らしてゾランに確認する。ゾランはその弛んだ顔を少し顰めて顎を撫でた。
「うーん……。本来だったら僕の好きにしちゃいたいんだけどねぇ……。どうやら『あのお方』の
「ほぅ……弟君ですか」
クリストフの目が少し鋭くなる。しかしゾランはそれには気づかず溜息を吐いて頷く。
「ああ。『あのお方』は弟君を
ゾランが呆然自失状態のディアナを見下ろす。
「なので弟君が来るまでの間は、とりあえず牢に入れておくしかないかな」
「そういう事なら監視を付けておいた方が宜しいかと。絶望の余り自殺などされては事ですからな」
クリストフの進言にゾランはその細い目を少し見開いた。
「なるほど……そう言われてみれば確かにその可能性はあるね。じゃあ監視の兵は付けておくとしよう。……しかしこうして見事にディアナを捕らえてくれたのもそうだけど、君は中々使えるね。どうだい? 勿論報酬は払うけど、今後も僕の部下として働く気はないかい?」
「ほぅ……それは興味深いお誘い。是非にもお願い致す。もし宜しければその件の弟君にもお目通り頂きたく存じますな」
「名前と顔を売っておきたいって訳かい? ふふふ……君も抜け目がないねぇ」
縛られたディアナの前で、腹黒い男2人が欲望に塗れた密約を交わしていた。ディアナはどこか遠い景色のように無感情な目で、その光景を見上げているのだった……
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