白紙に虫 20
クライマックスが近づこうとしている。
肌で感じ取っていた。
夢はさめて、見ていた誰かも目を覚ます。
野津川たちのやりとりは、それからも続いた。原稿の量にバラつきはあったが週に一度、書き進めた小説を文倉へ送信し、ワークショップの後、ひと汗流すついでに言葉を交わすを繰り返す。そこにまことが加わることもあれば、点字教室の帰りらしい、迎えに現れるだけのこともあった。
そんなまことはボクシングに関してはもう諦めた様子だ。初めて会った時のような態度を取ることはなくなり、他愛のない会話にまじると共にひと時を楽しんでいる。あがる話題といえば野津川の書く小説についてもあったが、まことも小説を書きたい、と思っているらしいことについては、それとももう書き出しているのかもしれないが、まだ一度も及んでいない。
やはり文倉の勘違いではなかろうか。
よもや聞き出したりできないなら野津川は、そんな具合に片付けてみる。
最初、素人小説に付き合わせていることを、そもそもどういう気まぐれでか読む気になってくれた気遣いを、申し訳なく感じていた野津川だったが、気付けば今では気負う気持ちはきれいさっぱり消えていた。過剰だったのかもしれない自意識は面倒になれば断ってくれるだろう、という信頼に変わると、反応をうかがい小説の良し悪しに気を揉むことも失せている。そもそも、だ。プラスだろうとマイナスだろうと、そうも誰かの気持ちを変えることができる、と思いこんでいた自身が大げさだったと思えていた。ほどに、しばらくぶりと心は穏やかと凪いでいる。目指すものは確かにあったが、目指さなければならないものはもうなかった。
一方で、そうしたいと、誰かの気持ちを変えられると信じる人の根拠はどこにあるのだろうと思ってみる。変えられると自負できるほど揺らがぬ自信、いや自尊心の持ち主なのだろうと想像した。だとすれば競う土台にすら上がれなかった自身へも合点がゆくもので、変えられない性根を再度、確認してみる。
とはいえ想像の果てに辿り着くのは、彼らの多くも結局は、同じなのではなかろうかということだ。つきつめ競い合うのだとすればなおさらで、一番上から一番下まで一直線に並べなおす、二つと同じ席がない中で、勝ち抜かなければ多くの者が同じ気持ちを味わうことになるだろうとしか思えなかった。
だとして誰も劣ってやしない。
擁護でも負け惜しみでもなくシンプルに思う。
並べなおす「仕組み」と絶対的な「価値」は別物なだけだ。
そして「仕組み」は生者の<ruby>評価<rt>モノサシ</rt></ruby>に過ぎず、「価値」はあるがまま、読み手にさえ測られることなくただ残り続ける。そして死を意識した野津川に生者の世界ははもう遠く、時間はといえば野津川として死んでいる方が、いや誰もがそうだ、生きているよりはるかに、永遠という言葉がぴったりくるほど長かった。
前にしたなら「仕組み」を理由に卑下することも、ましてや書かない、という選択枝こそ陳腐でしかなくなる。そうして比べられることのなくなった世界は孤独だが、受け入れてしまえばこんな具合に穏やかだった。理想の姿にのみ邁進すればそれでいて十分、刺激的でもあった。
証拠に並べた文字の分だけ物語は時間を進めると、展開で野津川を追い詰め奮起させている。突破すれば達成感は心を満たし、また次へとしたたか野津川を鼓舞しもした。
完結させたい。
注ぎ込んで没頭するほど己がうつしみか、死後にも残る小説は墓標か棺桶となってゆく。
しかしながら肝心の体はといえば、野津川の思いを拒み始めているようだった。文倉へ症状を確かめてからというもの文倉のみならず、いくらか遅れて野津川の発光も日を追うごとに強さを増している。文倉方式、いつからかそう呼んでいる、で光の強さを計るたび視界はじわじわ広がると、背中の発光が手足を覆い始めてからはもう、おそらく減少する体表のせいだ、進行スピードが増しているようにさえ感じられていた。
その日、ついに髪の中から光が漏れ出すようになった文倉は、ワークショップで皆へ胸の内を打ち明けている。最後、リーダーの掛け声でいつも通り手を繋ぐよう促された野津川は聞かされた話に初めて心から強く「いまここ」に集中していた。それまでの自分を薄情だと振り返るほど文倉の、自身の心身の安寧を強く願っている。
気づけば最初、出会った時の文倉と同じ有様に、いやそれ以上に体は発光していた。いやでも目に入る光はいよいよ、を実感させ、自分は死んでしまうのだろうか、などとぼんやりした疑念はもう抱けなくなる。代わりにそれはいつなのか、疑問は頭をもたげ始め、分からないならいつどうなってもいいように備えておかなければ、と覚悟が頭から離れなくなった。
なお小説へ打ち込む。
いや、それは逃避なのかもしれず、だろうと迷わず書き続けた。
疲れてベッドへ横たわり、ふと我に返って言い知れぬ恐怖に襲われ涙を流す。自身が自身を感じ取れなくなる無を想像し、想像しきれぬ深さに歯を食いしばり飯を食った。
ワークショップが終わってからのボクシングはもうルーティンだ。ただ互いはもう多くの言葉を必要とはしておらず、始めた時のようながむしゃらさもなければ茶化すような言葉も失せていた。精度の上がった拳をその日も損じず打ち込んで、受けて素早く次を繰り出す文倉と、とつとつと小説の話だけを口にする。
ひとしきり終えてベンチへ掛けた。
まことはいない。
周囲には変わらぬ活気があり、しかしながら二人の間にだけはどれほど体を動かしても拭えぬ淀みがあった。
「のづさん、だいぶ良くなってきましたよね」
水筒で喉を潤した文倉が言う。
「おかげさまで。でもフミクラの相手になれるほどは、どう考えても無理そうだな」
野津川も少し眩しい自身の手へ目を細めてから、流れる汗をタオルで拭った。はは、と短く笑った文倉の声はそこでひそめられる。
「そういえば俺たちがやっていることに気付いている参加者がいるって」
口ぶりはもう「悪事」そのものだ。そして「悪事」とは言うまでもなく「ルール」を破ったことだと知れていた。
「えっ、それは困ったな」
あの二人は何を考えているんだ。きっと周りは眉をひそめているのだろう。証拠にか、当事者となったワークショップリーダーも近頃ではあまり世話を焼いてこない。いわば業務に忠実で、親切だったが親身ではなくなっていた。
「でも文句も言ってこないでしょ。ルールがあるから」
「まあ、そうだろうね」
返せば文倉の手が、飲んでいた水筒を足元に立てた。
「のづさんはいつまでここへ」
問いかけは少々突飛だ。
「習慣になってしまったから、来れるうちは参加しようと思っているかな」
「その……」
切り出しておいて文倉は、いったん言葉を切る。
「最期は病院で?」
並ぶ二人は凸凹だったが、どちらもベンチを照らす地上の太陽のようだった。そしてもう確かにそんな時期かもしれず、率直な質問に裏表があるとは思えなかった。
「それこそ考えてないな。まだそこまでは」
即答で野津川も文倉へ態度を示す。
とはいえ病院の勧めもあり、多くの患者が言うような手順を踏むようだった。おそらく考えがなければ、いや、その頃には考えなど回るはずもないのだから医者に勧められるまま、みな同様の手続きを踏んでしまうのだろう。
「フミクラは、ご家族さんとは話し合ったり」
野津川は流れでたずね、すぐにも踏み込み過ぎたと先をのむ。文倉も、ああ、と曖昧に返していた。
「家族は身内から出た、ってことはなるべく隠したいらしいんで」
「まことちゃんだって何ともないのにさ」
せめて言うが、肩をすくめた文倉はそれ以上、語ろうとしない。つまりこの話はもう切り上げたい様子で、「俺」とやおら口を開いて言った。
「参加しようかと思って」
明かす顔にはいつもの笑みがある。
「散る会、って、のづさんは知ってますか」
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