白紙に虫 17

 いきなり増えた読者には面食らうほかないだろう。しかも見ず知らずで、不意打ちの今日が初対面なら心中、いろいろ穏やかではいられない。そのうえミット打ちモドキの会話も聞かれていたとくればどんな顔を向ければいいのか。いや、まことには見えていないはずだったが、ともかく落ち着かないことこの上なかった。

 それでもどうにか原作者としてのあいさつを終える。

 文倉から聞いたものに追加して、いくらか感想もまたもらった。

 どんな内容だったのかよく覚えていないのは失礼だが、まだその時は動揺していたのだからしょうがない。 

 そういえば学生の頃だ。こんな具合に友人らの間で書いたノートは回し読みされていやしなかったか。懐かしくもあり、思い出せたことは幸いというやつだった。しかしながら面と向かってであればこそ本当のところなど言えるはずもなく、きっと気を遣わせているに違いない。思うまま深入りすることだけは避ける。贅沢な時間を浪費することは財源のある者だけができることで、食い尽くして無くす庶民にとってはほどほど、が授かり続けるコツというものだった。

 経て、芝を降りロータリーへ向かう。

 そこでようやく野津川が切り出す勇気を持てたのは、文倉の症状についてだ。一台もタクシーが停まっていないロータリーにまことを残し、離れて発光が強くなっているんじゃないか、と文倉へ確かめた。そんなやりとりこそ「ルール」に反していたが、もうひと月経っていたなら今さらというもので、文倉も認めてうなずき特に口にするほどでもないと思ったので、とワークショップでは伏せていたワケを明かす。それから少々興味深いことを野津川へ語ってみせた。

「これ、それこそワークショップで言うと不謹慎にとられそうでやめてるんですけれど」

 前置きがすでに文倉っぽい。

「俺、進行具合をはかる方法を編み出して、先週から毎日、続けてるんです」

「な、なんですか。それ」

 まるで怪しげな民間療法がある、とでも聞かされているような気分だ。

「いやこれ絶対、間違ってないですよ。部屋でですね」

 説明して文倉は腕を広げ、そこへ自身の部屋を呼び寄せた。

「明かりを消して、カーテンも閉めるんです。もちろん夜ですよ。徹底的に暗いことが正確に測るためにも必要なので。あともうひとつ、毎日、同じ場所に立って下さい」

 つまり文倉は野津川へもやれ、とすでに言っているらしい。

「で、全部脱ぐんです」

「全部?」

「部屋のどこまで光が届いてるかで、発光の強さが分かるんですよ。昨日はカーテンレールの端までだったけど、今日はそこを少し越してるなって感じです」

 発光以外、別段、症状のない患者の通院は経過観察と称して月に一度が通常だ。治験にでも参加したなら話は別だが、それはそれで箸の上げ下ろしまで完全管理されてしまうため、ほとんどの患者が選ぶことはなかった。だからして自身の状態については日々、主観の範疇を出ず、文倉のいうやり方は確かに的を射ていた。

「このところ俺、少しづつ強くなってます」

「次、診察は?」

「かっちゃん、タクシーが来たっ」

 離れた場所でそのとき、まことの手は振り上がる。見れば今しがたローターリーへ乗り上げたばかりのタクシーが、楕円をなぞり滑り込んできていた。

「この間、受けたところなんで来月」

「続き、またメールしますから」

 咄嗟に出たそれは約束だ。

「まことが野津川さんと同じような事、したいみたいなんですよ。デジタルで最近は便利になってますけど、だから点字も習い始めてて」

「かっちゃん、待ってもらってるよっ」

 開いた後部座席のドアを手で探るまことの声が響いている。

「次、トレーニング、どうしましょうか」

 向けられた文倉の笑みは困ったような、はにかむような具合に潰れていた。

「負担でなければ」

 野津川が打って返えせば待っていたに違いない。文倉の眉間はいつも通りと開く。

「じゃ、のづさん」

「また来週」

 早く、とまことが呼んでいた。

 向かい文倉は走ってゆく。

 文倉がタクシーを使うのはおそらく人目を気にしているからだろう。まだ発光が背中にとどまっている野津川はいつものバスで帰路につく。手前の駅で降りて買い物を済ませ、部屋のドアを引き開けた。

 取り込む洗濯物はいい具合に乾いている。

 片付け、文倉へメールを送ろうか考えた。だが何をと、とすぐにも行き詰まり、変に騒ぎ立てているのは自分の方じゃないのかと思いなおす。

 来週にはもう、なんてありはしないだろう。騒ぎ立てる方が望んでいるようで不吉なものを感じてならず、いつも通りだよ、唱えて一度、下ろした腰をパソコンの前から持ち上げた。時計を見上げ、デスクの傍らに立てていた小説の資料から無造作と飛び出す茶封筒に首を傾げる。

 何だっけ。

 思うままに引き出した。出版社からの返事だと知れてすぐにも、ああ、と一人ごちる。

 たかがひと月前のことだというのに、もうそれはどこか遠い昔の出来事のように思えていた。ふさぎ込んでいた自身を別の誰かのようにすら感じている自身もまた、不思議に眺める。

 たとえばふさぎ込まねばならぬほど、それを信念として必要とする時はあるとして、解かれて漂えば広い原っぱで予想外の景色に出くわすこともまたあるらしい。

 それだけのことだ。

 それで十分だと思えている。

 いや、それっぽっちでいいのか。

 問われれるだろうが、それっぽっち、なのはもうとうに知っていた。ただ大事なことは思い知るだけでなく、本当に分かっているのかどうか、なのだろう。

 最後に、と目を通しかけてやめる。

 ねじって潰し、ゴミ箱へ落とした。

 少し早いが頃合いだ。夕飯の準備に取り掛かることにする。週に一回とはいえ文倉が運動を習慣づけてくれたせいでとにかく飯が旨かった。達成感のようなものも得ていたなら面倒だと思えていたことも近頃、まったく苦にならない。

 本当に自分は致死性の病を患っているのだろうか。

 買い込んだ食材を広げ、意気込みパソコンからメニューを引き出す自分を疑う。気づけばそんな疑問など忘れて画面に貼られた写真とは似ても似つかぬ「料理」を完成させ、そのロールしていないロールキャベツを平らげ皿を片付けた。

 くつろいだのちに、テーブルから立ち上がる。昼間、聞いた文倉の話だ。思い出したことがきっかけの展開は、ちょっと人に見せられないほど脈絡がなく、唐突さが間抜けた一部始終でもあった。

 カーテンを隅まできっちり閉め、明かりを落とす。問題は部屋のどこに立つかで、間違いがないと言えば壁際だろう。玄関から一番遠い壁際にあるベッドの上に立った。満を持して壁へ背を添わせ、着ていたものを脱いでゆく。

 ぽう、と光が差したのは壁に反射した背中のそれだ。部屋は変わらず真っ暗で、ただ脇の辺りに確認していた。

 左右、体を振ってみる。

 患部をのぞきこみ、ねじりもした。

 様子は発症を確認した時からほとんど変化していない。そんなこんなで、ああだこうだと試行錯誤しているうちにも、暗闇で一人、すっぽんぽんになってこんなことをしている自分に我に返る。尋常でない何かを感じてもうこれくらいにしておこう、と切り上げた。

 服を着なおし、何事もなかったかのようにすました顔でカーテンを開く。すっかり夜になった街は明かりを灯すと、山は今日もまた端から短くサーチライトを立てていた。

「バッティングセンター、かなぁ」

 距離のせいでかすむライトは淡くベールをかけたようで、しかしながら闇を裂くと天へまっすぐ伸びている。様子は力強く、眺めるほどに見る者を清々しい気持ちで満たしていった。

 だから、で間違いないだろう。

 だから早く続きを仕上げてしまおうとパソコンへ向かう。

「間に合わせないと」

 もちろん来週のワークショップの分だ。

 なにも可愛い読者がいることを知ったせいではない。そもそも文倉のお節介が的外れである、ということもあった。ただ繰り出す拳よろしく、そのときだけは周囲の景色が失せていた。考えることは多くあったが何も考えずに済んでいた。

 かつては止まっていたことが嘘のような具合だ。指は書きたいことだけを今日も文字へ変えてゆく。

 紡ぐ心は確かに軽く踊っていた。届かないと思えた彼方をまっすぐ逸らさず、見つめていた。

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