涙の理由は

もくた くも

涙の理由は

涙が出ると気付いたのは夏休みを目前にした期末考査の最中だ。

もっと詳しく思い出すと、世界史の試験中。

試験監督の先生が落とした消しゴムを拾ってくれたが、先生が何の授業を担当しているのかは知らない。

背が高くて、いつもらくだ色のカーディガンを着ていて、年は若い方。

他に知っているのは、同じマンションに住んでいる、という事だけだった。


「はよーす」

蓮はマンションのエントランスで鉢合わせた相手に曖昧な挨拶をした。

朝練のある部活に入っているわけでもないが、朝の教室で本を読むのが日課になっているので、始業時間の1時間前には学校に着いている。

それがどうやら先生の出勤時間と被っているようで、時々こうして一緒に登校する。

「おはよう。試験お疲れ様」

「疲れました……」

蓮は出来の良くなかった試験の結果を思ってげっそりした。

古文と数学はまあ及第点だろう。現国は良く出来た。問題は世界史だ。

得意だと思っていたのに、途中から集中力がどこかに逃げて行き、教卓でインドのガイドブックを読んでいる先生をぼんやりと見ていた。

推薦入学を狙っているのに、これではいけない。

「せんせー、インド行くの?」

「行かないけど、何で?」

蓮は先生と他愛のない雑談をするのが気に入っていた。

先生はそれなりに応えてくれる。

「ガイドブック読んでたでしょ」

「おっと」

ちりんちりんと自転車のベルが聞こえて、注意を払う間もなく先生に庇われた。

「どうも」

蓮は礼を言うふりをして俯いて、靴紐を結ぶふりをしてしゃがみ込んだ。

涙が出て来て止まらない。

「あれ、埃、入ったみたいで……」

「こすっちゃだめだよ」

先生は鞄からハンカチを出して渡してくれた。

蓮は涙が堰を切ったように溢れるのをどうにも出来なかった。

「ノイローゼかな。大丈夫?」

「大丈夫です、すみません」

ハンカチに顔を埋めながら、洗剤の匂いがするな、と頭のどこかで考えていた。

「学校行く?休む?」

先生はひたすらに弱った顔をしておろおろしている。

「あー、ちょっと一回帰ります……」

涙が鼻水に変わりつつあるので、かっこ悪くて顔を背けた。

「気を付けてね」

先生は蓮が元来た道を戻るのを心配そうに見ていた。

「あ、ハンカチ、洗って返します!」

振り返った蓮は見送られていることを意識してしまい、また涙の発作が出た。

「気にしないで」

柔らかく手が振られるのを見て、蓮は胸がときめくのを感じた。


『よく知らない人を好きになっちゃったってこと?』

電話越しの声は呆れ半分といった感じだが、従姉の舞は大学生らしからぬはしゃぎ方をしていた。

『でも、たまに一緒に登校してるって、それ既に脈ありじゃん?』

舞に連絡したのは他ならぬ大学受験の相談のためだったのだが、彼女出来た?なんて軽口を叩かれてつい乗ってしまった。

『告んないの?』

「なんかさぁ、その人に優しくされると泣いちゃって駄目なんだよ」

電話の奥で悲鳴が上がったので、受話器を放り投げそうになった。

『ほんとにあるんだ!』

「そんなに驚くこと?」

『最近ね、好きな人に優しくされて泣いちゃう子のドラマがね、あったの!見てないの?』

「受験生だからな。それ、どういう終わり方した?」

『その子はね――』


夏休みに入ったが、蓮は世界史の夏期講習を受けるために登校していた。

今日は講習の教室に行っても誰もいなかったので、社会科準備室に来たところだ。

「おや、久しぶりだね」

ノックすると扉が内から開いて、先生が出て来た。

「あれ、社会の先生だったんですか」

「僕は倫理担当だよ」

そういえば選択にそんな科目があったな、と思い出す。

「寺内先生?風邪でお休みだって」

「あ、そうなんすか……」

塾で手厚く受験対策を受けられる昨今、学校主催の夏期講習に出る生徒は多くなくて、世界史も蓮以外の申し込みはなく、蓮のために開いてくれているようなものだった。

「じゃ、帰ります」

「せっかく来たんだから、受験の話、聞いていく?」


「あっつ!」

冷房のない進路指導室は、蒸し風呂のようになっている。

先生は冷蔵庫から缶コーヒーを出して蓮に差し出してきた。

「埃アレルギー?」

「いや、違いますけど」

はらはらと涙が出る。

そういうことにしておいた方が良かったかもしれない。

先生は他学年の進路指導担当のようで、懇切丁寧に資料の説明をしてくれた。

「大丈夫?」

「なんか知らねーけど、せんせーに優しくされるとこうなって……」

先生は伸ばしかけた手を、きゅ、と握った。

「俺、せんせーが好きです」

「ありがとう。でも先生は生徒を好きになっちゃいけないんだよ」

それがどれだけ酷い言葉か、分からないで言っているわけではない。

「せんせーは俺のことどう思ってんの?」

蓮が引き下がらなかったので、先生も本心を晒した。

「いつか君の心が変わって、僕がいくら優しくしても涙なんか出なくなって、去っていくだろうなと思ってるよ」

こういう生徒はこれまでにもいた。涙を流している子はいなかったが。

「大学受かったらまた告るから」

だから。

「待ってて!」

蓮は机の上にいつかのハンカチを置いて進路指導室から走り去った。


『その子はね、好きな人とキスをして、涙が止まったんだよ』


ハンカチを開くと飴玉が転がり出て、彼の優しさだと思うと涙が出た。

担当していないとはいえ生徒だ。

大人は子供を守らなければならない。

触れてはいけない、氷の彫像のように思えた。

「いつまで泣いてくれるのかな、君は」

呟いた声は蓮には届かず、先生は自分の涙をハンカチで拭った。

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