虚実は揃い、白紙が残る 32

「お前ら何してるっ」

 文倉の声が響き渡る。唐突さにも、差し込んだ光にも弾かれ男女は振り返っていた。遅れてツン、としたニオイが野津川の鼻先をかすめる。

 灯油だ。

「ざまぁみろ。身のほどを思い知れっ」

 同時に男がカラになったポリタンクを投げ捨てていた。乾いた音を立てながらポリタンクは斜面を転がり落ちて行き、空いた手で男は歪むほどと上着のポケットをまさぐってみせる。抜き出せば手の中でジッ、と石を擦る音はした。小さな炎は凶器と互いの間に立ち上がる。

「オマエ何をしているのか分かってるのか。警察を呼ぶぞっ」

 だとして文倉が毅然と返せるのは、間違いなくリング上で闘ってきた猛者だからだ。

「ああ、しろよ」

 悪びれることなく開き直って返す男はふてぶてしい。

「お高くとまりやがって」

「死んじまうのに美しいもクソもないんだよっ。燃やせ、燃やせっ」

 たたみかけてヤジは飛び、ライターが茂みへと近づけられていった。ならかぶった油に一面はてらてら光り、光景はもう脅しを越えて野津川へ取り返しのつかない危機と迫る。ままにぼっ、と燃え移ってしまったなら。それは瞬きした次の瞬間かもしれず、野津川の中を震えは「あああ」と漏らす声のままに走ってゆく。走って、懸命に駆けつけたはずの最後の望みもまたガラガラと崩し去っていった。

 本当にない。

 何もなくなってしまう。

 やり遂げられなかった全てが、人生とかいう滑稽で欠片も洗練されることのなかった支離滅裂な時間の束が、野津川の中をただ吹き抜けていった。

 捕まえて帆を立てる。

 最期の最後に一枚でよかったのだ。

 立てて彼方へと押し出す。

 やり遂げることができたなら、途切れず続く時間がせめて不在で存在を示してくれるだろうと信じられたのに。

 だから求められなくとも小説を。

 無理だというなら名もない、日々眺めて過ごしたあの光として。

 絶望とはつまり、間際まで諦めさせないため駆動しているのか。

 思い過った瞬間、野津川の中でそれは今こそ破裂する。

「やぁ、めろおぉぉっ」

 男へ向かい駆け出した。

 まさに光となる。

 背の貨物へ登り、宙へ身を躍らせた。

 目指すは倉庫ナンバー「一〇三九」だ。

 周囲で棚卸ロボットもハックが完了すると、おれんじの手によりストップモーション、動きを止めている。猶予は作業のタイムラインに遅延が生じるまで。おれんじの計算によればせいぜい十五分が上限らしい。

 だからして最短距離を取る。迂回することなく視界に現れたロボットを蹴りつけ、飛び越え、倉庫へ踊り込んだ。そこにスキなく積まれたコンテナは壁かと反り立ち、そんな壁面へは碁盤の目とレールがは張り巡らされている。上を滑走して作業をこなしていただろう何十台もの棚卸ロボットは、コンテナの搬入作業も途中のまま沈黙していた。

 確かにこれが全て動いていたなら二十段目のコンテナへたどり着くことは出来なかったろう。見上げて目的のコンテナまでのルートを素早く頭の中へ組み上げてゆく。

「通報記録なし。認識されてないよ、クロ」

 舌なめずりする声はおれんじのものだ。だとしてこちらに答えて返すマイクはない。押さえつけてイヤホンを、しっかり耳へ固定しなおした。

 助走はいらない。

 地上で足を広げるクモの背中へ蹴上がった。そいつが掲げて運搬するコンテナへ、きびすを返し飛び移る。見回した足元は畳換算でなら五、六枚の広さか。近くで見ると思いのほかゴツイそこから狙い定め、レールに張り付き固まる別クモのアームへ飛び移った。ぶら下がって振った体は二度目で足がクモの頭に触れ、手繰って移るとこれがカメラかと複眼よろしくレンズのついた頭から隣のマス目で動きを止めるもう一台へ身を飛ばす。そいつが抜き出しかけているのは四段目のコンテナで、伸ばされた腕の関節を手に、足に、踏んで掴んでよじ登り、立ち上がったコンテナの端まで下がって走った。

 跳躍。

 五段目のレールに張りつくクモのアームは指をかけるにちょうどの角度だ。懸垂ののちワキを引っ掛け、軽く振った足先を頼りにアームの上に立った。

 真下はもう飛び降りられる高さにない。

 行く先だけを見上げる。

 満たし蘇る感覚が、自ず頬を持ち上げていた。

 届く以上へ手足を伸ばせ。

 迷いも、罪悪感こそ消えて、眼前に浮かぶルートをたがわずなぞる。

 なぞって四肢を繰り出せば、目の前を十段目は過ぎ、押し込まれる途中で止まったコンテナへ腹ばいと這い上がった。そこから先はコンテナが、一段ごとに抜き差しも途中のまま階段よろしく連なっている。

 端までを全身で跳ね、登り、走り切った。

 最後、突き当たった倉庫の壁でワンクッション。

 捻った体をレールへと軽く撃ち出す。

 二十段目だ。

 レールを手足で掴んでいた。

 駆け上がってきただけの風景が、片側に切り立ち奈落と広がる。

 半ば空中散歩でレールの上を、百三十番から九十六番へ向かい走った。

「クロ」

 耳におれんじの声は響く。

「一分後。二五一コンテナのロックを開放。物流システムの予想回復時間は、そこから八分後」

 確かめ左腕を持ち上げた。光の中に巻きつけられた時計の文字盤はある。

 目にした瞬間、光の中をすり抜けた。

 真っ逆さまだ。

 遥か地上へ落ちて行く。

 だとして止まっているヒマはこそありはしない。息が急に上がったのも体ではなく、目にしたもののせいで感情が要求しているだけだ。

 噛みつぶし、「二五三」のコンテナをやり過ごした。

 「二五一」を見据える。

 コンテナの角に灯されていたランプが赤から青へと表示を変えていた。変えて平だったコンテナ表面へクルリ、半円状の取っ手を中から出現させる。両手で飛びつき開く両足でこれでもか、と千切れるほどに力を込めた。唸ればようやく扉はスライドを始め、コンテナへしなやかに沿いながら開いてゆく。

 乱入者の登場に、中で明かりが瞬き点いた。

 コンテナの片側、たちまち目に壁に貼り付け固定された一枚のパネルは飛び込んで来る。そいつだ、と思えたのは他の全ては彫刻かと厚みを伴い梱包されていたからで、脇目もふらず駆け寄った。壁へ固定しているバンドを解きにかかって宅配車とは要領の違う構造に両手を絡ませ、抱えてどうにか床へ置く。そこから先、動作はいちいち慎重にならざるを得ないだろう。そうしておれんじから教えられていたとおり、跳ね上げ式の留め具を右、左、と順に弾いてロックを解除した。妨げるモノのなくなった梱包のフタを押し上げてゆく。

 息が止まっていた。

 緩衝材にはめ込まれた「現金」が、几帳面なほどきれいに並べ置かれている。「硬貨」と呼ばれた円形の金属と、「紙幣」と呼ばれた横長の紙は、そこから整然とこちらを見上げていた。

 これが、と思えば伸ばす指に震えは走る。

 恐る恐る、は決して大げさではないだろう。触れて初めてそれが画像でないことを確認し、画像でないことにむしろ混乱を覚えた。落ち着かせてから指の腹で、金属の凹凸に触れてゆっくりなぞってみる。紙切れのツルリとした手触りに、とにかく驚きもした。ままに何度だろうと往復させて、それこそ画像ではないのかと取り出し宙へかざす。その表面にはスキなく文様が印刷されていた。緻密かつ綿密な一部始終には手仕事の跡がくっきり残り、注ぎ込まれたとてつもないエネルギーを今もなお放っている。それが違法に複製を防ぐための技術であることは知っていたが、だからこそ誰もが日常的にこうも手の込んだものを使用していた時代の豊かさを思い知らされ圧倒された。

 奇麗だ。

 おれんじの前で呟けば、殴られそうな感想しか出てこない。

 かまいやしないと確かに存在して、描かれこちらを向く人物へ、尖らせた唇で口づけた。

 全てを回収しているヒマがない。

 かさばらないなら手にしている「紙幣」だけを尻ポケットへ匿うことにする。

 機会があればまた会おう。

 残りへ告げて立ち上がった。

 登るに重力は非協力的だが、降りるに関しては余計なほどと友好的だ。加速する体を制御しつつ、クモにレールを蹴って落ちるがごとく地上を目指す。

 ならそれは、これが最後と引き抜かれていた途中で停止するコンテナへ移った時のことだった。ふわり、倉庫内の照明は明滅する。きっかけにして棚卸ロボットたちも目を覚ました。やにわに動き出したなら足元のコンテナもまた作業の続きと、積み上げられていたそこから一気に引き抜かれる。

 勢いに足を取られて背から転げていた。

 ままにふるい落とされかけ、片手でどうにかコンテナのフチにぶら下がる。だとして知ったことかとロボットはレールを地上へ滑走し始め、対向レールを猛烈な勢いでまた別の一台が滑り上がってきた。

 まずい。

 付けた反動は一度きりがせいぜいだろう。

 地上へ身を躍らせる。

 背へすれ違うクモの風は吹きつけ、受けて着地し、衝撃を逃すと二回転。転げた腹の真上を方向転換した棚卸ロボットが振り回すコンテナがかすめるのを見送る。かわせたところでひと思い、振り上げた足をしならせ跳ね起きた。

 表でも、貨物へ向かう棚卸ロボットたちが粛々、作業を再開させている。

 ともかく倉庫から飛び出した。

 わずか背後へ振り返るが、本当に通報されず済んだのかどうかを知る術はない。コンテナのロックを解いたおれんじも、もうモバイルパソコンを閉じるとドゥカティでちょいと寄り道したそのあと、「ヴィホッド四三」を目指しているはずだ。互いは納品される新規ロケットに門扉を開放しているそこで落ち合った後、敷地を抜け出す。予定に遅れは許されず、こちらもともかく「ヴィホッド四三」を目指した。

 その足にまったく疲れはない。

 ただポケットに「現金」が挟まれていることを確かめる。

 覚えた違和感に、駆ける体へ指をそわせていた。激しく酸素を求める胸は今も規則正しい呼吸を繰り返していたが、脇腹だけは光だけをまといつかせるだけだ。今や正体をなくしていた。

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