虚盗の魚 18

 ビールのせいで目が覚める。小便にせかされ夢を彼方へ飛ばしていた。ただ起き抜けの気分だけはやけに爽快で、なにやら笑っていたことに驚かされる。

 夢のせいだ。だとしか思えない。だがどんな内容だったのか。これほど浮かれ切っているというのに、そのいきさつだけがすっぽり抜け落ちていた。

 つまりいい夢を見ていたはずなのだ。

 つまみ出そうと記憶を探る。

 探りながら用を足し、つまめぬまま渦巻く水流を見下ろした。

 そんなこんなで憑き物が落ちたかのごとく心身共にスッキリし過ぎて、心持ちに拍車はかかる。時刻はあろうことかまだ朝の四時だった。夜明け前の静けさもまた独特ならなおさら目は冴え、二度寝こそできそうもなくなる。

 耐えかね冷蔵庫を開いていた。

「なんも、入ってねーな」

 当然だろう。ここしばらくネットスーパーさえ利用していない。いい加減、注文しなければ朝メシもおあずけになりそうで、締めマシンが覆って見えもしない窓へ振り返る。

「自販機まで、行くか」

 この時間ならなおさら人に会うことはないだろう。服装は軽めで十分だと思え、いつもの黒だけを羽織るとジップを引き上げる。静けさをかき分けいそいそ部屋を出た。

 表はまだ暗いが暗さの底はもう割れている、と当の暗さが伝えている。どんな時間帯だろうと宅配車はその中を、等間隔をおいて行儀良く流れていた。

 「ゾフルーザ」のことがあるため通り沿いへ出ることはなるべくひかえる。同じ形をした別棟との間を抜け、宅配車の入り込めないマンションの裏手へ回ると、建て込むマンションとマンションをつなぎ通りと並行に伸びる小道へ出た。無論、通る者など誰もいない。だからして手入れされることのなくなった植え込みも行く手を遮り伸び放題だ。

 もう癖になっている手をポケットに押し込み、枝を蹴散らしただ歩いた。

 そのたび跳ねる枝葉はリズムを打つと両側を流れて行く。

 わさ、わさ、と。

 しなやかかつ軽快に。

 リズムに囲まれて視界が色づく。中から浮かび上がってきたのはトラックの、跳躍へ挑む選手がやおら高く振り上げた腕だ。

 真似てヒジ振り、蹴散らすだけだった足で小さく跳ねてみた。

 起き抜けの気持ちはちょうどとそこに噛み合うと、なおさらついた調子に歩調を早める。あおる茂みのリズムに合わせ、小走りと駆け出した。なら中途半端こそ体に重く、振り払ってポケットから手を抜き出す。

 否や前へ倒した体は加速の合図だ。

 行け、と夜明けも小さく告げている。

 従い地面を蹴りつけた。ぐい、と空へ押し出す脳天で、膜と張られた景色を突き破る。加速はリズムだ。締め上げた全身の筋肉と鼓動を連動させた。ままに行く先の丁字路に立ちふさがる二棟寄り添う三階建てマンション、そのエントランスへ続く階段を三段飛ばしで駆け上る。最後のひと蹴りで手すりへ飛び移り、蹴って右棟一階の庭、囲う腰壁を足場に変えてエントランスのひさしへ上がった。はさんで左右、建つ二棟の間隔は、両手を広げて余るほどか。見上げて半歩、後じさり、つけた反動で右の壁へ身を撃ち出す。蹴りつけたなら百八十度反転。左を蹴りつけさらに右へ、と繰り返しながら登る。

「……しッ」

 突き出す三階のベランダ、腰壁に手を掛け上へと上がった。

 伝って移動したのは四軒分。角部屋から併設するガレージの屋根を見下ろせば二段式と高く、飛び降り、足から肩への三点着地で衝撃を逃す。勢いのまま立ち上がって寄り添い建てられた街灯へと飛びついた。繰り出す水平の大車輪でフェンスの向こう、公園へ身を撃ち出し、転げた地面で落ち葉を巻き上げ立ち上がるや否やベンチを目ざす。

 右足で、蹴りつけフェンスへ飛んだ。

 左足で、フェンスもまた蹴りつけ宙で四肢を泳がせる。

 自由を感じるとすればいつもこんな無抵抗極まりない態勢の中だ。経て道を挟んで突き出たベランダの腰壁に、引っ掛けた指へ体を預ける。さらに体重をかけて両足もまた腰壁へ突き立てた。蹴り出すと同時に両手を離し、さらに上層の腰壁へ身を放つ。掴んだならもうひと跳躍。向かい合わせと建つ別棟のまさに角へ飛ぶ。柱を半分、埋め込んだようなデザインの、だからして抱え込むように回した手でしがみついた柱でしばし、息を整える。整えながら行く先はもうそこしかない、と視線を上げた。そこにせり出すひさしは、わずか頭上を覆っている。

 おもしれえ。

 四肢が届く以上の四方を求める。

 だから十七分は悔しがるが、このルートで失敗した試しはない。

 できる、とだけ知っていた。

 体ごとだ。

 できる。

 柱を突き放すと同時に反らし、精一杯、体を伸ばした。

 わずか触れた指先に全てを託す。

 息をしている余裕がない。

 両腕の力だけで残りを持ち上げてゆく。

 やがて宙で空回りしていた爪先が壁をとらえていた。

 支えにしてゆっくり体を押し上げてゆく。

 「狩り」へ向かう時はこうしていつも高見から、車列を眺めていたのではなかったろうか。登り切った屋上で詰めていた息を吐けば全身が、急ぎ酸素を求めて波打った。だが苦しさとは程遠く、心地よさだけが全身を駆け巡る。

 バカじゃないのか。

 味わうほど自らへ浴びせていた。

 どうしてこいつを手放そうと思ったのか。

 心持ちはまったくもって目覚めて覚えたあの愉快さにつながっていた。

 もう、こみあげてくる笑いが止まらない。

 連れ出してくれるなら夢のある場所にしてくれよ。

 衛生局のサービスは案外、ホンモノじゃあなかろうか。何を見たのか覚えはないが、確かにその気にさせられ辿り着いていた。

 一段、低く建つ隣のビルまでは二車線分の距離がある。駆け出し踏み切り、飛び移った身を転がして衝撃を散らし、起こしてひとたび宙へ身を打ち出した。ひとつ、ふたつ、と渡るのは、ドミノのように並んでマンションから通りへと導くアーチで、踏まずぶら下がった三つ目から地上へ降りる。

 目の前を配送車は流れている。

 さて、無人店舗最後の名残と文化遺産化している自販機タイプのコンビニは、この通りを渡った向こうだ。こうなれば爽快な朝食は確定で、鼻歌交じりで歩き出す。聞えて早々に、繰り出したばかりの足を止めると首を傾げた。

 はてなんだろう。

 もしや、と過るのはそういう「声」だからだ。まさか、と辺りへ目を這わせてみる。なら今度こそはっきり「ミー」と聞こえ、追いかけ、流れる宅配車の列をのぞき込んで身を屈めた。そこで目にしたものに二度見を繰り出す。

 猫だ。

 しかも恐ろしく小さい。どういうわけだか対向車が擦れ違うセンターラインの上に、ぷるぷる震えてうずくまっていた。

「おい、何してんだよ」

 おそらく緊急車両を優先して宅配車が停止したさい、侵入したに違いない。様子は次の瞬間にも踏み潰されてしまいそうで、見ているこちらの方こそ身の毛がよだった。

 だからして、やれやれ、と思えたのはすでにひとっ走りしてきたせいにほかならない。もうついでだ。通りの左右をうかがう。そうして繰り出す芸当は「狩り」で何度も披露してきたもので、ボンネットの突き出た宅配車がやってきたところで車体へ向かい身を投げた。ボン、と鈍い音はするが、そのさい受ける衝撃は丸めた体でやり過ごすのがコツで、乗り上げたボンネットから地面へと転がり落ちた。とたんこの宅配車はセーフティを発動させる。引き起こされた人身事故に車列は、見る間に果てまで緊急停止していった。

「そら、よっ」

 スキにセンターラインにうずくまる毛玉を拾い上げる。抱えて身を振り、車両の間をすり抜け走った。

 事故を知らせる宅配車が、背後でサイレンを鳴り響かせる。おっつけめがけて救急車は現れ、被害者がいないなら治安局員が駆けつけるのが一連の段取りだった。

 だから俺は一体、何をやっているんだ。

「ひゃっはッ」

 思えば声も上がってしかり。テナントビルと潰れた個人商店の間へ飛び込む。商店裏のボイラーへ蹴り上がると、右の壁へ九十度、捻った体でワンクッションはさみ瓦屋根へと飛び上がった。渡る足ごとに瓦がぐらつくのは古いせいだ。途切れたところで隣接する家屋の窓枠を足場に、さらに高みへ蹴上がる。

 高低を繰り返して連なる民家の屋根はツギハギそのものだ。

 飛び降り、蹴上がり、繰り返して公民館、とはいえもう使われていない、のかまぼこ屋根へ静かに降りた。屈めた腰で軒まで一気に滑り降り、地下駐車場の入り口があることを示す塀、その手前へ飛び降りる。

 もういっちょ。

 つけた反動で奥の塀へ飛び移った。

 惰性できわの植え込みもまた飛び越え、地上へと降り立つ。

「っぱー」

 まさか握り潰してはいないよな。

 そうっと猫を下ろしてやった。飯は後回しになったが仕方がない。淡く光る手の中からヤワな毛玉が溶けるように地へうずくまるってゆくのを見届ける。

 じゃぁな、で脳内、帰路を組み上げにかかった。

 そうして三歩と離れたところで「ミー、ミー」鳴かれて思考を凍りつかせる。

 後ろ髪をひかれる、とはこのことか。

 振り返れば猫はそこでぷるぷる、震えていた。

「ウソだろ、……おい」

 言葉は己へ発したもので、そんな猫は連れて帰るしか、なくなっていた。

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