白紙に虫 16

 登場は唐突だった。

「戸田まことと言います。いつもかっちゃんがお世話になっています。ご迷惑、おかけしてませんか。かっちゃん、ちょっとわがままでしょう。ボクシングが強かったからって、周りにチヤホヤされたのがいけないんです」

 名乗ってすぐさま目の前の彼女は並べ立て、押されて野津川は文倉へ目を泳がせる。

「あ、あの。……か、かっちゃんて」

「あ、俺のことで。<ruby>一也<rt>カズヤ</rt></ruby>なので」

「ああ」

 だろうことは分かっていたが、確かめずにはおれなかった。つまりそんな野津川の目の前にいる彼女こそ、文倉と一緒にいるところを何度か見かけたあの「彼女」だった。文倉とこうして話すようになってから四度目のワークショップ終りだ。ついに野津川は文倉から紹介されていた。

「い、いえいえ。こちらこそお世話になっています。ボクシングも教えてもらっていて」

 顔の前で懸命に手を振り返す。とたん大きく息を吐き出した彼女は全身で「落胆」の二文字を表現してみせた。

「かっちゃんっ」

 栗色の巻き髪を揺らし文倉へ声を大きくする。

「あなたも病気なんでしょ。もしこちらの方に何かあったらどうするのっ。責任とれるのっ」

 いや「こちらの方」などとむず痒いことこの上ない。

「ああ、野津川と言います。野津川です、ハイ」

 急ぎまた頭を下げる。かつ恐縮してしまうのは雲行き怪しい二人の様子をビシバシ肌で感じてしまうせいで間違いなかった。

 ハタチはどうにか過ぎているだろうか。しかしながら文倉より年下で間違いないまことは、すらりと伸びる足もツクリモノかと思うほど華奢で小柄な女性だった。だが実際は、そんな様子から抱くイメージにおさまるタイプではないらしい。

「聞こえていますか。かっちゃんっ」

 念仏を聞く馬の耳へ繰り返す。剣幕には思わず野津川の方が弁解してしまうほどだった。

「あ、あの、ぼくなら大丈夫です。病気ですけど運動不足だったので、むしろ調子がよくなったくらいで」

 いやいや、自分で言っていて意味がよく分からない。

「何いってんだよ。まことも教室には通ってるだろ」

 ようやく文倉も面倒臭げと口を開く。なら向かってまことは、なおさら胸を反り返らせていた。

「あたしの病気は先天性なんです。原因はわかってるし、進行だってもうしないんだから。見えないのがあたしの普通なの」

 その通りと、長いまつ毛の奥でくりくり動く真っ黒な瞳は何も映していないらしい。初めてフロアで見かけた時と同じように組んだ腕に引かれて現れた彼女は、文倉から恋人だというより先にそう紹介されていた。つまり、文倉に付き添い世話を焼いているのだという野津川の見立ては、とんだ勘違いだったのである。

「ずっと待ち合わせの時間を遅らせてくれって言うから、何してるんだろうと思ってたら」

 言うまことの言葉をまた聞き流す文倉は、口笛でも吹き出しそうだ。かと思えば野津川へ、ぐいと身を乗り出していた。

「じゃ野津川さん、今日もコレ」

 懲りず、誘って取るのはファイティングポーズである。だがこの場を回収する手はもうそれしかない。野津川も高速でうなずき返していた。

「ああ、はいはい。す、すみません。ではちょっと失礼して」

「えー。うっそぉ」

 聞えたまことが呆れてたちまち頬をぷう、と膨らます。手を引きベンチへ案内する文倉の立ち居振る舞いは、しかしながら紳士だった。

 しこうして不満げな面持ちで人形さながら腰を下ろしたまことを前に、いつも通りと準備運動から始めてゆく。さすがにもう人目は気にならない。周囲もいい加減、いつもの二人だ、くらいにあしらっているのではないかと思える。

 ほどに集中できるようになったミット打ちもどきはといえば、まだフォームも崩れがちで不細工なままだった。始終、ガードが下がってきただの、拳をもっと早く引き戻せだの、文倉に注意されている。だが矢継ぎ早と放たれる指示に混乱してバラバラだった手足はずいぶん思いとおりと動かせるようになっており、それだけでも気持ちはすいていた。何事も上達すれば愉快なものだ。加えて拳を交わしながら送った小説についてを話すことが今ではもう、楽しみのひとつにもなっていた。

 そんな意見交換は余計なことを考えるヒマもなければ、続かない息にいつも端的だ。だからしてやり取りrぴ7入った「議論」にもつれ込むこともなく、感想というほどもない確認程度の内容に終始している。ゆえに「期待」されるでもない一部始終は終ればまさにノーサイドと、引きずることもありはしなかった。

 楽しい。

 単純に思うのは、とんでもなく久しぶりのような気がしている。

 思いきり。

 なんて、いつ以来のことか想像もつかない。

 ただ今この時へ集中し、文倉が繰り出す的を狙い続ける。ときおり文倉も手を出すようになっていたなら、大げさなまでに振った体で野津川は避けてみせることもあった。

「最後はもう、決まってるんですか」

「だいたい、……はっ」

 言う文倉の口元、左右に出された手のひらへ、野津川はワンツーを繰り出す。スピードはないがその分どうにか的へ当てることができたなら、手ごたえは文倉も感じ取っている様子だった。

「でも、助からないですよね、主人公」

 片方の拳をもう片方の手のひらへパンパン、叩きつけるとリズムを意識させ、狂わせることなく半歩、また左へと回り込んでゆく。

「助かりたい?」

 追う野津川がめがけて、右のジャブを繰り出した。かわして野津川は、すぐにもかざされたその手のひらへ左、左、と拳を打ち込みながら前へと出てゆく。

「ナイス。あのシ―ンは絶対、体験からでしょ」

 などと最中なら、文倉が言わんとしていることは明らかだった。

「どう書いても。成立するからっ」

 今度は右、右と、文倉を押して前進した。

「ずるいなぁ」

 本来ならこの辺りで小休止のはずだったが、このところの様子から文倉はまだいけるとふんだらしい。

「足、止めない」

 あおって体から少し離れた位置へストレートを誘う。それはまさに叩きつけられた挑戦状で、踏ん張りなおしひねった腰で、野津川は拳を放った。だがパンチはだいぶ逸れた様子だ。受け損ねた手を文倉は宙で泳がせる。

「左、下がってます」

 注意して、新たなワンツーを真正面に誘った。締めなおした脇で、改めそこへ野津川は拳を叩きつける。

「ズル、イってっ?」

「巻き込んだじゃないですか」

 その下心は確かにあった。だからして助かるのかどうか気になるのだとすれば、それは野津川でさえ同じだろう。テクニックで書いているのではないなら、自らへ仕掛けなければ出せない結末、というものがあった。

「小説は、ツクリモノっ、だから」

 これが追い込み、とかいうやつか。上がる息にむしろ黙ってはしのげなくなっていた。だが右、左、と容赦なく人を操る文倉は、まだ五十メートルダッシュでもできそうなほど軽々と身を躍らせている。

「ホントウがっ」

 ラスト。

 かけられた声に、野津川はくそう、と歯を食いしばった。そうして睨みつけた文倉の肩口に手は掲げられ、頭からだ。めがけて拳もろとも、これが最後と突っ込んでゆく。

「必要なんでっ」

 なんともこっぱずかしい自論を。

 だが恥ずかしくて言えなかったことなら、口にできた後はひどくスッキリしていた。なにしろ病院の真ん中で珍妙な行動をとる二人である。誰が真面目に聞いているというのか。

「お話しも、楽しそうでしたよね」

 ふうふう、息を弾ませ腰を下ろしたベンチで、まことの声にぎょっ、とさせられていた。拾い上げたカバンの中からタオルを抜き出す手さえ止まる。

「なぁるほどぉ、そういうわけだったんだ」

 ふーん、と唇を尖らせたまことは意味ありげで、その向こうに文倉も腰を下ろしていた。

「お、地獄耳のまこと」

「目の分、耳に血が回ってるの」

「お、お世話になっているというのは、そういうこともありまして」

 流れる汗を急ぎ拭ってともかく野津川は頭を下げた。

「お前もそのうち書かれるかもな」

 つまんだスウェットをバタバタさせていた文倉が、袖もまたまくり上げる。太陽光の下だというのに発光は、そのとき野津川の目にもはっきり映り込んでいた。

「楽しみ」

「え」

 聞えて我に返る。

 楽しみ、って今、言いましたよね。確認はおそらく顔どころか体中から噴き出していたことだろう。

「わたしも読ませてもらってます」

 立て続け、まことは明かしていた。様子はあっけらかんが過ぎて、野津川の喉で事態は丸ごと渋滞する。

「……え、目が」

「メールで送ってくださっているもの。音声読み上げで楽しめますよ」

 それを指示したのは文倉だろう。

「おおおおおっ。文倉さんっ」

 もう脳内、文章すら組み上がらない。

「読者を、今日は紹介しておこうと思ったんです」

「かっちゃんの感想、半分あたしのパクリじゃない」

 やはり文倉は変なヤツだ。まことは言い、野津川はもはや変な声も出せず一人、固まる。

「小説、寄り道とは関係ないと思ってた。やっぱりかっちゃん、わがままよね」

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