虚実は揃い、白紙が残る 33
うわっ、と叫んで身を反らせる。
怯む男の手から野津川はライターを叩き落とした。
「怖がるとでも思ったのかっ」
消えたライターの火に代わり、野津川の光がむしろ辺りを昼間と照らし出す。ならボクシングはまるでこの日のために続けてきたようなものだった。
「死ぬ気で上がってきたヤツをナメるなぁっ」
ハスに構えて脇をしめる。もう体は覚えており、持ち上げた拳を小さく踏み込むワンツーで、男の顔面めがけ叩き込んだ。打ち込んだ拳は素早く引き戻すが鉄則で、高さを維持してガードを忘れず。肩の位置からまっすぐにだ。足先から拳へと新たに力を送り出す。リズムは繰り返してきた中でも、最も小気味がよかった。機械的なほどと迷いのない連打に男もされるままと、棒立ちとなっている。それもそのはずと拳はとえいばもうただの光の塊でしかない。あまりに優しく撫でて散ると、光の粉を相手の顔へただ振り撒いているだけだった。
ありさまに、我に返った男が狂ったように光を払う。見つめてかたずをのんでいた周囲も目を覚まし、次の瞬間、わあ、と野津川へ飛び掛かっていった。
喉に腕へ絡みつかれ、野津川はのけ反り吠えて肩を揺する。ダメ押しと腰にも食らいつかれたなら、よろめき後じさっていった。それきり大の字と引き倒されるかと思えた時だ。耳に鈍い音は聞こえて体が軽くなる。得た自由に振り返れば、ファイティングポーズをとる文倉はそこにいた。
「フミクラっ」
「引退しても俺の拳、一応、凶器扱いなんですけどねっ」
光の中にはいつか芝で見た好戦的な目が浮かんでいる。
新手はそんな文倉へ、無謀とまた飛び掛かっていった。
かわす文倉のステップこそそつがない。野津川はといえば違う方向から突進してきた誰かに押されてひとたび地面へ吹き飛ばされる。
「わあっ」
「のづさんっ」
もつれて馬乗りになられていた。
文倉も、懲りず掴みかかってくる女をかわして後じさると離れてゆく。
「やめろって、いってるだろっ」
馬乗りの相手を野津川は懸命に押し返し続けた。だが手ごたえこそなく、淡く散った光の向こうから飛び込んできたパンチをむしろ食らって息を止める。一呼吸おいたそのあとで口元に生ぬるくも重たい何かはヌルリ、と流れ落ちていた。鼻血だ。過ったところで腕を擦り付け押し止める。
上へ二発目は放たれていた。
血の付く腕を交差させ、拳を咄嗟と遮り押し止める。ぎゃっ、と女の悲鳴が降ったのはそのときで、取っ組み合う野津川の真横へどうっ、と体は投げ出されていた。勢いに驚かされ、馬乗りになっていた相手の腰がふいと浮く。感じ取ったなら今だ、野津川の中で声は上がっていた。目を剥き、わー、と身を起こす。ひと思いと相手と上下を入れかわった。
そこから先は基本も何もありはしない。
昇る血のままだ。
滅多打つ。
振り下ろされる光の大群に、相手も遮二無二なって手足を振り回すと抵抗した。
その幾らかを食らおうと、もう野津川が怯むことはない。
「比べてグダグダ言う暇、あるならっ」
力の限りだ。叩きつける。
「っむぅぶんも……、自分も時間がないんだろぉっ」
伸びてきた手にアゴを押されてのけぞり、押し返してヒジで払った。とたん開けたのは視界で、中へと強引に手をねじ込む。それは相手の胸倉を掴むためで、失せたと思えた指は確かとそのとき服地に絡んだ。
「もっと自分のことに集中しろよおぉっ」
力の限りに掴み上げれば、相手の顔は目と鼻の先に近づく。その中で瞬きを失い点と縮み上がった目を見据えた。泳がせて、相手が目を逸らす。やり場をなくした視線の先を己が胸元へ落とすや否や、わぁっ、と大声を上げた。
野津川の鼻血は飛び散ると、そこでうっすら光を放っている。
そう、間違いない。
光っていた。
おののく相手が野津川を突き飛ばす。四つん這いで下から這い出していった。
「うつされたぁ。逃げろっ」
それが撤退の合図となる。周囲でふらふら人影は立ち上がっていた。つまづき、よろめく様こそ亡霊か。互いに互いを支え合い、道なき斜面を下ってゆく、やがてその背を茂みの奥へ消していった。
尻もちをついたままで見送る野津川の鼻血はまだ止まらない。
拭って今一度、確かめた。
それはいつかバス停でこしらえた切り傷とは違い、血とは思えぬ輝きを放っている。
目が離せない。
そしてもう誰も、嘘だとは言ってくれない。
「のづさん、急ごうっ」
文倉だけが呼んでいる。そんな文倉もコマ落としのように今や不安定と輪郭を揺らめかせていた。
立ち上がるに躊躇はない。そして後戻るなど遠回りで、散る時を前にした体はエネルギーに満ちると疲れ知らずだった。
茂みの向こうだ。
突っ切ることを選ぶ。
あのやぐらへ。
走った。
ヤバイ、と思うほど冴える視界にアドレナリンもまた全身を駆け巡ってゆく。
倉庫ナンバー「一〇三九」から四十番台までを直進し、逸れて貨物が走り抜けていった線路を飛び越えた。前方には丸い耐熱タイルだけが月の光を浴びて輝き、ロケットの姿がないそこを大胆不敵と横切ってゆく。危険区域と張り巡らされた手すりを飛び越え、段差から飛び降り、また登って最短距離で「ヴィホッド四三」へ向かう。
さなか風鳴に混じり聞こえたのは警報音か。
だがまたもや飛び立つロケットのエンジン音にかき消され、はっきりしない。振り返って確かめるヒマも意味もせいぜいその場しのぎなら、ようやく果てに見え始めた巨大な台車へただ集中した。
衝突灯を灯したそれは、こちらへ向かいひどくゆっくり前進している。発射予定のロケットだ。発射台もろとも予定通りと発射場へ向かっていた。
そのロケットが見上げるほどにも近づいたところで、陰に隠れていたコンクリートの門柱は二本、目に飛び込んでくる。「ヴィホッド四三」だと分かれば安堵していた。
だというのに視界へそれは滑り込んで来る。
見上げたとたん眉間を詰めた。
ドローンは明らかにこちらを検知したらしく、貼り付くように上空を飛んでいる。つまり警報音は聞き違いではなかったということか。どうして、と過るが、それも起きたあとではその場しのぎの「理解」でしかない。何よりゲートの傍らには赤いドゥカディがもう見えており、近づいてくる光に向こうも気づいた様子だ。待ちきれず噴かせておれんじは猛然と走って来ていた。
「クロっ」
後輪が滑り、車体が真横と目の前を塞いで止まる。砂埃がもう、と舞い上がり、上空でドローンもホバリングしてみせた。だとしてかまいやしない。一度、見上げてドゥカティの後ろへ飛び乗る。
「はまぐりはっ」
「ちゃんと拾われた」
移住者に預ける。決めるに互いがかわした言葉は二つだけだ。
「知り合った時から媚びを売るのがうまかったからな」
そんなはまぐりが向こうで検疫を通過できるかどうかは分からない。だが帰る便はないのだから密航者第一号。十七分なら実にそれっぽく、ネコ一匹、紛れ込ませてくれるに違いないと信じた。
「ドローンがどうしてっ」
進行方向を捉えなおしたおれんじの、手元がすかさずアクセルを吹かせる。
「知るかよっ。来る途中、倉庫の警報が鳴り出した」
「もしかしてあなた、何か落とした?」
尋ねると同時だ。握りしめていたブレーキを離したなら、運び込まれてゆくロケットの傍らからそれこそロケットダッシュとドゥカディは飛び出していった。追いかけ頭上でドローンも方向転換、小さなローターを唸らせる。
「……時計だ」
揺すられて、はっと息をのんでいた。
「異物混入。積み荷脱落。無人だから登録されていない物が落ちているだけでも通報されるのよっ」
「それ、先に言えっつーのっ」
「だってまさかっ」
唸ったおれんじがやにわに大きくハンドルを切る。
「ゲート、もう張られてるっ」
振り落とされそうになってしがみついていた。言う方向へ目をやれば、早くも駆けつけたフル装備の治安局員が飛び行くドローンを指さしている。
「おい、どこへっ?」
確かめずにおれない。
「イチかバチか、って言葉、知ってるっ?」
返され膨らむ想像に思わず耳を塞いでいた。
「あああ。聞こえない、聞こえないぃっ」
だがまばらに上がる拍手の音は、やがてくぐもり聞こえてくる。方向に間違いはなく、一度見失っていたフェンスも再び目の前へ現れていた。
「こんなところから入ったら冬木さんに驚かれますよ」
笑う文倉が、胸の辺りまでしかないフェンスへ手をかけ飛び上がる。勢いのまま片足をかけると、軽々向こうへ乗り越えた。
「悪い、フミクラ」
その手が危うい野津川は腕を突き出す。
「了解っ」
掴んで文倉は引っ張り上げ、体を預けて野津川は足先でフェンスを手繰り向こう側へ転がり落ちた。
顔を上げればその先に、明々と光る煙突は見える。最初、あれほど圧倒された姿は今や、安らげる場所と親しみさえたずさえそびえ立っていった。その中へ、今日も変わらず人は飛び降り続けている。散って光は瞬く間に、尾を引き空へと駆け上がっていた。
光景へ、吸い寄せられるまま立ち上がる。
体が勝手と転がり出していた。中ではもう、そんな体を溶かさんばかりと熱は巡り、急げ、文倉もまた視界の中でスローモーションと手を振り呼んでいる。
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