虚実は揃い、白紙が残る 28

 いつしか止めていた息を吐き出す。勢いを借り野津川はパソコンから顔を上げた。部屋の明かりは消してある。しかしながら自らの光にもうずいぶん部屋は明るくなると、その窓から外へ視線を投げた。今夜も空へと放たれた光を遠く眺める。

 見学を終えて部屋へ戻り 急ぎ確かめたのは、出くわした「ムテキ隊」の動画だった。思いつく限りのキーワードを放り込み、野津川はインターネットで検索をかけている。やがて見つけ出したのは聞いたこともないようなSNSで、そこにあの動画が貼り付けられていたなら恐る恐る再生していた。

 ところが映像は光る野津川のせいで全てが逆光だ。伏せずとも顔を区別することはできず、群がる彼らの雑音と矢継ぎ早な口調に狼狽する声さえ聞き取れなかった。もしや世界中に姿をさらしているのでは、と考えていた野津川にとって事実は肩透かしを食らうどころか、どうにも間抜けた結末だ。

 文倉はあれ以来、ワークショップに現れていない。野津川に断りを入れるようなよそよそしさすらないまま、入れていた予約がキャンセルされていたことで知ったような具合だった。

 その後、野津川は一度だけワークショップへ参加している。だが今ではもう文倉と拳を交わし、他愛のない小説の感想をやり取りすることが目的のようなワークショップだ。当面の金銭も確保されていたならもう何の魅力も必要も感じられず、居心地の悪さもあいまってそれきり通うことをやめた。

 おかげでより執筆へ集中できている。

 山場へ突入したところならなおさらだった。

 そうして書き上がったものはワークショップがあった同じ曜日に毎週、文倉のアドレスへ送信している。会うことがなくなってからも、互いはそんな具合にメールでのやりとりだけは続けていた。

 とはいえ内容は小説の送信と、その受け取りを知らせる折り返しの文面だけで余計事は何もない。強いていうならそこに感想とも質問ともとれぬ文章が短くつけ加えられている程度で、質問へは次に小説を送るさい、明確に答えられるものだけを選んで返すというような簡素さだった。

 例えば「ついにまことが登場した」と書かれた時は「失礼じゃないか心配」と返信し、「セリフに取られた」とだけあった時は「まことちゃんなら気付いてくれるよ」と送りもしている。

 そんな風に互いが空々しいのはもう色々と胡麻化せないことを感じているからで、もし変に動揺してしまえば相手をも巻き添えにしかねず、だからといって全くの他人には戻れないならルールに反したペナルティはこうして受けるほかなくなっていた。

 それは会わなくなってから三度目のメールだ。いつも通り送られてきた折り返しの文面に、野津川はまことのメールアドレスが記されていることに気づく。意味を教えて文倉は、「散る会」へ向かう日もまた添えていた。

 なんてことだ。

 間に合わせなければ。

 放って行かれるような、それは焦りだった。

 とにかく書き進める。

 止まってじっくり考える暇すら惜しい。

 その強引さは時に展開を支離滅裂とさせ、端折る飛躍が乱雑さを極めた。

 それでも無理矢理推し進めれば、完成度など次第にどうでもよくなって、ゴールテープを切ることだけに集中する。

 目指してペースは日に日に上がると、追われて喘ぐかのごとく筆を進めた。だというのに文倉と会わなくなったせいだ。汗を流す習慣が失せた運動不足の体はむしろ疲れをため込むと筆は次第に鈍ってゆき、近頃、増した光量にまぶたを閉じてもうまく寝つけなくさえなってゆく。

 昨日と今日がつながった。

 一日と思えた時間の中に昼と夜が幾度も現れ、それをおかしいとも思わなくなる。食事は体が要求した分だけを詰め込み、買い出しで外を歩く時も、風呂で湯船につかっている間も、小便をしている時も、次の展開と書き損じてはならない箇所へ、頭の中でアンダーラインを引き続けた。

 今日が何日だったのか。

 忘れがちとなっていった。

 自身が誰だったのか、戻れなくなりかける。

 だからか追いつかれようとしても気付かず書き続け、ついにその日は訪れていた。

 知らぬ間に文倉の入会日は来る。

 今日だ。

 知ったのは日付が変わる直前だ。

 「ああ!」と野津川は久方ぶりの声を上げる。それきり頭を抱えて立ち上がるなど、行動はまるで漫画そのものだったが、腹から沸いたそれが本心だった。そうもぼろぼろ崩れ落ちる固かった意志など知らず、慌てふためき書き溜めた分を文倉へ送信する。

 返事をもらえたならきっと、さようならが言えるような気がしていたのだ。そんな風に不器用な自分が愚かで、こんな小説がなんの花向けにもならないことくらい腹が立つほど知っているというのに。

 バカだ。

 なにをやっているんだ。

 誰が一体、喜ぶとでも。

 翌日、熱は出た。

 根を詰め過ぎたせいだ。病気のうえに病気をわずらい、泣きっ面に蜂を食らってぐうの音も出なくなる。

 三日、動けず眠れないベッドで横になり続けた。

 四日目、ようやっと魂が抜けたように力の入らない体で起き上がり、古いパンへかぶりつく。喉を詰めそうになりながらともかくパソコンを開き、そこに文倉からのメールを探した。

 返信はない。

 そもそも文倉のアドレスはパソコンのものだったのだから、送った時からそれは予感していたことでもあった。

 パンがうまく呑み込めなくなる。涙はこぼれるが空腹は変わらず、野津川はただ今日も生きるためだけに咀嚼を続けた。

 落ち着いたあと残った喪失感は、文倉は紛れもない戦友だったということだろう。

 そんな文倉が残していったまことのアドレスへ小説を送ることには、かなり思い悩んでいる。いずれは自身も去る身である。まことを立て続けに残してゆくような目に合わせるのは申し訳なかった。そのうえ二人は喧嘩したことを知っている。原因が「散る会」にあることくらい明かされたタイミングで気づけ、そこへと文倉が去った直後にのうのうと小説を送り付けることこそ無神経だとしか思えなかった。

 小説の送信はもうやめて、様子だけも尋ねてみようか。思い巡らせるが、これまた余計なお節介のようで野暮だとしか思えない。やはり、と意を決っして約束通り、書き上げた分をまことへ送ることにする。「ごぶさたしています。お元気ですか。文倉が最後に教えてくれたので不躾ですが」とだけ添えて。

 きっと返事は来ないだろう。

 思えた返信はしかし、その日のうちにも返されていた。それは同じように「ご無沙汰しております」から始まり、「かっちゃんは勝手なので行ってしまいました」と続けられていた。文面からひしひしと伝わって来るのは怒りで、しかしながらそれは目が不自由な自身のため出来る限り多くの人が語って聞かせてやれるよう文倉が考えた結果なのだということが、プロボクサーとして勝ちにこだわっていた頃から思いは同じなのだということが、冷静とつづられていた。

 最後に「かっちゃんはケイタイを持って行ったので、わたしから小説は送信しておきます」と、気もまた回してくれる。

 少しほっとできたのは、二人はすっかり仲たがいしたのでない、と知ることができたからだろう。小説がやり取りの手助けになっているのなら、と想像する。できる文倉はまだあのキャンプ場で毎日を送っているのだ、と知れたことも大きかった。

 まことへ礼を返し、諸所を頼む。

 いくらか落ちた体重で再び執筆へとりかかった。

 ここからは正真正銘、独りの戦いを行く。

 腹をくくった。

 そうこうしている間に自身の発光も進んでいる。いまだ続ける文倉式での観測ではもう、光の届く距離ではなく明るさで測らねばならないほどにひどい。

 書き上げたら、まことへ送って終わりにしよう。

 それまでどうにか。

 願いは祈りへ変わっていた。

 祈り野津川は、物語の続きへ身を沈めていった。

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