第二幕 シュテファン・ヨセフ・リンドグレン

「ふぅ……まずお義母様の許しは得られたわね。次は……兄上ね」


 義母に見送られてアルヘイムの街までやってきたディアナは、街中にある茶屋で一息ついて心を落ち着けてから、意を決して立ち上がった。


 義母には威勢のいい事を言っていたが、彼女の心臓は現在、緊張によって早鐘のように高鳴っていた。


 ディアナの脳裏に、優しくも厳しい義兄の姿が浮かび上がる。また義兄は極めて優秀な人物だが、反面冗談を嫌う非常に現実的な性格でもあった。それを誰よりも知っているからこそ、余計に緊張を強いられていた。


 戦乱の世を終わらせるなどという大それた夢が大言壮語である事は、義母に指摘されるまでもなく彼女自身が自覚していた。


 実はディアナがまだ17歳という若さで免許皆伝を成し遂げられたのは、勿論本人の不断の努力もさる事ながら、何よりもこの義兄の助力があったからこそという面が大きい。


 旅に出る条件として免許皆伝を目指しているという動機を隠して、自分の身は自分で守れるようになりたいから、と尤もらしい理由を偽って、義兄から剣術の手解きを受けていたのだ。それが免許皆伝の時期を早めたのは間違いのない事実だ。


 他にも天真爛漫を偽って・・・、さも義兄の屋敷で見つけた軍略の書物に興味を持った風を装って・・・、兵術や軍略に関しても義兄に教えを乞うた。義兄も人に教えるのは嫌いではないらしく、何だかんだ難しい顔をしながらもディアナの軍略の『師』となってくれた。


 それらが全て戦乱の世を終わらせるという大言壮語・・・・の為のものであり、動機に関して義兄を騙していたという事を彼が知ったら……



「……っ!」


 思わずこのまま回れ右して街から逃げ出したい気持ちが極限まで高まる。だが……


(兄上を……説得・・してみせる! 私には兄上が必要・・なの!)


 勿論彼女とてそこまで世間知らずではないつもりだ。自分1人で出来る事など限られているというのは解っている。それが壮大な夢となれば尚更だ。


 仲間・・が必要だった。いや、同志・・と言い換えてもいい。そして彼女の義兄は身内という贔屓目を差し引いても、能力面で申し分ない存在であった。更に元々義兄という事で気心も知れている。


 最初の同志・・・・・とするに、これ以上の条件の武将・・は存在しないと言っても過言ではないだろう。


 また義母に言われた通り、これから戦乱の世を収めるという苦難を前にして、気心の知れた義兄一人説得できなくてどうするという思いもあった。


 それらの思いに後押しされて、ディアナは自らの弱気を賦活して義兄の屋敷へと歩を進めていった。



*****



 そして兄の屋敷の前までやってきたディアナ。何度も訪れている場所だが、今日ほど緊張しながら訪れた事はない。


 因みに義兄はこのアルヘイムを治める太守に仕えるれっきとした武将であった。優秀な武官として軍を束ねる役割もあり、また戦がない時は兵の調練を行ったり、衛兵隊を率いて治安維持活動に従事している事もある。色々と多忙なのだ。


 もし屋敷にいなければそれらの仕事で不在という事だ。居ない者には会いようがない。その時は日を改めよう。ディアナはそうやって問題を先送りにする逃げ道を作った上で、義兄の屋敷を訪問した。


 しかしこの日はたまたま・・・・非番の日であったらしく、日中から屋敷に在宅しているとの事であった。


 これで退路は完全に絶たれた。事ここに至ってディアナは覚悟を決めた。応対した使用人に屋敷に通された彼女は応接室の椅子に腰掛けながら、先日の免許皆伝の試験など比較にならない程の緊張を感じつつ、まんじりともせずにその時・・・を待った。そして……



「――待たせたな、レア」

「……!」


 部屋の扉を開ける音と共に、厳めしい感じの男性の声が聞こえてきた。入ってきたのはやや線が細めながら鍛え抜かれた体躯と鋭い目付きを持つ、威風堂々たる雰囲気の若い男性であった。黒味がかった長髪を撫でつけて後ろで束ねている。


 常日頃より常在戦場の精神によって、例え平時の自宅内であっても研ぎ澄まされた闘気のような物が身体から漏れ出ているようにディアナは感じた。


 彼女の歳の離れた義兄にして、辺境の小都市アルヘイムにあって未だ負け知らずと名高い【常勝将軍】シュテファン・ヨセフ・リンドグレンその人であった。


 ディアナの喉が無意識にゴクッと鳴る。



「ヨ、ヨセフ兄上……。ご、ご無沙汰しています」


 知らずに声が若干上擦る。因みに帝国では身内や義兄弟同士であれば、より親しみを込めて相手をミドルネームで呼ぶ慣習があった。というより身内以外がミドルネームで相手を呼ぶのは失礼とされている。


「ここ最近は何かと忙しくて会えなかったからな。聞いたぞ? ベカルタ流の免許皆伝を受けたそうだな? その若さで大したものだ。私も義兄として鼻が高い」


 ディアナの対面に腰掛けながらシュテファンはフッと厳めしい表情を緩ませる。ディアナの免許皆伝を心から喜んでくれているようだ。それだけに罪悪感が刺激される。


「あ、ありがとうございます、兄上。兄上の薫陶のお陰です」


「謙遜するな。お前が努力した結果だ。それで、レアよ。今日は改まって何用だ? そのような支度までして……」


 シュテファンが軽鎧姿のディアナに怪訝そうな視線を向ける。いよいよだ。ディアナは膝の上で握った拳にグッと力を込める。



「あ、兄上っ! きょ、今日は……その、兄上に重大なお話があってやって参りました!」



「…………」


 ディアナが意を決して切り出すと、シュテファンは何故か大きな溜息を吐いて椅子に深々と身を預けた。


「あ、兄上……?」


「……いつか来るとは思っていたが、なるほど……免許皆伝が条件・・だったのだな?」


「……え?」


 思わぬ義兄の反応にディアナは訝し気な表情となる。シュテファンは身を乗り出して真剣な目でこちらを見据えてきた。



「今日来たのは……立志・・について、か?」



「……っ!? な、何故……?」


 驚愕からディアナは思わず腰を浮かしかける。義兄には隠してきたはずなのに、何故知っているのか。シュテファンはかぶりを振った。


「……私が何も気づいていないとでも思っていたのか? そこらの単純な男なら騙せたかも知れんが私の目は誤魔化せん。お前が今の世に対して何らかの大志を抱いている事は解っていた。まあ……お前の過去の体験・・・・・を鑑みれば無理からぬ事ではあるが……」


「……っ!」

 ディアナの身体が震えた。だが同時に、既にバレてしまっているならと開き直る心が生まれた。


「……ご存知であるというなら話が早いです。兄上もよくご承知の通り、今の朝廷の腐敗ぶりと凋落ぶりはこのような僻地にまで届く程。諸侯はそれをいい事に朝廷を無視して好き勝手に勢力を伸ばして、互いに食い合う戦乱の世が続いています。その煽りで被害を受けるのはいつの世も弱き民達です。私はそんな世の中でただ無力な女のように戦禍を怖れて、座して嘆き暮らす事などしたくないのです!」


 直接的な戦火の被害だけではない。戦乱が長引くにつれて徐々に上がっていく重税。兵糧の捻出から荒れていく田畑。戦争によって衛兵の目が行き届かなくなり街や村の治安が悪化し、今や女性が1人で外出できない街の方が多い。


 更にはそうした治安の悪化は、質の悪い山賊や盗賊の横行にも繋がっている。実際にディアナが住んでいた村の近隣でも山賊の被害を受けた村は多くある。


 そしてこのまま戦乱の世が続けば、こうした状況は収まるどころか増々悪化していく一方だ。



「……だからお前が自分で戦乱の世を終わらせたい、と?」


「そうです! ただ何もしないで嘆いて暮らすだけなら、私は自分で動きます!」


 この辺りはシュテファンの母でもある義母とも何度も繰り返した問答だ。今更迷いはない。


「現状を憂うなら、どこかの勢力に仕官して天下統一の為に尽力するという方法もあるが……」


 やや歯切れの悪いシュテファンの諫言。だが勿論ディアナはかぶりを振って否定する。


「兄上がまさにその為にこの街の太守に仕えたはずです。その結果現状がどうなっているか……兄上が一番よくご存知でしょう」


「む……」


 義妹の指摘にシュテファンが小さく唸る。それは否定できない現状であった。先程歯切れが悪くなったのもそれが原因だ。


 この街の太守も周辺の諸侯も、朝廷を無視して好き勝手に振舞っているくせに自らの保身ばかりを考えて、積極的に攻めに出る事も無く小競り合いばかりに終始している。こんな事では増々泥沼化するだけだ。


「それに私は女です。今のこの帝国に於いて、女の身では立身出世どころか仕官すらままならないのが現状です。だからこそ私は自ら起つ事を決意したんです」


「……!」


 それもまたディアナの言う通りだった。茱教の思想が浸透している帝国内では女性の地位は基本的に低い。200年以上のオウマ帝国の長い歴史でも、女性の身で立身出世を遂げた者は片手で数える程しかいない。それも大抵は皇家の親戚筋であったり高官の身内であったりと、下地が出来上がっている者が殆どだった。


 今はもう引退してしまったが近年では【青藍驍将】ビルギットが名高く、彼女も当時の大都督に見初められてその部下兼愛人・・となり、そこから栄達の切欠を掴んだという経緯がある。


 ディアナには間違ってもそんな器用さはない。となればやはり彼女が具体的に行動しようと思ったら、確かに自ら起つ以外に方法はないとも言える。



「でも私は所詮世間知らずの小娘。1人では何も成し得ません。だからこそ……共に同じ目的に向かって邁進する同志・・が必要なのです!」


「……っ!」

 シュテファンの身体が僅かに震える。その切れ長の鋭い目が見開かれる。


「お願いです、兄上っ! どうか私に力をお貸し下さい! この戦乱の世を収める為に、どうしても兄上のお力が必要なのですっ!」


 もうここまで来たら取り繕っても意味はない。ディアナはなりふり構わず必死の思いで頭を下げた。



「…………」


 沈黙が降りた。そのままどれくらいの時間が経っただろうか。実際には10秒程度だったと思われるが、ディアナにはその何倍もの時間に感じられた。そして……


「……確かに女であるお前にはこれしか方法は無いのかも知れんな。そして……お前の言う通り現状に行き詰まりを感じていたのは事実だ」


「……っ! じゃあ……!」


 ディアナは弾かれたように顔を上げた。だが出迎えたのは未だ厳しい表情をしたままのシュテファンの顔であった。



「但し! 私もこの軍の禄を食んでいる身だ。ただ実のない理想だけを語られた所で軽々しく下野は出来ない。だから……お前の価値・・を私に見せて欲しい」



「か、価値、ですか?」


 戸惑うディアナに、シュテファンは頷いた。


「そうだ。今の立場を捨ててでもお前の同志となりたいと思わせるだけの価値を私に示して欲しい」


「ぐ、具体的にはどうすれば……?」


「……今このアルヘイム県を悩ませている盗賊の一味がいる。狡猾な連中で、少人数だがその分小回りが利く。衛兵隊の目を盗んで、他所の街と小競り合いをしている最中などを狙って県内の村に襲撃を仕掛けるという手口を繰り返している。幸いというかお前の住んでいた村は規模が大きいので襲われなかったようだが。……この盗賊共を相手にしてもらう。お前一人・・・・でな」


「……っ! わ、私が、1人で……!?」


 ディアナは動揺から思わず声が上擦るが、シュテファンは至って真剣な口調と表情で頷く。


「そうだ。奴等が現在根城にしている場所は解っているが、用心深い連中でこの街の武官は皆顔を覚えられていて、近付くだけで逃げられてしまう。だが……女一人・・・であれば奴等は絶対に逃げない。むしろ格好の獲物が現れたと、向こうから寄ってくる事さえあり得る」


「……!!」


「そこでお前の価値と覚悟を証明するのだ。私はここで報告を待つ。これから天下を相手取ろうというお前が、まさか少人数の姑息な盗賊如きに怯んだりはすまいな?」


「…………」


 これが義兄の課す試練という訳だ。逆に言えばこれを乗り越える事が出来れば、誰よりも頼もしい義兄を同志にする事が出来るのだ。



(それに治安を乱す盗賊を退治すれば人々の為にもなる。……よし! やってやるわ!)


 ディアナは決心した。それに確かにシュテファンの言う通りこれから自分が為そうとしている事を考えれば、盗賊相手に尻込みなどしていられない。


「解りました! 私が必ずその盗賊を退治してみせます! そして私の価値を兄上に認めて頂きます!」


「……期待しているぞ」


 意気込むディアナの姿を眺めながら何故か複雑そうな表情で呟くシュテファンだが、精神的に余裕のない彼女は義兄の様子に気づく事が無かった。


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