虚盗の魚 14
きゅ、きゅ。
マットが鳴る。
なんだよ急に。
と、不機嫌を装う十七分へは思い出しただけだ、と返していた。
そんな十七分は軽快なステップを踏むと、目の前、忙しく視界を出入りしている。動きはランダムなようで明らかに意図があり、こちらも読んで阻みながらその体を、徐々にロープ際へ追い込んでいった。
見はからい、大きく踏み込む。
左のジャブを放った。
バン、とスパークリング用のヤワいグローブは派手な音を立て、ガードする十七分と押し合いながら右ストレートもまた繰り出す。十七分のこめかみを擦って拳は空を叩き、入れ替わりと空いた脇にボディを食らっていた。ガードし下がれば押し込んでいたはずのロープ際から十七分は、ここぞとばかり抜け出してゆく。
リングを大きく使い回り込むと再びきゅ、きゅ、とマットを鳴らし、跳ねてグローブとグローブを叩き合わせたなら、つけた勢いに乗るままこちらへ大きく踏み込んでみせた。
放たれる右のジャブ。
胸でかわし、交差させて左を目の前にある十七分の横面へねじ込んだ。
右、左。
連打すれば、小刻みと低い姿勢で十七分はかわし、ままに間近と睨み合う。そうして狙うのは相手が動き出すその前であり、打ち終えたその後だ。カウンターを放ち、放たれ、ガードし合えば互いはそれきりほどけることない険悪なコーヒーカップとなってリングの上を回った。回って煮詰まり、跳ねのき距離を取りなおす。
そこでアラームは鳴っていた。
「病人、だからな。手加減、したぞ」
急には止まれない足を持て余し、荒い呼吸で十七分がグローブを突き出す。
「どういう、言い訳だ」
こちらも汗を払ってただ返した。
そんなジムには今、二人しかいない。通りに面したせいで賑わっていたここも移住からくる過疎には勝てず、閉鎖されていくらも経っている。
その営業最終日だ。汗を流しに訪れると、好きにしろ、とジムの鍵は渡されていた。だとしてオーナーとは特別どういう関係でもなかったはずである。思い当たることがあるとすればこちらが「狩り」へ出ていることに気づいていたのではないか、というくだりで、なぜなら防犯カメラや地図では把握しづらい裏道や建物の隙間を抜けて逃げ切る陸の「狩り」はそうそうテリトリーを変えることができない。知っていて引っ越しはしないだろう。判断し、鍵を預けることにしたのかもしれなかった。
それきりジムは白く霞むと埃を積もらせ、今や壁に貼られた鏡だけがかつての名残と鋭く光を反射させている。
前において、汗臭いを通り越してカビ臭いヘッドギアを脱ぎ捨てた。マジックテープを剥ぐと拳もまたグローブから開放してやる。
「だからお前は本当に病人なのか、ってこと」
めがけて十七分がスポーツドリンクを投げてよこした。受け取めキャップをひねれば、ぷしゅ、と空気の抜ける手ごたえは伝わり、いくらもぬるんだ液体を乾いた体へ流し込む。
「その古い概念、上書きしろってんだ」
「つっても今の、何も変わんねーだろ。どうせそういつも」
返して十七分のアゴがこちらの手元を指し示す。
「先がちょいと光ってるだけなんだろ。本当のこと言えよ」
促すが事実なのだから苦笑いしか出てこない。なら「アレだ」と言葉を継ぐ十七分が悔し紛れと冷やかしてみせていた。
「子供の頃、注射のときに、僕の人生もう終わりだーって、大泣きしてたクチだろ。いちいち大げさなんだよ」
ドリンクをラッパ飲む。
その横顔はあまりにも無邪気だ。
「なら」
言わずにはおれなくなっていた。
「見てみるか」
豪快な嚥下に波打っていた喉はそこでぴたり、動きを止める。目玉だけをこちらへ裏返してみせた。やがて口の中に残っていたドリンクを、ひと思いと飲み下す。
「……お、おう」
昼間の通りは相変わらずだ。宅配車が列を成し、歩く人は見当たらない。
星間引っ越し業者の広告を見送ったその後で、飲みかけのボトルを足元へ置いていた。今しがたの立ち回りで頃合いだと、着こむ長袖のTシャツに手をかける。ひと思いと剥ぐようにして脱ぎ去った。口のわりに凝視する十七分からは、どうやらなかなか感想など出てきそうもない。
待つあいだ太陽光と干渉し合う己が手のひらへ視線をやった。ゆっくり拳を握り絞め、感触を確かめつつ捻ってゆく。久しぶりの打撃にかすかと赤味を滲ませた拳は、そこで淡い光に包まれていた。ままに光は上腕から肩へ向かって発光を強くしてゆくと、首周りをさかいに胸からみぞおちへと広がって、左の腰骨までを包み込んでいる。最初、光り始めた肝臓あたりは特に、そこに胴があるのかどうか触れて確かめなければ輪郭があやふやなほど強く発光していた。
「なんだよ、竹から生まれた姫ってか」
ようやく十七分が口を開く。
「アホか」
「すげぇな……。フィラメントでも入ってんじゃねぇの」
言うセンスをどうにかしてやりたい。
「その脳ミソ、焼くぞ」
「て、笑いに逃げるしかないだろうが。察しろよ」
「あのな、気遣うのはお前の方だろうが」
何しろこちらが病人なのである。
「いや忘れるな。そのハナシ」
なら気付けの酒か、思い出したように十七分はボトルの残りをあおってみせた。青って一歩、二歩と近づいてくる。
「痛みとか、ないのかよ」
「眩しい」
「そりゃぁ、な」
恐る恐る背をのぞき込み、見てはいけない物でも見てしまったかのようにすぐさま首をひっこめ歯を剥むき出した。
「てか、こんなになってそれだけかよっ」
「竹から生まれたんでな」
「面白くもねーぞ」
誰がだ。言う代わりにこちらも足元のボトルを拾い上げる。肩へTシャツもまた引っ掛けた。
「これでもう無理だってわかったろ」
また一緒にやろう。
本気で言ったのではないとしても、冗談として言えるほどに分かっていない事を思い知れ、と思う。だが肩をすくめる十七分のとぼけた素振りに変化はなかった。
「よけいスリリング。上等じゃねぇの」
靴先を壁際へと切り返す。
「だからヤってんだろ」
歩み寄って振り返り、もたれかかった壁に背をすりつけて腰を落とした。
「走れりゃ問題ない。今みたいにな」
「そういうつもりで誘ったんじゃねぇよ」
「なら何だよ」
問われて、目覚めた時を過らせる。
思い出しただけだ。
夢が見せたボクシングに「そういえば」と過ったとおり、ここの記憶は確かに夢に「引き出された」感覚があった。
「言ったろうが。思い出させられたんだよ」
言い回しに怪訝な顔を向けて十七分は「誰に」と確かめる。つまりまだ残っているからこそ夢に鼓舞され起こしたこれは行動だとすれば、この中にもまだ「希望」がこびりついている証拠なのだと思う。
蹴散らすべく、傍らのサンドバックへ拳を叩き込んだ。重たげと軋む様がじれったければ、苛立つまま両の拳でえぐり続ける。
「なんだ、もう一ラウンドやるのか」
確かめる十七分へ、うるさい、と口にしかけ、代わる言葉をあてがい投げる。
「お前、ゾフルーザの時、おれんじを追いかけて行ったたよな」
「お、おう」
「追いついたのかよ。あれから連絡が来ない」
とたん怪訝だった十七分は、その顔面をいつも通りのしたり顔へ緩ませていった。ご名答、と片目さえ閉じ、指もまた突き付け声を張る。
「なぁんだ、クロ、その話のために誘ったのかよっ」
そういえば古い玩具でこんな具合にシンバルを叩くサルがいやしなかったか。手もまた打って笑い出した。
「ならもっと俺に殴らせろ、ってか。いやいやぁ、カワイイを通り越して神々しいもんな、おれんじさんっ。なんかもうじっとしてられねーっつうか、じっとしてたら失礼、っつうか。俺のハートが止まらねぇってやつ。だいたい付き合ってない、って言ったのはお前の方だろ」
「何か話したのか」
「ま、多少は、な」
その胡麻化し方で見分けはつく。見て取り十七分も広げた手で、すぐさま低く床を押さえつけてみせた。
「落ち着けって。冗談だよ。それに素性を明かすぞ、とかゲスな話もしてない。なおさら陸へお前を返せとか、友情が気色悪くて俺の口が腐る」
と、サイレンの音が大きさを増す。保安局の車両だ。宅配車の流れに逆らい通りを駆け抜けていた。躾けられたように十七分もろとも目で追いかけ、あちらが見向きもしないなら一拍おいて程よく冷めた話へ戻る。
「なあ、クロ」
それは似合わずやけに落ち着き払った口調だった。
「みんな浮足立ってるが、そもそも移住の原因は何なんだよ。知ってるヤツはどれだけいるんだ。そのワケの分からねぇ理由で降ってわいたみたいに俺たちは、ワリを食わされてるってワケか。納得できねぇな。俺は納得しねぇ。そりゃ、そいつのせいで……」
目で光る体を指し示し、それでも気遣っているつもりか十七分はそれ以上、先を口ごもる。やがて「狩り」の現場でも探すように遠く通りへ視線を投げた。
「お前にはどうなろうと、もう関係ないことかもしれないけどな」
会話が途切れる。
二人だけのジムでサンドバックはまだ、わずかと軋み揺れ続けていた。
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