第55話 緊急事態

「クッ……」


 やられた。それでも最悪にはまだ届いていない。侵入されたとはいえ、ベクターならまだ打つ手はある。


「緊急警報を! 三船君、君は美咲君と卓也君に連絡を。こちらに急行するよう伝えるんだ。潮田君は出勤している職員の安否確認だ、急いでくれ」


 思考を即座に切り替え指示を飛ばす。

 懐に入られたのは痛いが、美咲と卓也の存在が何よりも頼もしい。侵入者の撃退など容易いはずだ。寧ろ文字通り、袋の鼠とも言えよう。

 だが一番の問題は自分を含めた職員が感染する事だ。それだけは何としても防がねばならない。


「頼むぞ、二人とも……」


 博幸の頬に一筋の冷や汗が伝うのだった。





 鼓膜を貫くような警報音は、聴覚の発達した千夏には地獄そのもの。耳から届く音が脳を直接殴るように暴れている。


「な、何ですかこれ?」


 耳を塞いでも足りない。頭が痛い、耳が千切れそうだ。だがこの音が危険を知らせる音なのは理解している。音だけではない、この音が感じさせる不安も千夏を蝕んでいく。


「先生?」


 ふと横を見ると女医は誰かと通話していた。その表情は険しく、それが千夏の不安を煽っている。


「はい……すみません、もう一度……」


 警報のせいでやりとりは難航しているようだ。だがそうしているうちに警報は鳴り止み、通話を終えた女医はため息をつく。


「…………最悪」


 青ざめた顔色に嫌な予感が消えない。何かとても良くない事が起きているようだ。


「先生、何かあったんですか?」


 彼女は数秒程頭を抱え、重苦しそうに口を開いた。


「…………どうやらベクターが侵入したみたい」


「え……」


 千夏は実物を見た事は無いが話しは聞いている。ヴィラン・シンドローム発症者の成れの果て、キャリアーと違い知性を無くした巨大なネズミ。それがここにいるのだ。

 それが何を意味するのか、千夏も解っている。


「抗体を持っている貴女達が狙いのはず。だから地下院長室で高岩さん達と合流してって」


「先生は?」


「私は外に逃げるようにって。ベクターは日の下に出たがらないし、直通のエレベーターが近くにあるしね。それに……」


 言葉を詰まらせつつ申し訳なさそうに肩を落とす。


「ごめんなさい、囮にしてるみたいで。普通なら、大人の私達がどうにかしないといけないのに」


「気にしないでください。私の身体の事を考えたら当然です」


 確かに本来自分は庇護される側だろう。だが実際はどうだろうか。ヴィラン・シンドロームの天敵となり、最優先に排除すべき対象とされている。囮として最適なのは解っている。

 おもむろに自分の手、鋭い鉤爪の伸びた鳥の足のような手を見る。爪が灯りの光を反射し輝くと、何故か胸が高鳴る。

 まるで自分とは違う、別の心があるかのように。待ち焦がれた、ワクワクするような気持ちが沸き上がる。


(…………ベクター……ネズミ……)


 腹が鳴り空腹感に唾を呑む。

 大きな、人間と同等のサイズのネズミ。身体のフクロウの部分がそれを求めている。

 餌として。


「黄川田さん?」


「あ、いえ……。解りました。院長室ですよね?」


「そう。そこに高岩さん達も向かっているみたい」


「はい……ん?」


 千夏は首を斜め後ろ、百二十度程回し扉の方を向く。

 聞こえる。足音が近づいてくる。その音は二本で歩くような足音ではない。もっと多く複数人の足音が重なっているか、の足音だ。

 心がざわつく。自分の中で何かが、別の誰かが顔を覗かせている。

 そしてその音が何なのか、千夏は即座に理解した。


「来る」


「来る? 何が……」


 そう言いかけた瞬間、扉に何かが衝突した。ガツン、そう騒音を響かせながら。


「え、ええ!? ま、まさか……」


「…………」


 一回、二回と衝撃を響かせ扉を突き破ろうと何かがぶつかる。そして三回目にて扉を吹き飛ばし、襲撃者が姿を現した。


「ベクター!」


 成人男性程はあろう巨大ネズミ、ベクターが部屋に入ってきた。


「キシュゥゥゥゥゥゥ……」


 ベクターは部屋を見回すと千夏を真っ直ぐ睨む。その理性無き獣の瞳には彼女しか映さなかった。

 それは千夏も同じだ。


「…………アァァァ」


 カチリと自分の中でスイッチが入る。脳が心が本能が、全てが別の色に塗りつぶされるようだ。

 不思議な事に不快感は無い。寧ろ清々しくも感じる。雑念が消え、思考がクリアになり本能が身体を支配してゆく。


「先生……離れてて」


「き、黄川田さん?」


 僅かに残ったヒトの心が、絞り出すような声で警告する。

 これから起こるのは弱肉強食の獣の闘い。狩るか狩られるかの喰らい合いだ。


「ウアァァァァァァァァァァァァ!!!」


 千夏は本能に導かれるまま飛び掛かる、ベクターも同時にだ。正面からぶつかり合い揉み合いになる。

 そして相手を組伏せたのは千夏だった。首根っこを掴み床に押し倒す。そのままの体勢で翼を広げ飛んだ。

 いや、跳んだと言った方が正しい。ふわりと宙に浮かんだかと思えば、即座に落下しベクターを床に叩きつける。


「ギ……」


 鈍い音が鳴り、ベクターは苦しそうに息を吐く。

 獰猛な本能に突き動かされ、千夏は手を止めない。首を強く締め上げ叫ぶ。


「う……ああああああああ!!!」


 言葉にならない咆哮。力任せに部屋の外に向けて投げ飛ばす。

 壁に打ち付けられ床に倒れるも、この程度で止まるような相手ではない。打撲などすぐに再生し立ち上がる。


「グルルル……」


 爛々と輝く瞳には煮詰まったような敵意。そこに怒りや憎しみは無い、本能が己の天敵を排除せんと強い殺意を孕んでいる。

 もう一度、今度こそその心臓に爪を突き立ててやろうと身構えた。

 だがフクロウとネズミ。そこにある食物連鎖の掟が立ちはだかる。

 ベクターが対峙しているのは敵ではない。絶対なる捕食者ブレデターだ。


「ガァァァァァァァァァ!!!」


 千夏は風のように駆け出す。最早、彼女は放たれた矢だ。ベクターに掴みかかるとその喉に噛み付いた。


「!?」


 逃がさぬよう爪を肩に食い込ませ押さえ付ける。


「グヒュ……」


 吐き出した血が千夏に降りかかる。

 必死に暴れるも、顎の力を緩めず一気に肉を食い千切った。傷口は唾液に含まれる抗体の作用により溶け、緑色に変色し広がってゆく。


「フン!」


 よろけたベクターの頭を鷲掴みにし、頭蓋骨を握り潰しかねない握力に軋むような悲鳴を上げる。そして軽々とベクターを投げ捨てた。床に叩きつけられ血と融解し緑色の粘液と化した肉体が撒き散らされる。

 千夏はゆっくりとベクターの方を向くが、不意に膝を付き口元を押える。


「……苦っ!」


 口内の肉が溶け緑色の粘液となり、その苦さに思わず吐き捨てた。


「ペっ! 何これ、苦い……」


 先程までの獣のような様子と違い、千夏の意識が引き戻されている。


「ううっ……。また身体が勝手に……」


 何をしていたのかはっきり覚えている。意識はあった、だが身体のコントロールが獣の本能に奪われていた。

 だがそれは千夏の意思に反してはいない。彼女もまた、ベクターへ対抗しなければならないと自覚していたからだ。


「ギギ……」


 再び立ち上がるベクターに気付き我に返る。


「っ! まだ動けるの?」


 確かに動ける。しかし食い千切られた首から入った抗体が確実に身体を蝕み、足元はふらついている。


「…………大丈夫、私はやれる。身体に任せなくても、戦わなきゃ」


 今この場でベクターを止められるのは自分だけ。ここで逃がせばもっと被害が出るのだと自分に言い聞かせる。


「ハァ!」


 翼を大きく広げた。そこには赤い光が灯り、その姿にベクターは後退る。


「当たって!」


 投擲するように翼を振るい、無数の羽根を発射した。

 羽根は赤い光を放ちながらベクターの身体に突き刺さる。一本一本がナイフのようなそれは美咲の刀のように抗体を含んでいる。

 刺し口から肉体は融解し、そのまま膝を着いたかと思うと倒れ緑色の水溜まりに変貌した。

 黒い千夏の瞳がベクターの成れの果て、その姿を映すも不思議と何の感情も沸き上がらない。

 つい先程まで身体を支配していた闘争心もすっかり冷め、ただ安堵のため息だけが溢れるのだった。

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