虚実は揃い、白紙が残る 30
変だった。
出来上がった小説をまことへ送信した夕暮れの、のしかかるような倦怠感のその奥に、野津川は悪寒にも似た震えを感じて手を擦り合わせる。また熱でも出してしまったのか。額へとあてがった。えっ、と気づいて目を向ける。だが強すぎる発光のせいで判然としないならもう一度だ。右と左を擦り合わせ、絡めた指の感覚をひたすら手繰った。
ウソだ。
果てに自分へ吐きつける。
感覚も輪郭もだ。
ない。
つい先ほどまで何千かの文字をタイピングしたばかりの、まことへメールを送信してエンターキーを押し込んだばかりの指は光をまとわせるばかりと失せている。確かめようと絡めたところですり抜けてゆくばかりで、いっこうに触れ合わない。
「ああ、ああっ」
声は上がり、野津川は急ぎ体を確かめた。足に腹に尻に胸に、残る手のひらでくまなく触れて最後、頬を挟みこむ。消えつつある指を髪の中へくぐらせたなら、頭を抱え立ち尽くした。
そんなの、いやだ。
いつかどこかで訪れることは知っていた。「散る会」でその瞬間も目にしている。だが全ては自身の外にあった出来事で、己が身に降りかかって初めてこれからを痛感する。
悪寒ではなく武者震いか。やおらぶるん、と体を震わせた。そんな体を四散させるだけのエネルギーが炉を抱えているがごとく熱量で、内側から押し寄せてくるのをどうしようもなく感じ取る。
「ああ、だめだ。だめだ。だめだっ」
いてもたってもおれず自らへ叫んで地団駄を踏んだ。何しろ大事な小説はまだ書き終えていない。ラストシーンまでひとつ山場が残っていた。それはプロットのような形でパソコンの中に保存してあるが、作品としてはまだ滑らかにつながっていない。
どうすれば。
沸騰し始めた脳みそを冷やし歯を食いしばった。
落ち着け。
感情は泣きごとばかりに大きくうねり、端からその波を殴って窓から外へ視線を投げる。
つまり、できる所まで書くしかない。
意を決してパソコンへ向かった。プロットだけでもどうにかつなげてまことへ送信しよう。野津川はファイルをクリックする。はずが、マウスがまるで反応しない。こんな時にと目をやり、光と浮かぶだけの指にクリックできていないことを知った。慌ててタッチパットをなぞってみるが、こちらもうまく反応しない。
どうして。
誰にも、何も、迷惑はかけていないというのに。
ただ書き残しておきたかっただけに過ぎない。
それだけのために全てを。
だのにそれすら許されないのか。
頭の中が真っ白になる。
何もない。
何もなくなる。
悔しさに薄いエンターキーを連打した。
ゆびではなく手のひらが触れて不意に、メールボックスは画面へ大きく表示される。
本当は、助けて下さい、そう打ち込みたかった。だが失せた指の辛うじて残る根本でひとつづつ、野津川はどうにかキーを押し込んでゆく。まことへ送るメッセージをたどたどしくもつづっていった。
まことさんへ
しょうせつののこりはぼくのぱそこんのなかにありますぜんぶかききれなかったけれどよければよんでくださいふみくらにいますぐでんわがしたいです
じゅうしょ ○○し○○まち××まんしょん902
変換も句読点も、打っている時間が惜しい。
そんな文章を打ち込んでいる自身にまた泣き出しそうになり、先に小説を送っていたせいだ。イレギュラーなこのメッセージに、まことからの返事は数分もしないうちに返されていた。
そこには文倉のケイタイの番号が記されている。「どうしたの 大丈夫ですか」、文言もまた添えられていた。目にして野津川は嗚咽を吹き出し、堪えて懸命に記された番号へと電話する。
窓の外は赤かった時を過ぎ、すっかり夜へ変わっていた。灯りゆくマンションの部屋の明かりに野津川の光もそのひとつと紛れてゆく。
と、たった数度鳴っただけだ。呼び出し音は切れていた。
「フミクラ?」
「のづさん?」
「そうぼく。悪い、驚かせた」
問い返されてすぐさま答える。
「さっきまことから連絡もらいました。どうしたんです」
「まずいんだ」
「何が?」
「崩れ始めてる」
「どういう」
「体が……」
言いかけて、改め野津川は腹をくくった。
「散りそうだ」
瞬きができない。「気配」を感じながら顔を、ゆっくり窓へと向けてゆく。光は、あの光はそこで淡くベールをかけると、今もまっすぐ空を指していた。
「今からでも参加したいんだ」
言葉に文倉はいっとき息を詰まらせた様子だ。そんな場合じゃない、と気づいてからの素早さこそアスリートを極める。
「冬木さんに話してきます。のづさんはすぐこっちへ来て下さい」
声へ野津川はただうなずき返していた。目頭をあやふやな指で押さえて、いや押さえたつもりになってどうにか絞り出す。
「小説、間に合わなかったよ」
「ナイスファイトでした」
「まことちゃんに残りのプロットは渡す。フミクラ、ぼく」
「のづさん」
文倉が遮っていた。
「とにかく来て下さい。俺ももうヤバいんで」
野津川はうつむいていた顔を跳ね上げる。
「わかった。ごめん。ありがとう」
「いいんです。後で」
「あとで」
切れた通話に、歪んでいた顔を力任せと拭って元に戻す。大きく息を吸い込み野津川は、繰り出す深呼吸でせめて気持ちを入れ替えた。
行こう。
思うが執筆にかまけてなんら準備などしていない。見回しともかく上着を取った。袖を通してパソコンを閉じ、ガス栓をどうにか閉めてブレーカーを落とす。フードにマクスにサングラス。光を隠して身に着けていった。最後、サイフだけを上着のポケットへ落とし、靴へ足を通す。
ありがとう。さようなら。
鍵はかけない。隅から隅まで見回し部屋へ別れを告げた。そうして部屋から、マンションからもだ。野津川は去った。
細かく早くトクトクと心臓が踊っている。
急がないと。
否応なく息は上がり、肩で押さえて駅へとひたすら足を進めた。だが近づくほどに人は増え、視線が気になる。もし間に合わず大勢の中で失せてしまうようなことになれば、きっと周囲を驚かせてしまう。心もとなさに襲われもした。だからして出た通りでしきりに前に後ろを確かめる。タクシーがやってきたなら大げさなほど手を振り上げ、逃すことなく止めて中へ乗り込んだ。そんなタクシーの運転手は走り出す前、野津川の風体に運転席の窓をわずか下ろしていた。だとして言うことはもう何もない。
山側へ上がった展望公園の手前、酒屋の前でタクシーを降りた。その際、困惑する運転手へは運賃を財布ごと握らせている。
山から放たれる光が近い。
目指して二度目の道を歩く。
街灯のない辺りに足元がおぼつかなければマスクを外しフードを払った。自身の光を頼りに公園へ上がり、以前と変わらず吹き溜まる落ち葉の中の、稲荷の傍らから登山道へ入る。
足取りは急げと、駆け出すほどに早まっていた。だが疲れは一切感じない。内から噴き出すエネルギーのせいだ。機関部のように激しく駆動する何かが野津川を突き動かす。走れば走るほど体は軽くなり、光を揺らめく蒸気かとまとわせ野津川は山道を飛ぶように走り抜けて行った。やがて頭上に同じく木々の間をすり抜け降りてくる光はあらわれる。
「のづさんっ」
文倉だ。
聞えて野津川は足を止めた。
「間に合った!」
「フミクラ!」
突き合わせた顔に、互いの光が真昼と辺りを照らし出す。
「上から見えたんで。冬木さんは問題ないそうです」
教える文倉は今や光の中に、見覚えのある顔をどうにか浮かべているありさまだ。
「ありがとう。本当にありがとう。本当に」
心底ほっとして情けないほど繰り返し、背を押されて野津川は再びキャンプ場へ足を繰り出した。
「あと少しだったんだ」
「ええ、まことから読ませてもらってます」
「書けたら何も文句はなかったんだ。それだけでよかったのに」
両の手を、顔の前へ持ち上げる。そこで指は光に変わると、淡くきらめき揺れていた。
「まことに住所を?」
問う文倉へ振り返る。
「パソコンに小説の続きを置いてきたから」
「止めたんですけどあいつ、様子を見に行くって」
え、と驚かされたことは言うまでもない。なら文倉は「でも回ってくるまで持ちそうにないしな」と続けていた。
「あの後、どうなるんです。怒らないでください。正直、最初はまことにちょうどいいかと思って俺、小説はそうでもなかったんですよ」
明るすぎて登山道は迷いそうにない。そして明かされたところで隠され続けるより事実は、よほど居心地いいものだった。むしろようやく聞けて野津川は苦笑いさえ浮かべてしまう。
「けどのづさん、あれはひどいですよ。あいつ、俺、案外、好きだったんだけどなぁ」
などと、そんなことよりほかにすべき話はあるだろう。だが心当たりが多すぎて分からないからこそ、続くはずだった日常へ人は飛びついてしまうらしい。
あの後、どうなるのか。
野津川はしたためたプロットを頭の中へ立ち上げてゆく。そこでシーンはガラリ様子をたがえると、正念場と広がっていった。
今なら多少、変更を加えたところでかまいやしない。目的も見返りも、意味も価値も何もない素っ裸の物語の、残るフィルムを野津川は回し始める。
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