虚盗の魚 26
「っぷはぁっ」
力の限りに吐くと跳ね起きていた。「ミー」と聞えた鳴き声も、驚きそんな体の上から逃げ出してゆく。とにもかくにも繰り返すのは荒い呼吸で、唇に貼りつくものもまたまさぐった。
「……っそ」
またくもって九死に一生とはこのことだ。つまみ上げたはまぐりの毛を弾き飛ばして顔を覆う。手を投げ出してベッドの上で大いに伸びた。
「はまぐりっ」
どうやら猫に殺されかけたらしい。天井へ怒鳴りつけ、耳からジャックもまた毟り取った。
いや、だいぶと成長したはまぐりはもう愛らしい子猫の域をぬけつつあり、居心地がいいのかそのデカくなった体で近頃は、光るこの顔面でくつろぐことを習慣としている。おかげで早まる鼓動は窒息寸前の危機のみならず、抜け出してきたばかりの夢もあいまりしばらくおさまりそうになかった。
一部始終は夢だと分かっていてもなお生々しく、むしろ現実とまごう感覚を五感に残している。残して夢だと教える頭の中を、剥がせぬ生々しさで引っ掻き回した。彼と並んで見上げた光景はそれほどまでに凄まじい。音もなければ声もなく、あっけないほど一瞬で終わる出来事だった。だがその一瞬にゾッとするほどの激しさをほとばしらせると、鬼気迫る美しさで見る者を釘付けにする。
思い出せばまぶたの裏で、また光は散っていた。
見えないから、聞かせてやらないと。
目覚める間際の言葉も憑りつき離れぬ呪文となって回る。
がばり。
立ち上がっていた。
もしかすると。
見せられた意味を深読みするなら、焦りというよりひっ迫感に襲われ、このためにサイズさえ測り取り寄せた遮光カーテンを端まで閉めきる。引っ越した当初は戸惑ったが位置はもう定めてあり、はまぐりを蹴散らし部屋のキッチン近くに出張った柱へ背を付け立った。
夢はそうして自身の変調を知らようとしているのだとすれば。
くたびれ切ったスウェットを脱ぎ捨てる。光は暗い部屋へなお広がって、細めた目で持ち上げた腕を、手のひらを丹念に確認していった。眩しさのせいでいくらか前より手相が見えなくったのは周知の事実だ。だからして裏返すとやんわり握り締めてみる。なら光の塊と化した拳は透けたようになり、それこそ錯覚であることを確かめ今や直視できなくなった左の脇腹を、叩きつけた。双方から中身の詰まる重たげな感触が返ってきたなら、今度は両の足を掴んで探る。芯のある手触りを得たところでへなへなと、その場に座り込んでいった。
ほどに光が照らす範囲はといえば、数日前に比べて確かに広くなっている。暗がりにあったはずのシンクの蛇口も、今では鋭く己の光を反射させていた。
だとしてあれはメタゴリが組み上げた、ただの夢だ。
予知夢などと、知らせて診断を下す機能はない。
だがあんな具合に最後はなるのか。
冗談だろ。
否定したはずが泣き出しそうになりスウェットを手繰り寄せた。がむしゃらに着なおして開いたカーテンで現実を引き寄せる。ついて歩くはまぐりを足元に、冷蔵庫から取り出した水を一気に飲み干した。溺れかけてなおさら呼吸を乱そうと、整える方法ならもう身につけている。たとえパニックに陥ったところで誰も世話してくれないなら、いやでもそうなるほかなくなっていた。
ひとしきりむせた顔で空を睨みつける。
こんなことをあと幾度、繰り返せばいいのか。
ようやく思考が回り出したところで、はまぐりへ視線を落とした。なぜかしらこちらが詫びて猫缶を開けてやることにする。
缶へ頭を突っ込むはまぐりは、生きて溌溂、元気なものだ。感心するのはその確かさで、眺めていれば端末はこの部屋でも初めて呼び出し音を鳴らしていた。
「よお、クロぉ、今すぐ会ってくれよ」
辛うじて十七分だと分かるそれは声だ。
「あのショッピングセンターで、な。早く来い」
調子はそれほどまでにいつもと違い、憎まれ口のひとつもないまま通話は切られる。
「あのって、おま」
しばし呆気にとられてかけなおすかを考えた。だがどうせ出やしないなら今、じっとしていることこそ体に悪い。
まだ日は高くとも近頃、込み入ってしょうがない装備は手袋にキャップ、パーカーのフードにストールが常だ。すれ違うやもしれない人に備えて何重にもかぶると、念入りに巻き付け漏れ出す光を遮った。
「はまぐり、留守番してろ」
開けた猫缶はもうカラだ。顔を洗う姿へ言いつける。靴ひもを強く結びあげ、追手を振り切るように部屋を出た。
隣のマンションが手の届きそうな距離に建っている。十五階建てのせいで最上階のここ、十階だろうと日は差し込まず、そうまで込み入った場所を選んだおれんじは用心深かったが、だからしてどことなく湿った共用部にさなるうっとおしさは漂っていた。
そこからも逃げて尻で手すりを乗り越える。
ままに隣り合うマンションの共用部へ移った。
廊下へは降りず手すりを蹴り出し、ひねった体で壁に沿って伸びる<ruby>樋<rt>トイ</rt></ruby>の金具へ足を掛ける。ひとつ、ふたつ、足で蹴って手で樋を手繰り、途切れる手前でこれでもかと伸び上がった。指先がとらえた屋上へ、振った足を掛け身を持ち上げる。
「あのショッピングセンター」とはおそらく「ゾフルーザ」から抜け出した後、立ち寄った場所のことだろう。眼下に見定め、屋上の端から助走分をあとじさる。とはいえ周囲の地理は半分も把握できておらず、不安はあったがそれこそ夢に侵された五感を塗り替えるにちょうどの刺激と思えてならなかった
呼吸を整え深く前傾姿勢をとる。
引きつけた腕をひとたび高く、空へ向かい振り上げた。
見据えた先であの光はまた吹き上がり、遠く彼方へ飛び去ってゆく。
追いかけ腕を鋭く振り下ろした。
肝心なのは上るピッチへ遅れることなく身を預けることだ。
乗せて飛んだ。
マンションからマンションへ。
勢いのまま身を打ち出す。
跳躍はその距離が限界で、潰れるように三点着地。転がり、台形が層を成す五階建てのコンドミニアムの、屋根から階下の屋根へ飛び降りて行く。途切れたところで隣接するアパートへ靴先を切り返し、双方の隙間を手足で突っ張り降下していった。<ruby>暗渠<rt>アンキョ</rt></ruby>は街に残る獣道だ。最後、突き出た排気口を蹴って、部屋を出てから十分足らず、日陰のそこへ足を降ろす。
抜けて間昼の表通りへ出た。一人、二人、遠くだろうと歩く人の姿から距離を取りつつ、ひたすら連なる配送車の隣をすくめた首でなぞり歩く。見えてきたカビ臭い地下道へ潜り込み、反対側へ渡ったところで「あのショッピングセンター」をようやく視界にとらえていた。
その辺りからぐっと建物が減ってゆくのは以前、訪れた時と変わらない。だからして向かうことが不自然だろうと、一人きりで表通りを逸れていった。足元にはドゥカティが付けたタイヤ跡がまだくっきり残されており、壁の失せた一階フロアが大きな口を開けて飲み込んでいる。
変わらず巻きつけられたままのチェーンをまたぐと、中へと入っていった。己からもれる光がヘッドライト代わりだ。奥に、ドゥカディで駆け上がったエレベータを見つけ、がらんどうの真ん中で、上の階を支えて神殿よろしく立つ柱を見回してゆく。
どこにも人影はない。
待ち合わせの場所を間違えたか。
切り返した靴先へ視線を落とした。
見えたものに思わずポケットから手を抜き出す。
真新しい靴跡だ。ドゥカティのタイヤ痕を踏みつけ奥へ向かい伸びていた。追いかけなぞって視線を持ち上げかける。向かう柱の影で光がちらついたように見えて端折って残りを跳ね上げていた。
「クロかぁ」
柱の向こうだ。声は聞こえていた。
「十七分、か?」
確かめずにはおれず首を傾げる。
「ああ。おせーんだよ。鈍足クロが。こちとらもう待ちくたびれた、っつーんだよ」
言い草こそ間違いなく、だからこそ違和感だけが強く残っていた。
「こちとら人目、しのいで出てきてやってんだよ。呼び出すなら場所くらいはっきり伝えとけ。ともかく何の用だ。とっとと話せ」
と、十七分はそこで黙する。
「……驚くぞ」
念を押されて何のことだ、と思っていた。なら気配は睨む柱の向こうで揺れる。頭から毛布をかぶった何者かは、やにわに姿を現わしていた。誰だ、と目を細めたのは、きつく合わせた毛布の隙間から明々光が漏れていたせいだ。だとして疑う相手こそもう決まっている。
「十七、分か……」
こくり、うなずく体が揺れ動いていた。合わせていた前も静かに解いてゆく。光は視界を覆い洪水と、とたん毛布の中からあふれだした。直視できないほどの強さに辺りはあっという間に昼間と照らし出される。
遮り手をかざしていた。指の隙間から辛うじて様子をうかがえば光の中に、泣き出しそうに笑う十七分の顔は浮かんでいる。
「……おれ、こんなになっちゃった」
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