第56話 血塗られた手を差し伸べて
千夏の視線には溶け崩れたベクターの残骸、緑の水溜まりがある。少しづつ冷静さを取り戻し、心臓がゆっくりと一定のリズムを刻む。
前回と同じように自分が何をしていたのかを理解し、自らの意思で力を振る舞っていた。常識と言うか、自分の内にらある人間性が吹き飛んだかのように。ベクターの亡骸を見ても何も感じない。いや、寧ろ物足りなさがあるのが不気味だった。
それでも千夏はある事を思い出す。
「そうだ、先生……」
一緒にいた女医は無事だろうか。彼女の姿を探すように首を回転させる。いた。部屋から廊下に出て来た彼女は目を点にし、唖然とした様子で千夏を見ている。
当たり前だ。こんな血肉に汚れた世界を目にし、平然としているのは普通の人間には難しい。
「先生、大丈夫で……」
「ストップ! これ以上近づかないで」
駆け寄ろうとしたが止められる。その言葉が千夏の胸に突き刺さり、心臓が握られるような感覚だった。
「…………ああ」
言葉が出ない。恐怖に身体が震える。拒絶される事が苦しい。
今の自身を鏡で見てみろ。そこには血まみれの化け物が立っているのだ。誰がそんなのを受け入れるのだろうか。
そんな幻聴すら聞こえる。心に氷柱が突き刺さったようだ。
「……あ」
そんな千夏の心境を察したのだろう。ハッとしたように目を見開く。
「ごめんなさい黄川田さん、そういう意味じゃないの。貴女ベクターの血を浴びてるでしょ。それが危ないから近づかないでって意味よ」
「…………そ、そっか」
一瞬意味がわからなかったが、すぐに理解した。
彼女が恐れていたのは千夏ではない、先程噛み付いた時に浴びたベクターの血を恐れていたのだ。当たり前だ、グローバーではない彼女にとってベクターの血はウイルスの塊、そんな物に近づきたくないに決まっている。
「そうですよね。シャワーとかあったら良かったんですけど」
「残念だけどそんな余裕は無いわ。とりあえず……」
軽く咳払いをしつつまっすぐと千夏と目を合わせる。
「助かったわ。貴女がいなかったら私が狙われていた。ありがとう」
「っ!」
お礼を言われただけ。それでもその言葉は千夏の心を揺さぶる。
意味はあった。彼女を助けられた。自分にも誰かを守る事ができるのだと。
「いえ、そんな。私はただ無我夢中で暴れていただけです。でも、先生が無事で本当に良かった」
「フフ。さて、ひとまず移動しましょ。院長室までの道はわかる?」
千夏は口ごもり申し訳なさそうに翼を縮ませる。
「実はまだ位置を覚えてなくて。ごめんなさい、わからないです」
地下には何度か検査に訪れてはいる。しかし院長室は最初に一度案内されただけで、道順を覚えていない。
幸い通路に地図が設置されている。それを確認しながら進めば、時間はかかるも行けるだろう。
「やっぱりね。わかった、道案内するからついてきて」
「え? でも先生は早く逃げた方が……」
そもそも、彼女はすぐ近くのエレベーターで地上に逃げるよう指示を受けている。安全面を考えれば即逃げるのが最善だろう。
だがそうはしなかった。
「一人で逃げるのもちょっとね。助けてもらったんだし、いい歳した大人が何もせずすたこらと逃げる訳にはいかないでしょ」
笑いながらも心の奥底にはベクターへの恐れがあるはずだ。感染してしまえば、ほぼ確実におしまい。自分がウイルスに耐えれるよな体力があるとも思っていない。意思を持たないネズミになるのか、人の心を無くした化け物となるかだ。
それでも我先に逃げるような事をしたくなかった。
「…………ありがとうございます」
千夏はただ頭を下げる事しかできなかった。
彼女と違い、自分は圧倒的に安全な立場にいる。感染を恐れる事も無く、ベクターを返り討ちにできる力もあるのだから。
その頃、院長室では女性達の報告が飛び交っていた。
「美咲ちゃんと連絡がとれました。卓也君も一緒のようで、今こちらに向かっています」
「よし。それまでにベクターが来なければ良いが……」
「院長、須賀先生の安全を確認しました。黄川田さんの移動と本人の脱出指示は完了です」
「うむ」
順調と言って良いのかは疑問だが、今の所は職員の安否確認も進みベクターが現れる様子もない。しかし全てが良い方向には進まないのが世の常だ。
「佐野先生との連絡がとれません。もしかして……」
「可能性はあるな」
博幸は眉間に皺を寄せ肩を落とす。
警報が鳴りこちらからも呼び掛けている。それなのに何の反応もなければ、最悪の事態を想定しなければならない。
「せめて発症していない事を祈ろう。久我山君もね……」
指揮をする立場としていつまでも落ち込んではいられない。軽く咳払いをし気持ちを切り替えた。
「警察への連絡は?」
「既に。いざという時は、地上の患者と職員の避難を依頼しています」
「そうか。ここで全滅させるのが一番だが、万が一に備えるのも必要だな」
一安心したのか、彼は背もたれに身体を預け寄りかかる。
「奴らの狙いは美咲君達だろう。追い詰めたつもりだろうが逆だ。文字通り袋のネズミ、一網打尽にしてやるさ」
余裕は信頼から来るものだ。たかがベクター、数を揃えようと負けはしない。部下の敵は必ずとる。
だが余裕は同時に油断へ繋がる。
ガン! と、突如扉を叩く音が響く。ノックだなんて生易しいものではない。何度も扉を突き破ろうと何かがぶつかる音だ。
「まさか……こちらを先に?」
ベクターなど恐るるに足らぬ。更にその習性上こちらが狙われる事など無い。そう考えていた。
だが実際は違った。
確かにベクターの対処は容易いが、それはグローバーがいての事。普通の人間、非感染者である博幸達には脅威である。
ものの数秒で扉を突き破ると巨大なネズミ、ベクターが侵入する。
「ベクター!?」
「ひっ……」
席から離れ部屋の奥へと逃げ込む女性達。そんな悲鳴を無視するようにベクターは静かに部屋を見回す。まるで何かを探しているかのように。
(何を探して……そうか、美咲君達か。彼女達を探している内に、偶然ここに来たのか。……ん?)
その時博幸はベクターの首にぶら下がっているものに気付く。それはこの病院の職員が使用しているパスケースだった。
「まさか……!」
心の奥底に冷たく嫌な感情が滲み出る。
予想はしていた。頭では理解し割り切っている。だが感情は簡単に変えられない。非情に成りきれていない自分がいた。
「久我山君!」
パスケースから見えたIDカード、そこに印刷された写真が目に入る。それは先程襲撃を受けた男性のものだった。
見知った者の悲惨な末路、その成れの果て。おぞましく心を持たぬ獣になってしまった部下を前にし、平然としていられる程冷酷な人間ではない。
「…………すまない久我山君」
それでも心を折る訳にはいかない。こうなってしまったら、もう二度と戻れないのだから。
今はどうにかしてこの場を切り抜けなければならない。手元に武器になりそうな物は、ペンやハサミといった文具くらいだ。
そんな物で抵抗した所で小さな傷を負わせるくらいで、ベクターはすぐに再生してしまう。むしろ攻撃を受け感染するリスクの方が高い。
「だが……万事休すといった所か。私達ではどうにもならんな」
半ば諦めたように嘲笑する。
例え銃があったとしても自分にはまともに扱えない。仮に使えたとしても、少し怯ませたり動きを鈍らせるのが限界。そもそも返り血の危険性もある。
ベクターは一通り部屋を確認した後、博幸達の方をゆっくりと向く。明かりに反射した目がギロりと彼らを睨み付ける。
グローバーがいなければ次に狙うのは非感染者だ。
「シャっ!」
感染を広げようと、爪を振り上げ飛びかかる。
誰もが諦めたその時。
ベクターの腕を一本の蔦が巻き付き、動きを止めた。
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