虚盗の魚 19

 果たして一度、外れたタガはこんなにもあっけないものなのか。だが生き物は死ぬまで必ず生きており、不貞腐れた仮想の死などその毎日の忙しさに比べればままごととなる。

 飯の心配は自身のものに加えて今、ベッドの上ででんぐり返る猫についてもまただった。だからどうして生き物なんぞ飼うハメにあっているのか。俺よ、俺が死んだらどうする気でいる。独り言にもこと欠かない。

 半日前、移住を検索したマシンで今度は猫についてをとにかく調べた。世にあふれる情報をまとめて一時間後、エサにトイレに猫の玩具を早撃ちさながらクリックしてゆく。予防注射に去勢手術の項目を目にしたところで、猫のまたぐらもまた失敬した。

「……メス、か」

 みつくろった自身の食糧もろとも商品の到着は、最速設定の三時間後だ。

 これにて一件落着。

 相変わらずベッドで跳ね回っている猫へと振り返る。

「ぅおおおっ」

 当然のように小便されて飛びあがった。

 誰だろうと断らせてもらいたい。言っておくが後始末などこれまで一度としたことがないのだ。冗談だろう。口の中で繰り返し、このさい見切りをつけた古いTシャツでシミ抜きをする。

「チビのくせに、いっちょまえにくせぇぞ、おいっ」

 呻いて猫を睨みつけ、いかにもすっきりした、と言わんばかりの顔で跳ねる猫に心を折られて諦めた。再びシミと向かい合い、端末が呼び出し音を鳴らしたところで毟り取るように掴み上げる。

「誰だっ」

「ただいまの時刻をお知らせいたします」

 真面目腐ったその声は、ぴ、ぴ、ぴ、ぽーん、と歌っている。

「十七分でぇすっ」

 デカすぎる声に耳を、端末から遠ざけた。

「うるせぇ。普通に名乗れッ」

 にもかかわらずなにをやボソボソ話し出すのだから面倒臭いことこの上ない。

「あぁんっ」

 耳を端末へ押し付けなおす。

「だからクロちゃん、今日もジム行こうぜぇ。俺のハートに火が点いちまった」

「知るか。とっとと燃え尽きろ」

 そういえば、とついでに確かめたルーターの時刻はといえば、午前八時だ。

「他に誰もいないんだってばぁ」

「あのな、おれんじから連絡はきていない。俺を張ってもムダだ」

「だって埃まみれだろあそこ。一人じゃどうにも陰気くさいんだよぉ」

 言う十七分の戦法は今日も聞かない、の一点張りらしい。

「こっちはくっそ忙しんだよ。暇なんかねぇ」

「え。忙しい、って一体何してんだよ。お前」

 思わず言い放ち、十七分に確かめられる。

 格闘中のブツはもうこすったところでどうにもなりそうになく、こりゃダメだ、でシーツを剥がしにかかっていた。

「猫がベッドに小便しやがった。くせぇんだよ、ったく」

 なら口は災いの元だ。なにクロお前、猫、飼い始めたのかよ。から始まった十七分はがぜん「猫」というパワーワードに飛びつき、着火剤のようなハートとやらは幾つあるのか、また勝手と燃して見たい、見たい、を連発させる。切るぞ、と突き付ければ昔、ワンコという名の猫を飼っていた、と切り出し、すかさず確かあのマンションだったよな、とウロ覚えらしい口調でしかしながらズバリ、住所を言い当てると、ジムは諦めた。にゃんこを愛でに行くと断言してみせた。お前こそ他にすることはないのか。即座に嫌味で返したはずも、昼前の到着を告げた十七分にとっとと通話は切られていた。

「お前こそ光って死ねッ」

 その前に、こちらが瀕死でシーツを洗う目にあう。

 干してさらにマットレスのシミへと挑んだ。

 任せていつしかマシンの椅子で眠る子猫は、すでにここを自分の住処と決めた様子だ。柔らかそうな腹を無防備と上下させている。

 眺めてまさに放心状態だ。九時をまわったところでついに汚物から解放されていた。

 目を覚ました子猫が再び我が物顔と走り回る午前十時。届いた宅配を受け取りに地上へ降りる。

 どういうことだ。

 猫の荷物が自分のそれよりデカい。

 納得のゆかないまま部屋へと戻った。

 マイクロウェーブの照射も立派な調理だと皆、自負していい。解いた荷からパンケーキのベーコン添えを取り出し早速、封を解く。調理時間は六百ワットで三分。待てずレンジの前で仁王立ちを決め込み、その足元へ立てた尻尾ですり寄り飛びつく子猫へ目を落とした。まだ数時間とはいえ同居人だ。無視しかねて買ったばかりの猫缶を開けてやることにする。

 だがこちらが出来上がったパンケーキのベーコン添えを食い終わっても、子猫は缶へ口を付けようとしなかった。

「おま、グルメなのか」

 理解できず最後のベーコンを口の中へ押し込んだフォークですくって、味見する。旨くはないが、それはマズいとも言えない極めて健康的に薄味志向のペーストだった。

「参ったな」

 吐いて缶の前から立ち上がる。

 いや待てよ、で食ったら出すに違いない、と買ったばかりのトイレへ振り返った。瞬間、背後に気配は過る。

「猫ちゃぁんっ」

「ベルくらい鳴らせぇッ」

 飛び込んで来た十七分へと叩き返した。だが十七分の勢いが失せたのはそのせいではないらしい。証拠にしばたたかせた目で部屋の中を見回している。

「穴倉か、ここ」

 なるほど確かに十七分がこの部屋を訪れたのは、狩りのタイムを競った直後だった。ツルむきっかけとなったあのときはまだ部屋に日が差し、体も光っていない。だからして一変させて窓を塞ぐマシンに気づくや否やは、十七分は一直線と駆け寄ってもゆく。

「うおーっ。なに、これ。すげぇじゃん。なに、コイツで刈ってんのかよ。んで二人で、ハイ、いちゃいッ……」

 調子にのるその頭を叩いた。

「猫、見に来たんだろうが」

「別の子猫ちゃんもいたりして、と思ってきたけど」

「連絡は来てねぇっつったろう」

「それにしても暗ぇな。おま、光ってるから節電か」

 頭をさする十七分の返事はいちいち面倒くさい。

「しても、コイツをフルで稼働させりゃ、追いつかねぇよ」

 返してやれば、ふぅんと聞いていた十七分の目は一点を睨んでそのとき寄った。

「いたいたっ。猫ってお前、子猫じゃんかよ。ひゃぁー、けわイイっ」

 孫に会ったジジイか。声を上げるなり手をすり、足をすりだ。この乱暴な登場にベッドの下へり込んだ子猫へ近づき這いつくばった。こいこい、と誘ってやがて、ためらうふにゃふにゃしたその体を引き寄せ強引に胸へと抱き上げてみせる。

「おー、俺のはまぐりちゃん。これはカワイイねぇ」

 だからどうしてそうなる。

「勝手に名前をつけるな。そのセンスもなんとかしろ」

 思いっきりの頬ずりも、なぜか見ていてほっこりできない。

「気にしない気にしない。あのお兄さん、ずっと怒ってるからねぇ。こわいねぇ。世界の終わりみたいに不幸面してると、ああなっちゃうからダメだよねぇ」

「うるせぇ」

 のぞき込んだ子猫の顔へ話しかけ、これまたぐりぐり頬で撫でまわした。

 とはいえ半分ほど当たっているのだから、どうしようもない。腹立ちまぎれだ。話を逸らすことにする。

「それより、そいつ、エサ食わねぇんだ。お前、前に猫、飼ってたんだろ」

 おっつけアゴで空けたままの缶も示せば、チラリ、見やった十七分は子猫を肩へ抱え上げた。拾った缶のラベルへ目を通す。

「こりゃ、成猫用だ。子猫にはまだ早いぜ」

 教わることは確かにいくらかあるらしい。

 仕方がない。

 取り寄せたばかりの牛乳を皿へ開けてはまぐり、いつしかその名前に決まってしまっている、へ与えてやる。少し鼻を付けてから舐め始めたはまぐりは、それがお気に召した様子だった。今度はこちらへ見向きもせず、一心不乱とたいらげてゆく。

 あいだ、トイレの用意に取り掛かった。十七分先生様は慣れた手つきでトレイの中へシートを敷くと、猫砂とやらを敷き詰める。それらを取り換えるタイミングを教わったなら、ここで用をすませるようしつける必要があることもまた知らされていた。

「マジか」

「ちゃんとやれよ。おれんじさんを小便の中で作業させられねぇ」

「その前にここは俺の家なんだよ」

「ああ、なんでおれんじさんが、こんなところにっ」

「選んだんだのはあいつだ、っつうの」

 頭を抱える十七分は相変わらず都合の悪い事は聞かない戦法らしい。かと思えば興味の向くままだ。底が見え始めた皿の前へと屈み込んだ。

「お、おりこうさんだな、完食か」

「なんだ、まだやるのか」

 どうにも加減が分からない。

「必要なら催促してくる」

 そうか、とこちらも隣へ腰を落とした。

 たいらげ、ピンク色の舌で口の周りをなめて繕うはまぐりは、それだけでもう感謝の意を示しているように見えてならない。

「何かあったら、頼むな」

「おう」

 そしてこういう時の十七分の返事にはいつも過不足がなかった。

 その指が、こりこりはまぐりの喉をくすぐる。はまぐりも心地よさげと身をゆだね、閉じた目を見ているうちにこちらもくすぐられているような気分になって頬を緩ませた。

 破ったのは部屋のドアだ。

 やにわに大きな音を立て開け放たれる。

 十七分もろとも屈み込んだそこから弾かれたように振り返っていた。

 おれんじだ。ヘルメットを手に立っていた。

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